常に微笑んでいるイメージのある女性だった。実際彼女が笑みを絶やしたところを、彼は見たことがない。どうしてそんなに幸せそうにしていられるのです。そう訊いたことがあったが、彼女は笑顔のまま、幸せにしているから笑っていられるのです、と不思議な応えを返した。
じきにその笑顔が鎧なのだと気付いたのは、いつも彼女を視線で追い掛けていたせいだろうか。笑顔に騙される人間を振り落としているのだと、わかったときには彼も既にして彼女のふるいからは振り落とされていた。
迷っている暇などなかった。あなたを本当に幸せにさせてください。交際の申し込みどころか友人の過程さえ素っ飛ばしてプロポーズした行洋に、きょとんと目を丸め、そうして彼女は幸せかどうかは行洋にはわからないままであったが、とにかくも楽しそうに、本当に楽しそうに声を上げて笑った。
明子:頭に桜の花びらを乗せてプロポーズしてきた人は初めてでしたの。
「ガードレールってさ」
「なんだい」
「ガードレールの外を守ってるのかな、それとも中を守ってるのかな」
「中じゃないかな。日本は法的に歩行者優先だから」
「え? 歩行者守るんだったら、外を守ってることになんない?」
「……歩行者側が中だとずっとボクは思っていたが」
「歩行者側が外だとずっと思ってたけど」
「…………」
「…………」
「……内と外、という分け方自体、あまり好きじゃないかな」
「そうだな。けど外がないと内も見れねぇからなぁ」
「え。内がないと外が見られないんじゃなくて?」
「外がないと主客分離できないだろ?」
「内がないとそもそも認識することもできないだろう?」
「…………」
「…………」
「境界線なんて曖昧なものか」
「曖昧なものを守るためにあるのかな、ガードレールは」
「ぎゃー。壊れちまえ壊れちまえそんな形骸」
「……無理矢理壊してくれた人も居たね、そういえば」
「……おまえだってそうだろ」
越智:主客分離の意味をちゃんとわかっているのか?
深夜番組を見たことがない、というお坊ちゃんに大笑いして、おっしゃ一緒に見るでー! と妙に意気込んで社は、対照的に乗り気でない、普段は十一時には就寝しているアキラを、無理に深夜まで起こしておいた。
そうして始まった如何わしい番組に、くだらないの一言で次の瞬間には寝息を立て始めたお坊ちゃまにツッコミを入れる間もあらばこそ。もはやハリセンでも持ち出さないと起きないレベルで熟睡しているアキラに、社はがくりと肩を落とした。
悩ましく身体をくねらせる水着美女を余所に、くぅくぅと床に転がって寝扱けるアキラに視線を遣る。その貌がまたテレビの素人女優などより余程美人で腹が立つ、と社はアキラの髪を弾いたが、当然その程度では身動ぎもしない。
こんな顔が女抱くんか、としみじみ眺めてしまったら、うっかりテレビの内容と被らせてしまい、百合な想像に顔が火照って慌てて視線を逸らす。こういう貌をさせるのは塔矢のほうの予定だったのに、と計画倒れに床を叩いたが後の祭。テレビの中で女はきゃらきゃらと笑っていた。
ヒカル:……社君、レズもので良い奴、確か本田さんが持ってたから聞いといてあげる……。
和谷のよく行くビデオレンタル屋に、新しいバイトの子が入ったらしい。
セミロングの可愛らしい子だ、と和谷が上機嫌で言うので、どれどれ、と彼の家に泊まりにいくついでに冴木はそのレンタルショップについていった。
エロビデオ借りらんなくなったのはちょっとなぁと言う、和谷の伸びた鼻の下を横目に冴木は彼女を観察したが、成程確かに美人である。美人ではある、が。
「……和谷」
「なに?」
「おまえ、ああいうのがタイプなわけ?」
「え、可愛くない?」
「可愛いけど」
可愛らしいが、おまえのよく知る奈瀬に外見や雰囲気がそっくりだぞ。
とは本人がまるで気付いてなさそうなので言えず、適当にごまかして冴木は結局泊まりをやめた。
相手が同じ場所を見詰めていないと駄目な男も居る。同じ場所を見詰めていては駄目な男も居る。和谷は後者なのだろう、と冴木はもうひとりの弟弟子との差をおもった。
奈瀬:和谷よりは冴木さんのが好みだな、私は。
ニューラルネットワークのソフト的なシミュレーションモデルを拝見する機会に恵まれて越智は、どうだろう彼も興味があるだろうかとアキラを誘ってみたら、意外にもあっさりと承諾の意を返された。
実際のところはさておき、理論的にはハードに依存せず、ただ情報として存在し、コンピュータの中で生命のような振る舞いを見せるアーティフィシャルライフを、特にその局所的接触活動を、アキラはひどく優しげとさえ言える眸で見詰め、越智はそんなアキラをこそ見詰める。あなたがこういうことにそんなに興味があるなんて知らなかった。そう越智が言うと、ハード的なALであったのならば或いはお断りしていたかもしれない、とアキラは諦念にも似た笑みを見せる。
ハードとしてのニューラルネットワークシステムのほうが、技術的な面から言えば上であり新しい。実体を持つことにより付加される不確定要素も捨て難い、それでもアキラはハードを持たぬソフトに興味を惹かれると言う。
肉体に依存しない精神が見たいのだと、ちいさなこえで呟いたアキラの手首を知らず掴んでしまって越智は、そのぬくもりに泣きたいような気分になり、アキラの言いたいことが何となくわかってしまったような気がした。
芦原:アキラ、モテモテじゃないか!
