ベンダなるファイルが今、ヒカルの手許に何故かある。目の前には真っ白くのっぺりとした人型のベンディングマシン。ベンダファイルに情報を書き込めば、そのマシンが望み通りの仕様になるという。それがためのベンダファイル。そのマシンはファイルを適用することで、転送者の望むものを望むまま出してくれる、理想の自動販売機。
ファイルに佐為、と書き込み、転送する。カタチを変えるベンディングマシン。白は白のままで、懐かしいイメージが形成されてゆく様をうっとりと眺める。
やがて完成した姿に、さてでは何を購おうか、とノビ太君よろしく考え出して、はた。彼のあの傍迷惑な情熱以外にほしいものなど何もないと気付き、ヒカルは呆然とその白い機械を見詰めた。
社:周囲の誰にも認められん状況で、それでも打ちたい思うんは罪なんか。
「鍵がねぇ!」
深夜の一時。和谷義高はアパート自室の前で叫んでいた。
酔っ払いには羞恥も理性もない。ない、ないぞと叫ぶ近所迷惑は、ジーンズのポケットやらジャケットのポケットやらを盛大にひっくり返し、小銭や小物を落としてはじゃらじゃらとこれまた煩瑣く鳴らしている。
「かーぎー……」
しまいには疲れ果てて当の本人も地に落ちる。要は半分潰れかけている。このままドアに凭れて眠ることも可能なほどには、和谷は今酔っている。
ずりずりとドアにへばりついた視線の先には錆びかけた鍵穴。これにぴたりと当て嵌まる小さな代物、その不在に和谷は今悩まされている。
「合鍵でも渡しときゃ良かったなぁ……」
誰に、とは出てこない。合鍵を渡すような、渡したくなるような相手は居ない。それはまるでこの鍵穴に似ていると和谷はおもう。ぴったりと嵌る相手を持たない、ちいさな穴。
ヒカル:あれ? 片想いの彼女はどうし……や、何でもありませーん……。
岸本の婚約者は白くほそい指でその花を手折り、これが好きなのだと華やかに微笑んだ。ちいさな残酷さは彼女に良く似合っていたし、道端の花ひとつやふたつで騒ぐほど岸本か花好きということもない。
ただ、彼女のゆびに収まる白い花の形は何処か植物というよりは動物的に見えて、眉根を寄せて何だろうと良く良く見れば何のことはない、鷺草だった。鳥の形、だったわけか。と思い、だが違う、と思い直す。
伸びやかに残り高く、真っ白な姿で飛翔しようとする、その様は。
「……ああ」
「どうしたの?」
「ちょっとな……昔を思い出して」
「昔の恋人とか」
「何故?」
「そういう目、してたわ」
「……んなものよりも」
「え?」
「いや。何でもない」
そんなものよりも、大切なものがあったのならば、自分も彼のように飛翔できたのだろうか。
諦めたことに後悔が全くないと言えば嘘になるが、岸本に本当に碁を諦めさせた原因は院生時代の想い出でも何でもなく、真っ直ぐに天目指して駆け上がっていった一羽の白い鳥で、今尚飛翔し続ける彼を見ていると、悔恨より納得が先に来て、静かに岸本は今の自分を受け入れられ、それは肯定の心地好さがあった。
日高:あら。あんたの初恋って塔矢じゃなかったの。
人混みに度々転びそうになる浴衣姿の幼馴染みを、気遣ってというよりははぐれたら面倒だと手を引いたが、記憶にあるよりもずっと小さく細くなってしまったおんなのこの手に、どきりと心臓を震わせる。
あかりが小さくなったのではない、ヒカルが大きくなったのだ。それは以前あかりにも言われたことだったが、あまり実感はしていなかった。このときまで。
成長しているのだ自分は。その自覚はヒカルにとって何処か誇らしく、また何処か切なく苦しい。それは成長と懸け離れたところに居た幽霊に対する思慕から来るものだ。こんな風に手を繋ぐこともできなかった存在の不確かさに対する絶望だ。
そっと絡める指に力を入れたら、あかりの緊張が伝わってきて思わず苦笑する。生きている人間なんて簡単なものだ、絶対にそういう感情にはならないだろうと思っていた幼馴染みにさえ、こんな軽い肉体の接触で簡単にその気になれる。
