外という意識 第192局

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 午後、再戦した秀英との勝負はオレの半目負けで、ああこいつの負けず嫌いも大したものだとつい笑みが零れ、もしかしてさっき自分に負けたときの秀英の幸せそうな顔もこれだったのだろうか、と微笑ましく思った。

 秀英は満足そうだ。そうして一言。

「洪秀英。僕の名前は洪秀英だ。憶えとけよ、進藤」

「ああ、勿論。忘れるもんか」

 顔を見合わせて吹き出した。

 一方、いつのまにやら永夏と打ち始めていた塔矢のほうはといえば、盤面を見るとこのままいくと二目半ほど足りないだろうか。これで塔矢に大勝ちでもされていたら本当に洒落にならなかったが、だからといって素直に喜べもしない。来年こそ憶えてろよ、と睨み付けたら永夏の野郎は、不敵にオレのほうを見て笑いやがる。

 その仕種でオレ達がギャラリィに加わったことを知った塔矢はといえば、抑えなければ死ぬ上辺を放り出して中央を取りにいくことを選んだ。相変わらずの冷静かつ強気な攻めで、オレは心が弾むのを止められない。羨ましい、塔矢と打っている永夏も、永夏と打っている塔矢も。

 中央のせめぎ合いは塔矢が制し、だが結果、塔矢の半目負け。悔しそうにしているが、塔矢の顔にも充実感が浮かんでいる。

「よーし、次はオレな。リベンジしてやる!」

 塔矢を押しのけるようにして永夏の前に座ろうとしたが、制したのは何故か高永夏だった。

「――…」

 何と言っているかわからないが、首を横に振る仕種で拒否されているのだと知れた。

「おい、何でだよ!」

「進藤、彼は」

「高永夏!」

「おまえは国際戦でオレを叩きのめすつもりなのだろう、と永夏は言っている」

 落ち着いた秀英の声がうしろから聞こえた。

「なん……だって?」

「北斗杯でも三星火災杯でも良い、公式試合で決着をつけよう、と言っている。公衆の面前で打ちのめすのが楽しみだ、と」

 永夏はひどく静謐を見せてオレを見ていた。

「えー……と」

 さすがにオレでも言うのは躊躇われたのだが。でも訊かなきゃわからないし、ここはひとつ漢らしく腹を括ろう、と深呼吸する。

「三星火災杯って何?」

 塔矢の怒声が響いた。

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 韓国では棋戦の重みが日本とは違うのだと、二人を見送って成田からの帰り、塔矢が話してくれた。

 日本では伝統からも賞金からも名誉からも、国内棋戦が国際棋戦よりも重視される。韓国の国内棋戦の価値は国際棋戦に遠く及ばず、よって韓国の棋士は棋院によって国際棋戦を中心に予定が組まれるのだという。

 今回も、高永夏が国内戦をひとつ蹴ってきたのだと、オレはこのとき初めて知った。

「なんで……そこまで」

「国内戦は、優勝しても国際戦への挑戦権が得られた程度の価値なんだよ、むこうでは」

 意識の違いに戸惑うオレに対して、冷めた視線を送る塔矢に、ようやく北斗杯前の過激な激励と叱咤の意味を知った。

 社もオレも、よその国の囲碁事情なんて本当に理解しておらず、そして塔矢はそんなことも重々承知で、オレ達に発破を掛けたのだろう。

 院生になる前のことだったか、海王の大将に言われた台詞を憶い出した。塔矢は、目標に向かう姿勢からして違うのだ、と。オレが勉強したのは、精々が対戦相手の棋譜だった。塔矢は言語や生活習慣までも視野に入れて、対局に臨んでいたのだ。

「格式や賞金だけの問題ではないよ。韓国では、小規模の国内戦なんて報道に載る可能性さえも低い。自分の強さを世間に知らしめるためには、どうやったって世界の強豪と戦って勝つことを念頭に置いていなければならないんだ、彼等は」

