多分、死ぬこと自体が怖い人間は居ないのだろうとヒカルは思う。だって、普通の人は死んだらどうなるのかなんてまるでわかっていない。その点ヒカルはわかっていた。佐為のように漂い続けるのは漠然と厭だなぁと思う。
つまりはこの、死して尚生きることを恐れるヒカルの志向もまた、死を恐れる生者の不条理と同様のものであるということだ。未来に対する恐怖だ。そして生きている間も未来は大概ヒトには見えないのだということを、忘れていられる能天気さだ。
その時間に対する恐怖こそがヒトの技術を進歩させる。己の思想を、技術を、芸術を、歴史という虚像に残すことに躍起になる。そうして後世に連なってゆく、たとえ名など残さなくても。
それは雲ひとつない紺碧の空に流れる飛行機雲に似ている。
ヒカル:っつーことでこれが長編の発展系。こんな短くなるならさぁ、初めッから……。
「シュレーディンガーの猫ってさ、絶対オレンジ色だったと思うんだ」
ヒカルの話が突如として飛ぶのはいつものこと、それだけだったらアキラもいつもの如くああそうの一言で返しただろうが、ヒカルが量子力学に興味があるなどと想像の埒外だったアキラは珍しくも驚愕を隠さぬ体で顔を上げた。
「……何故」
「そのほうが綺麗だから」
どっと疲れが出た。おざなりに言う。
「ああ、あァもうそれで構わないんじゃないのか。観測推定者が語るのはどうせ仮想猫なんだから」
「でも猫の色の真偽が確定しても、それを認められるかどうかは本当に別の問題なんだ」
ふっと顔を上げた、アキラの視線の先のヒカルは、何かまるで幸せであるかのようなかおをしている。
「でもそれでも、オレンジ色でも緑色でも、オレは猫を好きって言うよ」
でもそれでも、ヒカルには箱を覗くことができないのだと、アキラは思った。箱の中にあるかもしれない、ヒカルの大切な猫の確定した死は確定しない死よりもヒカルには優しくなく、彼は緑もオレンジもきっと見たくはないのだ。
それこそが彼を生かしているのだとしたら、彼はいつまで経っても箱の中を規定し続け、箱の中の現実を見られないのかもしれないが、見ることと見ないことの何が誰を変えるのか、アキラには理解できない不条理だった。
箱を開けてみたとしても、理解したいようにしか理解できないのが人間だ、とアキラはヒカルの絶望にわらう。
越智:使い方を間違ってる…。
腕の中のちいさな身体の震えは、電閃の激しさと連動している。
アキラの腕の中で震えていたあかりは、だがようやく自分の状況を憶い出したのか、ちいさく悲鳴を上げて、御免なさいと言った。離れる身体、だがまだ震えは止まっていない。
雷が怖い、という感覚はアキラには理解できないものだ。それに撃たれて死んだらどうしようという杞憂なのだろうか。
「大丈夫ですよ」
「え?」
「雷が落ちたとしても、背の高いボクのほうに来ますから」
一瞬のちに笑い出したあかりの身体には、恐怖とは別の震えが走っていて、ああ安心したのだな良かったと、アキラは心から思った。
あかり:009の続き。雷が怖いのはきっと死んだらどうしようっていう危惧じゃないと思う。
いやだからこのひとはなんなのよ。
呆れた体で見下ろすヒカルの視線の先には、太陽のかおりをいっぱいに吸い込んだほしたての布団の上で、寝息も立てずに眠りこけるアキラの姿。
日も暮れる頃、突如ヒカルの部屋にやってきて開口一番、打つぞ。それだけで始まったアキラとの対局はヒカルにとっても嬉しいものだったが、打ち終わったと思ったらこれだ。ヒカルが伸びをして一瞬目を離した次の瞬間には、アキラの意識は既にしてなく、取り入れたまま放り出されていた布団の上に倒れていた。
オレだって今日大一番で疲れてんだぞー、自分が安眠しようと思ってほしといたんだぞー。
呟きは、今日生まれた十段様には届かず、ヒカルはただ苦笑して、布団の余ったスペースに横になり、おひさまの熱を嗅いだ。
奈瀬:……いやだから添い寝するアンタも何なのよ天元様。
朝、ちゅくちゅくと鳴き喚いて寒空を奮わせる、ちいさなすずめたちを見る度、この頃のヒカルは幼馴染みの少女を連想する。
今思えば、幼い頃から自分は随分と彼女のことが好きだったのだとそう思える。当時は佐為とアキラのことにかまけすぎていて、否、そういうこと以上に、あまりにも彼女は近すぎて、追い掛けたいだとか一緒に居たいだとか、そういうことを考えつきもしなかったのは、佐為よりもあかりのほうが上だった。
それは、絶対に失うことがないという幻想の結晶だ。そんなことあるはずもないのに、佐為が消えてからも、あかりとの間に横たわる時間はあまりにもヒカルに馴染み深く、ヒカルは彼女との別離だけは考えたことがなかった。
空気のような存在と言ってしまったら表現が古いだろうか、とヒカルは苦笑する。ひとりっこの彼にとっては両親よりも近しい姉弟のような感覚だった。朝、当り前のようにさえずる小鳥のように、当り前のようにヒカルのまわりで軽やかに笑い、邪険にしてもいつのまにか隣に居る。
そういうものなのだと信じていた。いつものように自分のそばにあかるい声でさえずりに来た、彼女が結婚するのだと告げた今でさえ、ヒカルはそれを信じていて、あかりはそれに嬉しそうに無微笑み、ヒカルは今も彼女が大好きだった。
和谷:……もったいねえ!
