棋聖略奪 第190局

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 北斗杯終了後、挨拶も式典も何処か遠い国の出来事のようにオレの上を過ぎてゆき、それらは意味のないものとしてオレの記憶からは抹殺され、気付けばオレは月光を浴びながら碁盤の前に座って棋譜並べをしていた。

 電気も点け忘れていたのに、しろくあわい光に照らされる棋譜は正確に、佐為の手順をなぞっていた。

 そうして愕然とする。オレの碁はオレが強くなるにつれ佐為に近付いてゆくものだとばかり思っていたが、こうして見ると逆に離れてさえゆくように、まるで棋風が異なっている。今日の――否、もう昨日となった高永夏との一局、またひとつ何か段階を上ったと思える会心の出来であったことは確かだが、それはまるで知らない人間の棋譜のようだった。少なくとも佐為の碁ではない。

 茫然とする。

 強さだけを証明できれば、それは自然と佐為の存在の証明になるものだと思っていた部分も無きにしも非ずだったオレは、そのときようやく気付いたのかもしれなかった。佐為とて決して棋聖ではなく、況んや神仏などではなく、神の百万年計画の中には佐為の千年すらも捨て駒として組み込まれていたのかもしれない、と。

 否、とっくに気付いてはいたのだ。高永夏の問いに自分が何と応えたか、自分は過去と未来を繋ぐためと答えはしなかったか。

 過去とは決して佐為ひとりに非ず、未来とは決してオレひとりに非ず。

 象徴として確実に佐為がオレの中心に坐っていたとして、それは決して他を否定するものではなく、むしろ包括する観で佐為すらも個ではない。無論オレとて個の必要はない。特別な誰かなど存在しない。

 藤原佐為と進藤ヒカルという、ふたりの人間が出逢い、友人として師弟関係を結び、それぞれに碁を打っていただけで、すべてが流れの中にあっただけのことではないのか。

 佐為とオレの状況が特殊だっただけに、そんな当り前の関係として語ることもできる可能性に、オレは目を瞑っていたとも言える。佐為の碁がただオレとは別の処に存在するのならば、佐為は本当に誰にも存在を証明できなくなってしまうのだ。

 こんなにもオレの中に居るのに。

 憶い出される彼の強さは、そしてその姿は、性格は、確かにオレの想い出として何よりも鮮烈な存在感を放っていたが、それはあくまでもオレだけのもので、オレにとっての至高の棋士は他人の、世間一般の認識ではない上、他の人間には必要すらないものなのかもしれない。

 他人にまで佐為を特別な棋聖として認識させたいという欲望が、自分勝手な我儘だということは充分に存知していたつもりだったが、誰にとっても碁打ちの辿り着く場所が佐為である必要はないのだという考えは、オレすら到着点が佐為である必要はないのだという考えにも似て、恐怖だった。

 佐為の居た場所に辿り着く必要さえなく、或いは追い抜かすことすら考えても良いのかもしれないという、この傲慢は、既にオレの碁の中に出ている。

 そうして、それで佐為は何処にゆくのだ。

 必死に棋譜を並べた。秀策として打っていた頃の佐為の碁、オレと打った何百という棋譜、塔矢と佐為の、そして名人と佐為の打った一局。

 並べて並べて佐為の思考を追って、やはり佐為は素晴らしい打ち手なのだと安心してうっそりと盤から顔を上げ、気付けば朝になっていた。

 いつものように起こしにきた母親の声をドアのむこうに聞き、やっと時間と疲れと眠気を認識して、欠伸を噛み殺しながら返事をした。

 階下に広がる日常は何処か日常に過ぎて非現実を感じさせ、神の一手も高みなる棋聖も、まだオレの思考の中に燻った状態なのだと知れた。ゆるく頭を振り、兎にも角にも家族の中に居るオレとしての進藤ヒカルを取り戻す。