それはとても哀しい、とヒカルはふれることのできなかった幽霊に、或いは今なら発情できるかもしれないから許して、とちいさく呟いた。
久美子:進藤君って時々ホントに莫迦じゃないのかと思っちゃう……。
ヒカルが道で擦れ違ったときに視線で追う女性のタイプが、必ずしも顔の美醜にあるのではなく、と或る一定の法則があることに気が付いて和谷は顔をしかめる。
それは髪の長い女だった。否、女に限らない。兎にも角にも、今時珍しいほど黒くて真っ直ぐで長い髪をしていたら、ヒカルは誰と居るときであろうとその人物を視線で追う。白い服でも着ていたら完璧。それはまるで強迫観念のようにさえ見え、得体の知れない違和感にいつも和谷は寒気を覚える。
ヒカルと和谷は仲が良い。それは親友というには些か許し合えない部分もあったが、誰よりも気遣いなく遠慮なく、付き合える相手であることは確かだった。
だがそれでも、深い部分のことはわからない。ヒカルには底の知れないときがある。考えを隠しているというより何を考えているのか、ヒカルの行動原理の根本が和谷には、そして和谷とヒカルの友人達には読み切れない。
ただ、彼が何某かに縛られているらしいことは感じていた。それは或いは碁の才とさえ言える類のものかもしれない、と和谷は昏くおもう。ヒカルが忘れようとしても、碁のほうがヒカルを離さない、そんな風に和谷には見える。それは塔矢アキラがヒカルを逃がしはしないように。
彼の才が彼を縛り付けているというのならば、髪の長い女もまた、ヒカルを縛り付ける才に関係した、
「……sai、だって?」
自分のこえに驚く。
考えたこともなかった。おれ、と名乗っていたが、子供なのだとしたら男女すら怪しい可能性もあったのだ。
髪の長い女が、或いは。
越智:和谷って勘だけは良いよね……。
いつものように、或いはいつも以上に激しく、ヒカルとアキラが碁会所で、この手がどうのあの手がどうの、侃々諤々していたときのことだった。市河に、はい、と紅茶と共に出されたのは、ショートケーキ。それはスポンジの上にたっぷりの生クリームと大振りの苺が鎮座する、見事なまでに苺ショートケーキとしか言いようのない代物。貧相な紛い物の多い中、それはまさに苺ショートの王道をゆく、手作りの一品だった。
アキラはこれに見憶えがある。毎年一回、きっちりと年に一度、アキラが目にしてきた代物だ。間違えようもない。
「市河さん……作ったの?」
「そうよ?」
うおー、うまそーすげー! と騒ぐヒカルはふたりの会話なぞ聞いちゃねぇ。目を輝かせ、食べて良い? 食べて良い? と市河の許可を待っているその様は、おあずけを食らった仔犬のようだ。アキラは呆れる。それ以上に微笑ましくおもう。
「おかわりたくさんあるから食べてね、進藤君」
ぶんぶんと頭を引き千切らんばかりに縦に振るヒカルと、対照的にぎょっとして市河を振り返るアキラは、今日何処までも噛み合っていなかった。たった今迄は。
市河のそれは、毎年アキラの誕生日に振舞われたものだった。市河がヒカルに手渡したということは、
「ひょっとして……君の誕生日って」
「今日だい!」
憮然とケーキを頬張るこどもが、果して成長しているのか否かはアキラには判断つけかねたが、少なくとも碁の腕に関してのみ言えば認めざるを得なくて、歳下になってしまったもうひとりのこどももまた複雑な表情になった。
和谷:「きょうだい(変換自由)」っつったって、兄弟とか姉妹とか姉弟とか……。
きっとしげ子ちゃんがもっと大人になればわかるよ。
その言葉に、瞬時に剣呑な貌になったしげ子を見て、あ、まずいかなと思った次の瞬間には冴木の左頬から盛大な音がした。殴られたのだ、と理解したときにはもう、しげ子のかおには涙が浮かんでいる。