 そうして高永夏たちも違うのだ。意気込みが、オレ達とは。

 インターネット囲碁も、国際戦といえば国際戦だった。佐為があまりにもあっさりとすべて勝ってゆくもので、オレは何処か勘違いしていなかっただろうか。

 公衆の面前で叩き潰したい、と言った永夏の言葉の重みを知る。

 彼はオレの力を認めていたのだ。

 そんなとき、オレが何を考えていたかといえば、否、何を考えたいと思っていたかといえば、佐為のことだった。

 それが悪いこととは思わない。人それぞれ、背負っているものは違う。違っていて良い、と思う。だが。

 塔矢との二度目の邂逅、あの雨の日を憶い出した。オレの言葉なんか微塵も届かなかった塔矢のまなざしを、どうしても自分に向けさせたいと躍起になったオレの初めての真剣。

 オレは、永夏の視線を真正面から受け止めてはいなかったのではないか。

 佐為ばかりを見て、佐為のためと嘯いて自分ばかりを慰め、世界をちいさく小さく狭めていた卑小な個。そんなもので到達できる至高があるのならば、とっくの昔に佐為が辿り着いていたはずだ。

 神の一手を、何のために極めたいと思い、オレは佐為を殺したのか。

 佐為を殺してまで手に入れたいと渇望したものがあったはずなのに、オレは忘れていなかっただろうか。

「……塔矢」

「なんだ」

「おまえ……北斗杯、何のために勝とうと思った?」

「……突然だな」

 軽く目を見開いて、塔矢はこちらを仰いだ。電車の揺れに従って黒髪が揺れている。合わせたわけでもなかろうが、同じ方向に首を傾げ、視線を上に遣って考え込んでいる。

「やるからには勝たなくては、というのではなくてか」

「それは当然だろ。そんなんじゃ、なくて」

「君が、……過去と未来を繋げるために打つような?」

 厭なところを突いてくるな、ちきしょう。

 思わずしかめてしまったオレの顔を、塔矢は何故か色のない貌で眺めた。

「そんなにスケールの大きな話ではないけれど、日本の囲碁界を世界に見せ付けてやらなければならない、とは考えていたかもしれない」

 塔矢行洋の息子は、そんなことを言う。

 昔、プロになるつもりなのかと問うたオレに対し、なるつもり、などという生易しい言葉ではなく、なる、と断言したときの、何処か人形めいた表情のない眸だった。視線はオレから外れず、ああ塔矢はそれを自分の限界かもしれないと思っていて、だがそれでもオレにその外側を見るのだと思った。

 オレはそんな、大層なスケールの人間でもないのに。

 塔矢に殻の外側を見せたのは、オレの子供じみた外見と佐為の棋力のアンバランスさだったのだろう。多分オレに遭っていなければ、塔矢は今の自分の言葉を疑う必要すらなかったのだ。

 オレの中の自分を見詰めて、自分の言葉を疑う必要などなかったのだ。

 そうしてオレは、そんな塔矢に映った自分を見詰めて、自分のことを疑う。勝ちたいと願うだけで勝てるものならば、塔矢はあのとき佐為にも勝っていたはずだった。

 オレも高永夏に勝っていたはずだった。

 信じていたものが瓦解して、でもそこから這い上がる強さは、いつしか力に返るだろうと、塔矢はきっと既に知っている。そうしてオレから、佐為から、逃げない。

 壊れても、良いのだ。

 すとんと何かが落ちた気がした。負けたことの悔しさは相変わらず燻っていたが、それはそれとして、それがすべての終わりではない、と言った塔矢の言葉の意味が、ようやっと伝わってきた気がした。

 佐為を追い抜かしてはならないという考えは、それだけで佐為から逃げてはいなかったろうか、オレは。

「……やっぱおまえって凄ェや」

「は?」

「オレも大概向こう見ずだと思うけど、おまえも無茶苦茶するよなー」

「……何の話だ?」

「神様に喧嘩を売る話」

 鳴かぬなら鳴かせてみよう不如帰、だっけ。

 今の塔矢を作ったのは、決して佐為の強さだけではない。そうして塔矢の強さだけでもない。そう断言できる。

 百万年計画ののちに倒されても知らねぇからな、と天を仰いだその足で、いつもの道玄坂に向かった。

「お願いがあるんだ。いや、あります。今じゃなくて良い、オレがタイトル取れるほどになったら、マスタ、ここで子供囲碁教室開いても良いですか?」

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