詰碁三題・壹 第七局

Novel

 彼の碁は強く美しくしなやかで清く澄みきっており、思い返せばこんなにも心躍る碁であるのに、それを憶い出すことは、アキラにとって苦痛を伴うものでもあった。

 彼は碁を愛してはいなかった。アキラのように碁を愛しているわけではなく、アキラのように碁に時間の大半を掛けているわけではなく、だがそれでもあっさりとアキラに勝ってゆく。

 それが才能の差なのだと、アキラも頭では理解している。理解はしていても、その子供が碁にほんのひとかけらの愛情すら抱いていないらしいこと、それがアキラには悔しくて堪らなかった。

 努力の欠片も見えずとも、彼が多少なりとも碁を愛していたのならば、アキラも負けたことに納得できようものを。あの子供は、その強さを以てして碁を否定している。碁を愛する者の努力を否定している。否定できるだけの力を持っている。

 アキラは負けるわけにはいかなかった。二歳のときから毎日まいにち十年間、人生の大半を碁に捧げてきた身なれば、アキラが負けることは碁打ちのすべてを彼に否定されることにも等しかった。あまねく碁打ちの精神を背負って挑んだつもりであった。

 だが負けた。

(おとうさん。ボク、碁の才能あるかなぁ?)

 幼き日に、父に問うたことがあった。

(はは、囲碁が強い才能か? それがおまえにあるかどうか私にはわからんが、そんな才能なくても、おまえはもっと凄い才能をふたつ持っている。ひとつは誰よりも努力を惜しまない才能。もうひとつは限りなく囲碁を愛する才能だ)

 アキラはその言葉を疑ったことなどなかった。事実、今の今までアキラはその努力を具現可能であり、それを才能と言われて妬まれる側の人間であった。アキラは己に負けた子供達を、才無き者とは看做さなかったが、努力は足りないと認識していた。

 碁を愛する者ならば努力すべきである。その努力が報われる割合こそは才能であるやもしれぬが、さりとて或る程度は努力さえあれば上に行けるものなのだと、アキラは考えてもきた。アキラの父親の下に就いてきた者の中には、幼いアキラから見てさえ才能に乏しいと思しき人物も居り、無論中には諦めた者もあるが、自覚して尚プロになりたいのだと、努力を重ねて結果プロになった者も居たものである。努力を当然のことと思いこそすれ、アキラは彼等を尊敬していた。多分に彼等よりは才能に優れているらしいことを自覚すれば尚のこと、己も努力をしなければならないと研磨してきた。それが彼等に対する敬意の表明であった。

 アキラが負けるということは、彼等までもが否定されることと同義である、とさえアキラは考えていたのである。アキラは決して弱き者に対し傲慢ではなかったが、己が強いこと、そして碁界を背負う立場になるのだろうことだけは、自覚せざるを得ない環境にあり、自覚しないことには彼等に対して申し訳も立たない実力もあり、即ち己が彼等の名代として戦うことに、何ら疑問を抱かなかった。

 碁打ちの代表として、進藤ヒカルと対局する。

 そうして負けたことは詰まる所アキラにとって、己が才能への懐疑の始まりであり、碁そのものに対して不徳を詫びるしかない状況であり、真っ直ぐ歩むべき将来の立場への不審の最初であった。

 牙城の崩壊。立脚点の喪失。

 而して碁打ちの己という生の根本を疑い始めたアキラが、己の過去に遡って内省を試みるのは、彼の精神的な強さを考えれば必定であった。

 今より更に幼い頃、四つか五つの頃であったろうか。アキラは囲碁教室に通っていたことがある。何故そのようなことになっていたのかは憶えておらぬが、兎にも角にも、アキラは通っていたのである。

 流石にその頃は素人の大人にも負けること少なくなく、アキラも嬉々として対局に勤しんでいたものであったが、中にひとり、多少年嵩とはいえ、子供だてらにアキラと同等の棋力を持つ少年が居た。名前は確か鉄男と言ったか。赤茶けた明るいつんつん頭の中には何が詰まっているのだろうとアキラが微笑ましく思ったほどに、彼の手は型破りでそれでいてアシが速く、アキラは彼との対局がいつも楽しみでならなかった。

 さりとて強い者が居れば居るほど奮起する質のアキラのこと、元より彼に負けることもなかったアキラと彼の棋力の差は大きくなるばかりであった。

 その頃ではまだ、それを淋しいと思わないでいられるほどには己と他人の棋力の差を思い知っていなかったアキラは、ただ彼との心躍る本気の対局を取り戻すためにはどうしたら良いのか、そればかりが気懸かりであった。アキラは当時、誰もが努力さえすれば強くなれるものなのだと信じて疑いもしていなかった。それはつまり、アキラの努力がほぼ完全に結果として表に出ていたことを示しているが、それが故に、アキラは結果に結びつかない努力が存在するのだという現実を知りはしなかった。そして出精はすべからく愛好に結びついているべきとも考えていた。

 即ち発奮してもらうためには鉄男に碁をもっと好きになってもらえば良い。アキラは単純にそう考えていたのである。

 そんな折に耳に挟んだ、鉄男と彼の父との会話。何とアキラに勝てるまで、鉄男は家にも入れてもらえぬという。

 それは何と辛いことだろう、とアキラは鉄男の心情を慮った。アキラにとって父親に嫌われるということは、世界の崩壊にも等しかった。アキラは殊碁に関しては自他共に認める負けず嫌いであったが、負けることそれ自体というよりは、負けたことにより己の闘争心が損なわれてしまう可能性のほうを畏れていたと言って良い。負けることに大義名分がある現在、アキラは次のことを言うのに何一つ憚りなかった。

(ボク、負けようか?)

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