秀英は帰国を伸ばすと言っていた。つまり何もなければ、韓国勢は昨日のうちに秀英以外帰国しているはずだ、とオレは思っていた。なのに何故この男がここに居るのか。
高永夏。
嫌味な外見を、今日はラフな恰好に包んで、足を組んで座っているその様は、やけに余裕を見せてオレから逆にゆとりを奪う。睨め付けると面白そうに口端を上げた。コノヤロウ。
思わず足が動きかけたが、察してか塔矢がオレの腕を引き、秀英が間に入り、それを見て永夏が愉快を隠しきれずといった体でわらう。これではオレばかりが熱り立っている状態ではないか、と鼻白み、大きく息を吐いて身体の力を抜くと、塔矢のゆびが離れたのを感じた。
「秀英、なんでこいつがここに居るんだ?」
オレを驚かすためだと言われても今なら信じられよう。秀英は眉間のしわを指で押さえた。
「おまえと僕との対局が見たいと言って、帰国を伸ばしたんだ」
本当にからかうためだけに残ったらしい。何処か緒方さんにも通じるものを感じ取って、オレは同じように眉間を指で押し上げた。こういう手合いは関わらないに限る、と警鐘が鳴る。
「なら、とっとと打っちまおう」
「進藤。永夏は」
「なに」
「……いや。何でもない、打とうか」
何かを言いかけた秀英が、永夏と視線を交わしただけで何事かを語り、結局言い淀んだことについては、追求する気は起きなかった。
一局目。午前中いっぱいを使って組まれた対局は、ギャラリィの見守る中、二目半でオレが勝ちを奪った。否、韓国のルールだとコミ六目半で一目半差か。中国では七目半のコミ。日本も近々コミは六目半に変わるとの話だが、持ち時間も含め、日本の規定外のルールにも慣れてゆかないと、国際棋戦は益々日本にとって辛いものとなるだろう。
ここで佐為ならば、きっと幸せそうにわらうのだ。益々以て一手一手の働きを追求してゆかねばなりませんね、と。
恐らく険しい貌でそんなことを考えていたオレは、ふと周囲のざわめきが耳に戻り、顔を上げる。そこには何故か幸せそうな貌をした秀英。
対面では永夏が。オレの脇には塔矢が。真剣な表情で、盤面を見詰めている。
ふっと何かを憶い出しそうになった。
「ここのキリは大きかったな」
「でもその後の立ち回りが」
プロもアマも関係なく、皆が自分の意見を口に出す。検討する。真剣に、そして幸せそうに。
「…――い……」
名前と、そして涙が零れそうになったのは何故だろう。
声を聞き咎めて、塔矢がオレを見た。何かを言いたげに口唇が動き、そして。
ぐー。
「……腹減った」
「……進藤」
オレの盛大な腹の音に爆笑と、塔矢のこぶしが飛んできたが、こいつにだけは言われたくない。
「おまえのせいでオレは朝飯食い損なったんだぞッ?」
「一食と一局とどっちが大事だ!」
「その極端な考えどうにかなんないのか! 風呂と飯どっちかを選べっつわれてるようなもんだぞ?」
「そんなの風呂が先に決まってるだろう!」
「そういう問題じゃねぇ!」
見れば何なんだと呆れた体で秀英が永夏に通訳していた。何をどう伝えたというのだ、こんなものを。憮然と押し黙ったら、塔矢も周囲を憶い出したのか、慌てて頭を下げるが、こいつはそれが益々皆の哄笑を誘うことに気付かない。
勘弁してくれ。笑い声が響き渡る中、オレは天を仰いだ。
冷麺の美味しい店がそばにある、という秀英の言葉にオレは一も二もなく尻尾を振ったが、当然のことながら永夏もついてくるだろうことを完全に失念していて、碁会所を出たところでようやくその事実に思い至った。
「突っ掛かるなよ」
塔矢に言われても、とおかしく思ったが、オレは昨日の思考でもはや疲れ果てている。秀策を莫迦にされて怒る自分の立場が何処にあるのか、考え始めてしまったら闇雲に喧嘩を吹っ掛けることも躊躇われた。
誰より佐為の力を知らず、誰よりも佐為をないがしろにし、こいつに負けて佐為の強さを世間に証明もできなかった、オレに何を言う権利があるというのだ。
