一刀両断・貳 第六局

Novel

 緒方は子供が好きではない。

 あれほど理不尽な生き物もない、と思う気持ちは子供にも伝わるのか、愈々以て彼は子供に嫌われ、それにも理を以て対応しようとする緒方の態度には当然のように感情的な反抗が返り、悪循環は続く。

 但し彼は、子供の可能性に関しては並の大人とやらよりもずっと評価しているほうである、と自負していた。緒方が碁を憶えたのは十代も半ば過ぎのことである。その以前に始めた子供となると、なまじ己にわかり得ぬ状況だけに、期待も大きいと言って良い。

 しかし基準が宜しくなかった。緒方にとっての幼少の砌より碁を嗜んだ子供の基準は、塔矢アキラ、その人である。アキラと同じ年の頃から始めたという子も居ないではなかったが、どれも緒方の眼鏡に適うものではなかった。

 彼自身がプロになったことで勘当されたも同然の身であるが故か、はたまたパトロン気分で才能を求める蒐集癖でもあったものか、兎にも角にも、緒方はそれでも諦めず、青田買いに手を掛けること枚挙に暇なかった。否、現実にはそれ以前の検討の時点ですべて止まっており、仮にアキラより才覚溢れる子供を見付けたとて、実際手塩にかけたかどうかは知れたものではない。ただ才能の発露の瞬間を見たかっただけやもしれぬが、とにかくも、緒方にそのような性癖があったことは確かである。

 よって、子供嫌いの割には、彼は偶に回ってくる子供関係のイベントを断ったことがない。先日もその例に漏れず、こども囲碁大会にサポータとして出ていたものであったが、そこで些細といえば些細、異様といえば異様な事件が、熱気溢れる会場の片隅でひっそりと、だが賑やかに起こった。

 静かとは決して言えぬ、さりとて煩瑣く騒ぎ立てる者も居らぬ対局中、広い会場に、おしい! とひどく明朗なこどもの声が響いた。続いて棋院関係者の嗜めるような声に、緒方は面倒なことが起きたかと襟元に指を掛け、息を吐いた。

 どうやら声の持ち主らしい子供は、あたふたと落ち着きない様子を見せ、森という男に肩を掴まれている。えらく目立つ金の前髪を持つ小学生と思しき子供で、緒方としては是非とも関わり合いになりたくない、如何にも理不尽な要求を押し付けてきそうなタイプだと偏見を抱きたくなる外見であった。

 ひとまず騒ぎの元を森に引っ張っていかせ、周囲に説明を求めたところ、件の子供が対局に口を挟んだとのことで、益々以て関わりたくないとの思いを強め盤面を見遣ったところ、意外にもその死活は少々難しい形であり、九段の緒方をしても即答とはいかぬところであった。

 それをあの子供が答えたとは、と多少違った方向に興味を抱いた緒方が驚いたことに、その子供はちらと見て即断であったという。

「……ふん?」

 偶然にしては面白い、と鼻を鳴らし、森達が小言をくれているのだろう部屋に向かったが、既にして帰してしまったあとだという。面白いことになりそうだったものを、と内心臍を噬んだが後の祭、名前も知らぬその子供の明るい前髪の色だけが記憶には残った。

 彼の実力が本物ならばいずれプロの世界で相見えることもあろうとの、その場での塔矢行洋の発言には、緒方としても賛成で、残念には思ったが、そこまで重要視もしていなかった。たかが詰め碁一手の正解で期待を膨らませるには、緒方には時間もなかったしこれまでの経緯もあった。

 但し、それが塔矢アキラに二度も勝ったという才覚ならば、話は別である。

「ああ、成程……じゃあもしかしなくても、塔矢先生もご存知なんですね? その子のこと」

 碁石を片付けながら、市河は何処か痛々しげな表情で、どうやらアキラを気遣っているが、緒方としては、多少負けでも込んだほうがプライドの高いアキラのこと、成長して面白いことになるに違いあるまいと読んでいた。

 実際ここ最近のアキラは花が萎れたかのように精彩を欠いていたとの話ではあるが、それは逆に言うと、これまで同年代にただの一度も負けたことがないということである。土付かずの英雄ほど愛嬌のないものはない。アキラには是非とも敗北を憶えてもらいたいものだ、と考える己の求めるところの塔矢アキラが、現在からして果して緒方のライバルの姿をしていたか否かは、未だ緒方自身にも判断付かぬところである。