厭になるほど変わらない人物というものを一人挙げるとしたら、越智にとってそれは塔矢アキラだ。
それは越智が彼に変わってほしいと願っている証拠でもあり、その思いは越智を鬱々と落ち込ませる。簡単だ。彼が進藤ヒカルを見るように、彼に自分のことを見てほしいだけなのだ。しかし彼は変わらない。いつもいつまでも進藤ヒカルのことをしか見ていない。
当時抱いたその感情は、年齢の割にも幼かった越智にはあまりに強烈で、未だ彼にはその感情を恋愛と区別することができない。女の子の細い身体を愛するようになっても、越智はアキラの視線を求めている。
なんだ結局変わっていないのは自分も同じじゃあないか、と越智は自嘲気味にわらう。それは自分が変わりたくないせいだ。彼の正面で彼のことを睨み付け、そして彼に睨め付けられる棋士で在りたいからだ。
ならば自分の想いが叶うことは一生ないと越智は知っている。ヒカルを睨み付けることのできる棋士であることが、アキラの最たる願いだということだからだ。それでいいとも思う。そうすれば自分は一生この感情に目を瞑り、彼を睨み付けていることができるだろう、と。
芦原:chmod? アキラは変わったと思うけどなぁ、666にはなってないかもだけど。
コインロッカを見たとき、佐為は何となくヒトの仕組みがわかったような気がしたものだ。
高々こんな小さな場所を確保するためにも代価を支払う。まんしょんやらあぱーとやらを購うための金額は更に大きい。つまりはそういうことなのだ。この世界は、居場所を確保するために金を払う仕組みなのだ。
佐為は生きている間、そのようなものを支払った憶えはない。土地はいつも佐為の周囲にあって然るべきものだった。
今佐為は、何を支払ったとて購えない居場所を欲して、だが手に入らないでいる。初めての経験は切なく、そうして己が搾取してきた、当時はヒトとさえ思わなかった下の人々のことを思う。
ヒカル:御貴族様だもんなぁ……。
くらく澱んだ眸には虚空しか映っていない。幼いアキラにとってそれは恐怖だった。いつか自分もそうなるのだろうことが怖いのではない。死を知るほどアキラはまだ大人ではない。
ただ闇が怖かった。
蝉の死骸だった。複眼がすべて、地に落ち込んだように暗い。それはアキラを見詰める人々の視線に良く似ていた。塔矢行洋の息子、それを知る人々に向けられる、媚びと嫉妬と嘲りの混ざった、人形を見るかのような冷たい視線。塔矢行洋の従属物としてしか認識していない、昏く濁った硝子玉。
だから、塔矢アキラという名も知らぬ気な、あかるい色の眸をした子供の存在は、ただそれだけでも嬉しかったのだ。塔矢の名も知らず、ただアキラを追い求めた子供は今、煩瑣く鳴く蝉を捕まえてその首根っこを掴み、誇らしげにアキラに笑いかけている。
ヒカル:……もしかしてオマエ、セミ捕まえたこともないのかッ?
いつもの如く若旦那の許可も得ずに、勝手知ったる感で裏口に回り、庭から塔矢家に入ろうとしたところ。その光景に、ヒカルは目を見開いて身体を強張らせた。
この家の本当の主が帰ってきていたらしい。縁側に腰を下ろし、明子夫人の片足を手にして、どうやら爪を切っている。桜貝色のペディキュアが均等に塗られた、ちいさな爪、細い足首。それを手にとって、行洋名人は爪を整えている。
その逆、夫人が名人の爪を切るところだったらヒカルに想像できないこともなく、多分に固まることなどなかったろうが、目の前の光景はただただヒカルの想像の域を超えていた。ただ綺麗だ、と思った。嗚呼あの生き物はやはり塔矢アキラと同じ種類の生き物なのだ、と思うと同時に納得し、身体の強張りも解けた。
さりとてそのような夫婦の現場を目撃してしまったことに対する気恥ずかしさ、或いは後ろめたさは別物であり、そうっと、そうっと。ヒカルにしては珍しく、足音も立てずに気配を殺して歩き去ろうとしたところ。
「進藤? 入らないのか」
そのような非日常など気にも留めないらしいこの家のお坊ちゃんに声を掛けられたのだった。
森下:……恥ずかしい奴だと思ってたが、息子もなのか……。
切子硝子、と聞いていたもので、ベネチアングラスというと何となく江戸切子や薩摩切子のようなものをアキラは想像していたものだったが、実際に母から見せられたベネチアングラスは、やわらかな曲線を纏った、水の中にダリの時計を内包したかのような、そんな硝子だった。
ベネチアングラスのビーズよ。そう言って明子はその硝子を耳に飾り、それがイヤリングなのだと知らしめる。主張の激しい色合いを、バロックパール調の女性的な不定形が穏やかに見せていた。
クリスタルのような鋭い切り口の切子ベネチアングラスもあるけれど、私はこちらのほうが好きなの。そう微笑んだ明子の趣味は、アキラにとってはわかりやすい。確かに明子には、硬質な切子細工よりも、たおやかな練り硝子のほうが似合うだろう。
アキラが客に常に微笑んでいることと良く似ている。鎧は柔らかく、相手に気取られぬように、そうして美しく在らねばならないのだと、それはアキラが明子に学んだものだ。
硬質で剛く、だからこそ脆いものは危ないの。それが愛しいのだけれども。
明子がそう、行洋を見て微笑んだ情景は、今もアキラの脳裏に焼き付いている。父の鎧は戦うための鎧だ。母の鎧は守るための鎧だ。自分は戦うに際しては鎧など要らない。ならば碁を守るためだけに纏えば良いのだ。
そう思い、戦うためにアキラは鎧を脱いで戦場に出てゆく。
緒方:……桑原のジジィのようにさえならないでいてくれたら良い。