何の因果か塔矢家の大掃除を手伝わされた芦原が、戸棚の奥深くから発掘したクレヨンには、芦原自身も見憶えがあった。
「これ、アキラのだろ」
「え?」
「ほら、幼稚園のとき使ってた」
「……そうだっけ?」
当の持ち主は記憶にないらしい。首を傾げているアキラをよそに、芦原は何故か子供のようにはしゃいだ体で、それの蓋を開けている。
「ああ、やっぱりアキラのだ」
「なんでそんな吹き出しながら言うの」
「だって、ほら」
本当に幼児が使用していたのかも疑問に思えるほど綺麗に整ったクレヨンのうち、黒と白の二本だけが今にも消えそうに擦り減っていた。
ヒカル:白色で白石って描いてもちゃんと見えんのか?
階段を一緒に落ちたら人格が入れ替わっていた、などとSFだかショートショートだかとにかく小説でしかあり得ないだろう状況に、見事に陥っている自分達は何なのだろうとヒカルはおもう。
意外とそそっかしいアキラが階段を踏み外し、その下を歩いていたヒカルが受け止めようとした、そこまでは良かったのだが結局支えきれずに、ふたりして階段を転げ落ちたのがつい一時間ほど前のこと。痛む頭を抱えながら起き上がったら、すまなかった、と謝る自分の顔にぎょっとして引いたヒカルの身体は、アキラのものになっていた。
少年達は途方に暮れて顔を見合す。
「どうする?」
「誰か事情を話しても大丈夫そうな人に……」
「誰が信じるというんだ、こんな莫迦げた話」
「う、ううん……」
「…………」
「…………」
「……取り敢えず、打つか」
「……そうだな」
「なら移動しよう」
「……よく考えりゃさ」
「なんだ」
「色々と生活で不具合出たってさ、オレ達打てりゃ良いじゃん」
「……それもそうか」
そうして変わらぬ日々。
社:ちったぁ他ンことも気にしろや自分ら。
くだらない男だ、と金子は思う。
まるで荒野のように荒れている。潤いがない。それはその少年の余裕のなさがそう見せているのだとわかっている。この乾いた男は、水を求めるかのように、自分を潤してくれる人間にしか心を開かない。広がる荒野の上にできたひび割れは、今でも拡がり続けているのだろうか。今尚、それを癒そうと躍起にならねばならないのだろうか。
なんと餓鬼なのだ、とおもう。愛されなければ愛すことができないなどと、中学生にもなって何を甘たれた態度なのだろうとおもう。
それ以上に、そんな甘えを放っておけない自分の態度こそが大人になれていない、と金子は諦めにも近く再びシャープペンシルを持ち上げ、公式をノートに纏めていった。くだらない男、関わりたくない男と、思うのならぱ本当に放っておけば良いのだ。それができないのは誰のせいでもない、自分に懐くあの男のせいでもない、あの男を懐かせておきたい自分のせいなのだと、賢しい彼女は認めてしまっている。
ノートの表紙には、三谷祐輝と書かれていた。
加賀:愛されないと愛せないのも、愛されると愛せないのも、一緒だろ。
初めて吸った銘柄が、そういえばマルボロだったと緒方は昔を懐かしんだ。
未成年の喫煙を咎めるつもりも資格も緒方にはないが、しかし咽せているお子様からはやはり取り上げるべきなのだろうかと思ってみたりもする。ほそい指から取り上げて、吸ったマルボロは記憶にある味より大分軽いような気がした。
間接キスに厭そうな貌をして踵を返した少年の、まだ大人になっていない華奢な背中は、だがここ数年で大分広く大きくなっている。いつか彼もこの味を軽く感じるようになるのだろうか。
「おい進藤。まずいと思ってるのなら俺に寄越せ」
潔く箱ごと放り投げられて、少年の健やかな成長を思い緒方は笑った。
アキラ:不良少年はともかく、不良中年はみっともないの極みですよ。
どうしてもスイッチが入ってしまうときが未だヒカルにはある。何の、と訊かれても明確に答えようのないスイッチだが、それが入るとどうにもあの想い出深い部屋にじっとしていることができず、街にふらりと出てしまう。
あの部屋に居たらあそこに捕われて出られなくなってしまうのではないだろうかとの恐怖がヒカルにはある。出られなくなって何が悪いとおもうヒカルも居る。大切な人物との想い出を巧く昇華したほうだと思いこそすれ、時折押し寄せる漣のような切なさは生きている限り仕方のないものなのかもしれない。生の証は時にヒカルを苛み、何かを求めてヒカルは街に出る。