いつかわかる、というのは希望めいた言葉ではなかったろうか、と半ば呆然と睨み上げてくる子供を見ていると、それは差別だと言い切られた。私が大人になって尚わからなかったら、それは経験不足だと嘲笑ってくれてかまわないけど、子供だというその属性だけで、別のイキモノであるかのように扱われるのは堪らない。ほしいのは不確かな未来じゃない、今の気持ちだ。
そう一息に叫んで彼女は、誰に向けるよりも強い眸で冴木を睨み付け、くるりと短いスカートの裾を翻してきびすを返した、脚も背中もほそく小さく、ふれることさえ躊躇われるものだった。
和谷:……頑張れ冴木さん。
地上に聳えるビル群だけでも驚愕に値するというのに、更にその地下には移動機関が存在しているとなると、もはや佐為の想像の埒外である。ヒカルに連れられて訪れたチカテツとやらは本当に地下に存在していて、どうしてこんな穴だらけで上の建物は倒れてこないのだと頭を捻ることしきりだった。
地上を高速で走る乗り物が幾つも連なったその乗り物が、ちかてつとやららしい。乗ってみて成程、と納得する。地下にあるからこそ、上の建物を一切気にせず、効率よく移動することが可能なのだろう。
そんなに急いで何処に行こうというのだろう、と雅なる貴族はぼんやりおもう。晴れた空に小鳥の影を見たり、花の香りに季節を感じたり、ヒカルもそうだが現代人はそのようなことをすることが全くといって良いほどなく、佐為は人々の意識の変化というものを実感せざるを得ない。目的地から目的地へ、常に急いて、あまつさえこんな日の射し込まない地下を急いで、それでいて暇を持て余し享楽に身を委ねる。
佐為には理解できない。じぇねれえしょんぎゃっぷとは斯様な代物か、と先日てれびで見た単語を思い返していたら、ヒカルが進行方向に向かって駆け出した。更に急いで何を求める、と眉をひそめつつも仕方なく付いてゆくと、先頭車両の先頭も良いところ、運転手の操縦が見える位置まで行ったと思ったら、佐為見ろとばかりにヒカルは先を指差す。
ガラス越しに覗き込んだ地下鉄の真っ暗な線路は、突如としてパァと光のむこうにたくさんの人と色とを内包する駅を出現させ、佐為の目を丸くさせる。
な、綺麗だろ。ヒカルはそう言って佐為越しに駅を見遣った。
ヒカル:そういえば碁を始めてから、暇潰しって概念なくなったなぁ。
オムライスを食べたことがない、と言ったアキラに大笑いしたヒカルの横で、じゃあ作ってあげる、と身を乗り出したのがあかりだった。なかば冗談も含まれていたが、いいなそれ腹減ったと騒ぐヒカルのお陰ですぐに実現となった。
アキラは卵を溶くあかりの手許をじっと見詰めている。おもしろいひと、とあかりは思う。いつだったかヒカルに聞いたことがあった。あれは集中に長けすぎていて何でも吸収しすぎるから、碁以外に掛ける時間を敢えて極端になくしてるんだ、と。
これだけ真剣に見ているということはつまり、この次にはあかりよりも余程上手に作れてしまう可能性も高いということだ。成程その能力は、碁に人生を捧げた人間には余計なものだろうとあかりは思う。
あかりの作るオムライスは、薄焼き卵で御飯を包むタイプではない。チキンライスの上に半熟のオムレツを乗せ、包丁で上側を半分に割って御飯の上に広げる作りだ。まあるく丸めたあかい御飯の上に、さくりと広がったやわらかな卵の様、目を丸くしているアキラにあかりは笑う。ふと思いついてケチャップを手に取った。
黄色い卵の上に顔を描く。吹き出したアキラはこの次、ヒカルの顔の描かれたオムライスを作るのだろう。
明子:まぁまぁ、あれは進藤さんの顔だったのね。
小指の爪が割れた。
あかりは今も囲碁を続けている。だから人差し指は伸ばせない、とすると格好悪くて他の指も伸ばせない。それでも小指ぐらいなら可愛らしいだろうか、と、小指だけはずっと伸ばし続けていた。
最近はパールの入った薄緑のマニキュアがお好みだった。ぽきりとペーパームーンの形に割れた若草色の爪。これから幾らでも萌え出づる、わかいいのち。
ヒカル:なんだその悪魔みたいな爪ー。