 ただ、塔矢行洋は純粋に喜ぶかもしれない、と緒方には思えた。行洋が手塩に掛けて育てた塔矢アキラという棋士は、それが故に修羅を知らぬ。行洋の与えた強さ故にアキラは鬼を知らず、鬼に非ず、鬼によわい。

 己が子供の不調を憂えるより、ひとりの棋士の成長を望むだろう行洋の姿が、緒方には見えるような気がし、それは或いは行洋の姿をした己の願望やもしれん、と苦く口唇を上げる。

「近々、名人もこちらに顔を出すと言っていた。もしそれまでにそいつを見掛けるようなことがあったら、首根っこを捕まえてでも素性を聞き出しておいてくれ」

「犬猫じゃないんですから」

 市河は笑って頷いていたが、まさか緒方も、そして市河も、彼がそれを実行する役になろうとは、微塵も考えてはいなかった。

 まさに、行洋が碁会所に顔を見せたその日のことである。事前に行洋に話は通してあったが、まさかちょうど引き合わせることができるとはまるで考えもしていなかった。偶然とはげに恐ろしい、と飛び出した勢いのままに、窓から見付けた金色の前髪に向かって突進し、腕を掴む。細い手首、ひくい背、こうして間近で見ると、本当に子供らしい姿というものが目に付いたが、緒方の用があるのは外見ではなかった。相手が碁打ちであるならば、それが鬼だろうと子供だろうと関係あらぬ、緒方も相当の修羅であることは間違いない。

「君! 今直ぐ来てくれ、君に会いたいって人が居るんだ」

 否。この子供に会いたかったのは緒方自身であると、緒方ははっきり言える。ただそれを子供に伝える術を緒方は知らず、そういう点で緒方とアキラは同類やもしれなかった。

 そんな緒方とアキラが、まさか子供の中で被ったわげもあるまいに、彼は的確にアキラの名を呼んだ。誰だよ、オレに会いたい人って塔矢? 塔矢アキラか?

 そういえば何故、彼がここに居るのかを考えの外にやっていた自分に気付き、だがまぁ関係ないと緒方は嘯く。子供が、その快活なこえに似合わぬ、まるで今のアキラとおなじ闇いかおをして碁会所を見上げていた理由も、会いたがっている人物をして真っ先にアキラの名を挙げたことも、すべては一本に繋がるような気がしたが刹那、碁の才には関係あらぬと切り捨て、切り捨てた瞬間にひらめきは霧散し、もはや思い付いたことすら忘れた。

 碁会所に連れ込んだ子供は、塔矢行洋をして神の一手に最も近い人物と称した。何がコミも知らぬ初心者だ、と鼻でわらう。なかなかどうして大したタマであるが詰めは甘い、との感想であった。

「アキラには二歳から碁を教えた。私とは毎朝一局打っている、既に腕はプロ並だ。アマの大会には出さん。あいつが子供の大会に出たら、まだ伸びる子の芽を摘むことになる。アキラは別格なのだ」

 それはそうであろうと緒方も認めるところではあるが、そこで摘まれてみるのも一興かもしれませんよ、などと内心容赦がない。摘まれて消え去る程度の才能ならば、緒方の敵にはなり得ぬし、ましてや塔矢行洋の相手になろうはずもなかった。

 そこで消える程度ならば、塔矢アキラでさえも切り捨てられて然るべきである。

「だからこそ、そのアキラに勝った子供が居るなどと、私には信じられん」

 そうですかね私は今信じる気になりましたよ、とやはり言葉には出さず行洋に反駁する。

 いずれ破られるものである、塔矢アキラも、そして塔矢行洋も。共に頂点で倒すのは自分でありたいと願うが、取り敢えず子供は子供に任せて切磋琢磨してもらいたいものである、との緒方の願いである。

 彼は子供が好きではなかった。これほどに理不尽で不確定要素が多く可能性の大きすぎる生き物など、育てることに嵌ってしまったら如何する、と咽喉を鳴らす。

 実力が知りたいと行洋に請われてこどもは、だが数手を放ったところで突如として何やら奇っ怪な叫びを発し、飛び出していってしまった。誠、理解に苦しむ理不尽な生き物である、とこれから面白くなることなど予感し、緒方は子供によって床に落とされたしろとくろの石を見詰め嗤った。

 それは緒方や行洋のこれからの姿やもしれなかった。

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