往来の激しい通りで待てば、誰かしらが釣れることを既にヒカルは知っていた。求めるものが人肌ではないと知りつつも、人間のぬくもりは一時の安らぎと、幽霊にはなかった確かな実感をヒカルの命に刻み付けた。
今日も今日とてヒカルが視線を遣っていた黒髪の長い彼女は、困ったような貌をして彼を拾ってくれようとしている。ああ困ったな、似ているのは困る、とヒカルも困惑していたところに、髪質だけならばもっと似ている観のライバルに声を掛けられた。
進藤? こんなところで何を……ああ失礼、デート中か。
そんなことを宣うてとっとと去ろうとしている王子様は、彼女達と違いヒカルを拾うつもりなど更々ないのがわかりやすすぎて、ヒカルの心に若干の苛立ちを湧き起こさせる。御免ね、とその長い髪の彼女に謝り、塔矢を追い掛けた。
なんなんだ君は。手首を掴んだヒカルを訝しげに覗き込む、夜より深い色の眸に、釣られたのは自分だったのだと知る。
和谷:王子様って形容は誰がしたんだオイ。
カシャリ。
奈瀬の持ってきたオレンジ色の丸いポラロイドカメラで撮られたヒカルの後ろに、薄ぼんやりと白い霧のようなものが漂っていて、驚愕に見開かれたままの瞳で後ろを振り仰いだら、むこうから漂ってきていた緒方の吸う煙草の紫煙だった。
その白いスーツが妙に気に障って、煙草を吸い続ける後姿にていっ! とタックルを仕掛けたら、このクソガキ、と思い切り頭をはたかれた。
カシャリ。また撮られたらしいとヒカルの耳は感知する。もう出来上がった写真に白いものが纏わりついていても寂しくはない、と叩かれた頭をさすりながらヒカルは笑った。
奈瀬:うーん、どっちが受けとも決めがたいわね。
ピンと弓を張りつめたかのように気が張り巡らされている、それが常であり自然体であるという奇妙なイキモノが、いま、進藤ヒカルの目の前に座っている。
そのイキモノは、主の性格そのままに雑然と雑多な、それでいて何処か統一感を出しているヒカルの部屋の中で、見事に自己主張をしていて、自分を見ろと言わんばかりの有様である。背筋を伸ばし、正座をし、朗々と腹から声を発し、何処のお侍さんよ? とヒカルが問いかけたくなるのもむべなるかな。それでいて、そんな彼を注視していようものならば、検討に集中しろ、とお叱りが飛んでくるのは目に見えていた。
普段であったらヒカルにしても既にして慣れたもので、彼の威風堂々たる際立った態度にも気を取られることなどなかったが、己以外にその存在に注目している人間が居る、という事実をして、ヒカルの心を落ち着かなくさせている。
そのサムライこと塔矢アキラが、何の拍子にかヒカルの家を訪れるようになって暫く経つが、他人を交えて佐為との想い出深いこの碁盤で打ったことなど今迄ただの一度もない。じっと盤面を見遣るアキラとあかりに、ヒカルは如何とも収まりの悪いような心持ちである。
佐為が打てなくなるまで彼の特殊性をまるで理解していなかったように、自分はアキラの特殊性もまた、慣れ親しみすぎてまるで理解していなかったのだと、アキラの態度に緊張を隠せないあかりを見てヒカルは思う。
佐為のように毀れる前に気付けて良かった、と思うのにこの居心地の悪さはなんだろうと思えば、いま自分の気が張っておらず弦の弛んだ弓のようになっているせいだ、とヒカルは結論付けて、おっしゃ! と奇妙な掛け声と共に、ふたりの視線の注がれる佐為の碁盤を食い入るように見詰めた。
あかり:並の女の子よりずっと美人なふたりに囲まれて緊張したぁ。
半ば無理矢理連れられていったパチンコ屋は、ただ耳に煩瑣いたけで何の得にもならない体験だったと筒井は顔をしかめている。元凶の加賀は、今日も儲かった儲かった、などと鼻歌を歌っている。
本当に儲かったの? 加賀の人生にとって。
そう訊くと加賀は厭そうな貌をして一言。人生の為になんかなるわきゃねぇだろ、だから良いんだ。
奨励会に入ってからの加賀の気迫が落ちていることは筒井も知っている。なまじ才能があったからこそ、甘い夢と引くことのできない意地は、加賀の精神を濁し続けている。限界を見極めることと限界を規定してしまうことは良く似すぎていて、加賀は身動きが取れなくなっている。そんな加賀を筒井はとうに見抜いている。
「玉の一粒が軽いよね」
「あん?」