シャム双生児の分離に一応の成功を見たとの記事に付けられていたキャッチコピィが、「完全な生か、死か。」というものだった。ヒカルは泣きたい気分になる。自らの精神のシャム双生児だった、うつくしい千年幽霊を思い浮かべる。
近頃急激に伸びて痛みを訴える手足を揺らす。多分に霊障とやらで成長を堰き止められていたヒカルの肉体。世間はもしそんな彼等が見えていたとしたら、やはり切り離すべきだと躍起になったのだろうか。
最も切り離したいと心の奥底で望んでいたのは自分なのに、とヒカルは自嘲気味に口端を歪める。
子供は自我と他者の区別を付けられない。自分の周りに居る人間は自分に等しく、友人はただそばに居る人間であり、親は子供の世界の大半だ。佐為と出逢ったとき、ヒカルはまだ齢十二で、その区別がはっきりと付いていなかった。だからこそ佐為の趣味に眉をひそめるこそすれ、その存在を難なく受け入れられた。佐為は当初、ヒカルにとって他人ではなく、両親や友人がそうであったように、まさに自分の一部だった。
そんな子供の自我を破ったのがアキラだ、と今ならヒカルははっきりと言える。真剣になったことがないのか、とヒカルがヒカルであることを突き付けてきた少年を、恐らくヒカルは初めて自分とは全く違う人間だと認識し、偶々そばに居るからではない、その人間ではなければならないのだと、この自分でなければならないのだと、思わさせられたのだ。彼はヒカルにとって世界で初めて出遭った異邦人だった。
初めて他者を他者として認識した、という点から言えば、アキラも同様だろう。そうして彼等は混沌とした子供の世界からの独立を告げ、ヒカルはその瞬間から佐為を切り離すことを何処かではっきりと決めていた。アキラと打つのは自分だと自負し、佐為を自分として受け入れることができないのならば、世界と相対するのはただヒカルひとりでしかあり得なかった。佐為を世界に存在させるために必要な肉体は、ただヒカルのものでしかなかった。
そうしてヒカルがヒカルとして生きるために切り離さざるを得なかった、佐為という不可分だったヒカルの双生児は、その天命を閉じたのだ。まさに完全な自らの生を生きるため、ヒカルは自らの精神から佐為を切り離すことを望んだのだ。
未だこれほどまでに心が痛もうとも。
幻肢痛のようだとヒカルはおもう。それでも確かに繋がっていた、自分自身としても他人としても確かに何処かで繋がっていた佐為を、失ってもう彼の喜びも哀しみも受け止められなくなって、だがそれでもヒカルは佐為のこえを聞く。
そうすることでまだ自分は佐為を生かせているのだと、安心したいだけかもしれないと思いつつ。ヒカルがただヒカルのために打つことは、今日もひたすらに才に奉仕する才能のこえだった。
佐為:痛みはすべてあなたのものですよ、ヒカル。
ルート記号が根っこ、根本、根源などの意味であるrootを語源としていることを知ったのは確か中三だったか、昼休み後のまどろみにそのまま潜りかけたヒカルの意識を留めた、数学教師の脱線話で聞いたようにヒカルは思う。
rootは更に語源をラテン語のradixに見ることができ、そのrという文字の上部を延ばして現在のルート記号にしたのが、デカルトとかいうお偉いさんらしい。
平方根の計算の理解など疾うに諸手を挙げて降参していたヒカルは、何故平方根で根源なのかすら掴めなかったが、あの記号は傘のようで、その下に入れておけば佐為も濡れないかな、と消えた幽霊をそっとルートの中に置き、自らの根源とも言える存在を暖めながら結局睡魔に捉われて、その白い衣を脳裏に浮かべながらまぶたを閉じたものだった。
アキラ:君はデカルトよりパスカル向きかと思っていた。
先生にハーモニカが巧いと褒められた。
ねぇお父さん、褒められたんだよ、凄いって言って。しげ子はまるでスキップでもしそうな足取りで転げるように走ってゆく。辿り着く先は我が家。
ねぇお父さん、私を褒めて。
だが帰り着いた家で見る父は、相も変わらず血の繋がらない弟子を褒める姿で、しげ子は何も言えなくなる。恐らくこれからもずっと。
碁打ちとだけは結婚すまい。そう思う。碁打ちとでないと結婚できまい。そうも思う。
どちらにしろ彼女が父親を好きな事実だけがそこには残る。
冴木:きっとしげ子ちゃんがもっと大人になれば色々とわかることも出てくるよ。