「あ。そうだお母さん」

「何? さっさと朝御飯食べてちょうだい」

「うん、食べるけどさ。今日昼と、多分夜も御飯いらないから」

 母親は何故かひどく怪訝な貌をして、何かを問いたげに口を開きかけたが、そのとき鳴ったチャイムに慌ただしくスリッパを鳴らして玄関へと向かった。オレは首を傾げながらも席に着き、茶碗を手にして掻き込もうと大口を開けた途端。

「ヒカルー、お友達が見えてるわよ!」

 朝の八時にお友達。何処の礼儀知らずなおぼっちゃまだと高を括って、ジャージのままにだらしなく玄関先に出ると、そこには。

「おはよう、進藤。朝早くからすまないが、君とどうしても打ちたくなって」

 初めてオレの家を訪れた記念すべき第一声がおはようですか先生。

 全く以てすまないなどという貌ではなく、むしろ堂々と背筋を伸ばして屹立する本物のおぼっちゃまの礼儀正しさに、オレは頭を抱えたくなった。

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 結局、秀英の叔父が経営するという碁会所には、塔矢とふたりで出掛ける羽目になった。

 部屋で一局打ってから、秀英との対局を話したときの塔矢ときたら、こうだ。

「それは早く来て良かったな」

 ここまで来ると立派なものだ、と北斗杯の際の自分の行状を棚に上げて拍手する。塔矢のこのような気質は決して嫌いではなく、むしろ本気で感心もしようものだ。

 にしても、塔矢もまた、目が赤い。オレも多分にひどい顔の自覚があったが、これではまるで塔矢も寝ていないとばかりの様ではないか。

「おまえ、ゆうべどうしてた?」

 並んで歩きながら、時折顔を覗き込んだ。塔矢は陽の光にまぶしそうに目を細めている。やはり寝不足らしい。

「そんなにひどい顔をしているか? 君ほどじゃないと思ったんだが」

「オレは徹夜だもん。勉強してたんだから良いだろ」

「良くないだろ。今日だって対局があるとわかってたのに、君は」

「オレのことは良いんだよ。おまえだよ、おまえ」

「興奮して眠れなかったから……最初は布団の中でじっとしてたんだけど。どうしても目が冴えてしまって、結局起きて並べていた。君と高永夏の一局を」

 心臓が跳ねるという表現を、まさに実感した気がした。恐る恐る隣を見遣るが、塔矢はまっすぐ進行方向を向いて、オレの動揺に気付いた風ではない。

「……で、全然寝てないとか?」

「そこまでじゃないよ、さすがに四時には寝た」

「変わんないじゃん……」

「君は?」

 そこでようやっと、塔矢はオレのほうに向いた。向いたとなると、こいつは視線を外さず、見詰めているという表現がふさわしい体で、じっと食い入るようにオレのまなざしを捉えている。

 いつもこうだ。捕食者の輝きを放って獲物を追い詰める視線。こちらがしっかと立っている限りに於てとても心地好いものだが、逆に言えば、足許がぐらついているときにこれをやられると、自分の不甲斐無さにとことん落ち込む。そういう、妥協を許さない強いまなざしだ。

 塔矢の生き様そのもののような。

 それが愛しく、今は多少つらい。本当は何処までもどっぷり落ち込めば回復が早いことは経験上わかっていたから、オレはいつも塔矢との喧嘩を楽しみにしてないこともなかったのだが、今回は回復してしまうと、オレの中の佐為の位置付けが何か考えたくないところに置かれてしまうような気がして、逃げた。

「……おまえと、似たようなもんだよ」

「並べてたのか?」

「悔しかったなー、半目だもん。どっかに挽回できる手はないかと探してみたんだけど」

「ああ、それなんだが、白が右下に割り込んできたとき──」

 そうして口論とも取られかねない検討をさすがに外では小声でしつつ、到着した碁会所には当然のことながら秀英と、驚いたことに海王の尹先生と、そして。

「……高永夏?」

 オレのこえは震えていなかっただろうか。

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