「パチンコ。玉のひとつやふたつ、床に転がっても気にする人なんて居ない」
「ああ……」
これと同じだな。そう呟いて財布を取り出した加賀が、何をするのかと指先を見遣れば一枚、二枚。今日儲けたはずの札束を取り出して、驚く筒井を尻目に天に放り投げた。
突風に浚われた四角い紙片が遠ざかってゆく、それを見詰める加賀の赤茶けた髪はたなびいて、それに見え隠れする眸は迷いを孕もうが憂いを抱えようが、力強いままだった。
筒井:強い風で初めて気付いたんだけど、加賀って意外と生え際ヤバいんだね。
震える少女の肩を抱いている、今の自分の状況がアキラ自身、まだ呑み込めない。
どうしようもないといった体で縋り付いてきたあかりを、反射のように思わず抱き締めてしまった。細い肩があまりにもあっさりと回した腕に収まってしまったことに、恐怖すら覚える。自分は力を入れすぎなかったろうか、このやわやわしい身体は折れはしなかったろうか。そんな埒もないことを考える。
出逢ったのは偶然だった。塔矢君? 街で擦れ違った少女のこえに、多少目を丸くして振り返る。雑誌やテレビでも若手棋士が取り上げられるようになってきた昨今、不意に声を掛けられることも少なからずあったが、君付けで呼ばれたことはない。
ああ、やっぱり塔矢君。そう言って微笑んだ少女の面差しは何処かヒカルにも似て、確かに憶えはあったが名前が出るほどではない。何と返そうか逡巡している間に、彼女は葉瀬中で囲碁部に居た藤崎あかりですと名乗った。
アキラはそれに納得する。中学生の頃、恐らく何度か顔を見たのだろう少女は、それ以上にヒカルの口から何度も聞かされた人物の名と同じでアキラに感慨を抱かせる。
そのまま道端で何とはなしに話し込んでいたら、いつのまにやら晴れていた空に重くのしかかる影、重い雲。夕立が来そうだからこの辺で、とアキラが切り出そうかとしたところに、突如として鳴り響いた雷。光と同時だった。
近いな、と思い天を仰ぐ。今にも雨の落ちてきそうな空から顔を戻せば、少女のかおは強張っていた。藤崎さん? 訝しんでアキラが声を掛けた途端に再び鳴った、先程よりも更に近いおおきなかみなり。今度こそちいさな悲鳴が聞こえた。
そうして身体の中によろけるようにして倒れ込んできた少女を抱き留めたアキラの感想が冒頭だった。男女の身体の差などアキラはあまり気にしたことがなかったが、こうしてふれるおんなのこの身体はやわらかく小さく、こんな華奢な身体でどうしてヒカルを受け止められるのだろうと不思議におもう。
身長の急激に伸びた少年と、いま腕の中に収まっているほそい少女と、アキラは奇妙な感動を以てその腕にちからを篭めた。
ヒカル:……むっつりスケベ。
今日の対戦相手が苦々しげに立ち上がり、去っていったあとに残ったのは、何錠かの薬だった。なんだこれ? 勝ちを奪ったヒカルが手に取ったその薬には、トランキライザーと書かれていた。ヒカルでさえ知るその名前に、おいまずいんじゃないのかこれ、と同じく勝ちを収めて今にも部屋を出ていかんとするアキラを捕まえて薬を見せた。
「トランキライザ? 何がまずいんだい」
「だってこれ、精神分裂症とかの薬だろ」
「ああ……それは違うよ。君の言っているのはメジャトランキライザ。これはマイナトランキライザだから、軽い抗鬱薬、抗不安薬としてよく用いられるんだ」
「……ええと、つまりそこまでこの人が追い詰められてるわけじゃないってことか?」
「まぁ、そうだね。なんだ、もしかして自分のせいとか思ってしまったのか」
「別にオレひとりのせいじゃないだろうけどさ……っておまえ、なんでそんなに詳しいの」
まさかこいつも、と思いでもしたのか、不安そうなかおをしたヒカルにアキラはわらう。
「昔知り合いがちょっとね。ボクなら絶対に薬に頼ったりはしないけど」
絶対ってなんだ絶対って。と内心を見透かされて不機嫌そうに呟いたヒカルに真っ直ぐ向かい合って、アキラは言う。
「だって本当に人生を脅かすほどの不安からは、薬なんか使ったって逃れられるはずもないから」
ヒカルには馴染み深い、あの眸で言い切るアキラは今日もヒカルを恐怖に陥れ、それを快感と感じるあたり、自分も薬では駄目だとヒカルはおもう。
伊角:鬱になる塔矢アキラ……進藤に「もう打たない」とか言わせれば見られるかな。