「君が私のこと、一番じゃないのは知ってるけど。抱き合っているときまで私のことを見ないのはマナー違反よ。だから、ねぇ、別れましょ。私我儘なの、私にとっても君は一番じゃないけど、それでも一番に扱ってもらえなきゃ厭なのよ。しかも相手が人間だともっと厭。違う? そうでしょ、君にとって囲碁が一番ってことはあの子が一番ってことでしょう。嫉妬というより純粋に自尊心が傷付けられるようで厭なのよ、それがものだったらまだ許せるけど、だって囲碁はひとりじゃできないんでしょ? 仕方無いことだと思うよ、だからその仕方無いことが私に許せなくなっちゃったから、別れよう? だって君は生きなきゃならないんだもの、生きるためには君は囲碁打たなきゃならないんでしょ? だったら仕方無いじゃない。君はしっかり順番を決めてる、生きる上で必要なものを決めてる。だったらそこに私が入る隙間はないのよ、ただそれだけの話だったの。好きだよ、うん有難う、君も私が好きだったね。ただ番号を付ける余地さえないほど蚊帳の外ってのに耐えられる女じゃなかったの、御免ね」
ヒカル:一番が人間でもものでもなかったりしたらヤバいのかなぁやっぱり。
アキラが小学校に上がったばかりの頃、緒方が科学技術館だか何だかに連れていったことがある。約束をしていた塔矢名人に急用が入ったとかで、代理として緒方に打診があったわけだが、遊びに出るよりは打っていたいだろう子供が何故そんなところに行こうしたかといえば、単に両親と出掛けたかったからに他なるまい。思えば不憫な子だが、更に不憫だと思えることに、彼はたった六つか七つの身で、それでも不満など表に出すことなく、緒方に礼など言ってみせる。言えてしまう、その早熟な利発さに多少将来を心配した。
だがそうは言っても所詮は他人の子供、師匠の頼まれ事を遂行するだけの身だと割り切り、子供サービスに務める。務めたとしても、喜んでいる振りのこの子供が本心から嬉しがっているわけではないのがわかって虚しいといえば虚しかったが、そこで師匠の言い付けを破れるほど緒方もまだ世慣れてはいなかった。
良い子のアキラに断りを入れて、喫煙エリアで一服する。吸い終わり、恐らく言い付けを守って動かないでいるだろうと予想したアキラはだが、その場に居らずいっそ緒方を安心させる。なんだ、ちゃんと子供っぽいところもあるじゃないか。
そう笑い、探し出したアキラはすぐそばと言えばそばの、と或る一画に佇んでいた。大きな鏡を二枚、水平に立てかけた合わせ鏡で区切られたパーティション。ちいさな身体が、大きな鏡の中に無限に存在していた。
「アキラ君、こんなところに居――」
こどもは緒方の声など聞いてはいなかった。緒方の姿などその眸に映しはしなかった。
こどもはただ鏡の中の人物を彼の世界に留めていた。当然のようにアキラと同じ姿。だがアキラが右手を伸ばせばその人物も右手を伸ばし、線対称ではなく点対称の動きを見せる。あり得ない。
緒方は動けないでいた。ぴくりとも動けず、ふたりを見詰め、その眼前でアキラの伸ばした腕は、その人物に押し留められ、
「あ。おがたさん!」
そうしてこどもはようやっと緒方に気付いたかのように、右手と左手をぺったりと鏡の面で合わせた形で、緒方をあどけなく見上げた。
「ごめんなさい、さがしましたか?」
「あ、ああ……いや。……何をしていたんだい?」
「碁を」
こどもは心底無邪気に見える笑みで応える。
「碁を打たないかってさそったんですけど、またあとで会えるから。こんどにしようって言われちゃいました」
誰に。その問いは声にならなかった。
ヒカルを見る度、緒方はそのときのことを憶い出す。アキラが心から何かを欲したのは、緒方の知る限りそのとき以来のことだった。アキラを初めて負かした同い年の子供。アキラと対等以上のちからを持つかもしれないこども。塔矢アキラという天才の真正面に存在することを許されたこども。
逢わせてはならない、とも思う。逢わせなくては、と思う。
あのときとの何より大きな差は緒方にあった。あのときの小さなこどもは緒方にとって、連れ去られてはならない師匠の一人息子という以上に今や、連れ去られて異界の修羅と在ってほしい人物である。
緒方自身が合わせ鏡の向こうの人物を欲するようになっていた。
行洋:緒方君……アキラから目を離したのかね?