佐為を殺したのはオレなのに。
わかっている。本当は、佐為は何ひとつオレに言いはしなかった。ただ、佐為が笑って消えたのだと思うことと同様に、佐為がオレを恨んで消えたのだと思うことは、あの訳のわからない唐突な喪失に意味を与え、オレを楽にしてくれていたのだ。
そうして、それを推進力に変えてゆけるほどの胆力は、オレは持ち合わせていた。だから、高永夏にも遮二無二向かってゆけた。
だがオレがそうやって己の存在感を誇示すればするほど、実は佐為の存在証明からは遠くなるのではないかというこの恐怖。
それを知ってしまった今日では、もはや昨日は遠く、あれほどオレの世界の敵に見えた永夏も、すでにただの小生意気な野郎にしか見えなかった。
その生意気なでかい小僧はといえば、今、何故か焼肉に感動している。
「スヨーン……こいつ食べ慣れてんじゃねぇの?」
「日本のは趣が違うから」
そんなものなのか、と冷麺をすする。いつかオレも韓国に行って本場の焼肉を食べてやろうと決意したが。
「日本のが美味しいぞ、きっと」
「えー、なんで?」
「肉の質とか、断然日本のもののほうが良いから」
塔矢は秀英の言葉に目を伏せただけで、黙ってトックを口に入れている。
そういえば聞いたことがあった、インドネシアのほうの話だと思ったが。養殖するだけ養殖された蝦はすべて日本に輸出され、現地の人間は口にすることができないという。キャビアも同様だったか。
牛肉はそこまでのこともないだろうが、多分そういうことなのだろう。
この国は豊かなのだ。
「棋戦も……かな」
「何の話だ?」
キセンという単語に聞き憶えがあったのだろうか、永夏がちらとオレを見遣ったのを視界の端に留めた。
「うん……オレ、外国にも棋戦があるって最近知ったんだけどさ」
秀英が目を丸めたのはともかく、塔矢が咽せたのには、好い加減オレの無知にも慣れろよと言いたい。
「日本の棋戦って、ほとんどが国内だけのものじゃん。で、井の中の蛙になってるから、国際棋戦では弱いとか、ついでにそんな弱いのがゾロゾロなのに賞金は高いから、オープン戦にしてほしいって要請があるとか、色々聞いたんだ」
ずっと何も知らずに打っていた。佐為が消えて、彼の存在を世界に示さなければならないのだと思ったとき、初めて必要となった知識。世界はあまりに広く、碁界はあまりに深く、まだほんのとっかかりしか掴めてはいないけれども。
(ちょっとプロになって、ちょこちょこっとタイトルの一つ二つ取るのも悪くないかな)
いつぞや言ったことがある。金のために碁を打つなどという考えはすぐに消え失せて憶い出しもしなかったが、かと言って金がなくては生活もできない。
株に手を出さざるを得なかった御器曽のことも、日本のタイトル戦の賞金を求めて門戸の開放を求める外国人選手のことも、一方的に責められるだけのものではないのかもしれないと、そろそろ思い始めている。スポンサーとやらとの付き合いを幾つかこなしてきて、面倒臭いと思いつつも彼等がなければ、こんな碁漬けの生活は不可能だと知っている。
打つのに金はそう要らない。その気になれば頭の中に碁盤を思い浮かべ、塔矢とならそれだけでも打てる。多分それだけでも幸せではあろうが、それで四六時中打ち続けていけると考えられるほどには、オレは子供でもなくなっていた。
佐為が見ようとはしなかった現実世界の一面、強さだけを追い求めるわけにはいかないのだという夢と現実との折り合いを、オレは塔矢のけぶるような愛想笑いに学んだような気がする。
そして塔矢はといえば、その上でこんなことをいけしゃあしゃあと宣うてくれるのだ。
「ボク達が国内戦でも国際戦でも戦果を上げれば良いだけだろう」
笑った。
「そうだな、それも手だ」
「……焼肉とどう繋がったんだ」
秀英は首を傾げている。御免な、勝手な加害者妄想だよ。思い切り腹を抱えて笑ってやったら、憮然とした表情で秀英は何事かを永夏に吹き込んでいた。