詰碁三題・貳 第七局

Novel

(ボク、負けようか?)

 そのとき鉄男が見せた、激しい怒りをアキラは理解できなかった。できようはずもなかった。アキラはただ、鉄男が父親に家を追い出される可能性を廃したかっただけである。或いは多少の打算として、己が負けて鉄男を好い気分にさせることができれば、彼にもっと碁を好きになってもらえるとの計算があったやもしれぬが、いずれ鉄男を不快にさせる目的で発せられた言葉ではなかったのである。

 そうしてアキラが負けて見せたのち、鉄男が囲碁教室に顔を見せなくなったことは、アキラにただ混乱しかもたらさなかった。

 困惑し、アキラが取った行動はといえば、事の顛末を父親に話すことであった。行洋は難しい貌をしてただ一言、もう通うのは止しなさい、とそれだけを言った。

 それ以後、教室も大会も、碁会所以外での公の場で打つことを一切許されなくなったアキラが日常生活から学んだことは、つまり自分がそのような場に出れば、鉄男のような子供を作ってしまう結果になるのだということである。明然と点数の出る試験での結果で、勉強に勤しんでいる子供達よりも、学業に於て然程の努力もしておらぬ自分が勝っている現実に、才無き者が望めないこと、そして才有る者が望めないことが、共に存在するのだということをアキラは知った。

 努力をして、皆で一緒に上へ。そんなささやかな願いはひどく大それたものだったのだと知り、それでも少なくとも碁に関してだけは皆を待って打つことを止めるなどとできようはずもなかったアキラは、ただひとりで前に進むしかなかった。

 そうしてアキラが嘗て鉄男に求めたと思ったところのもの、ライバルという存在は益々以てアキラから遠ざかり、下手の大人に指導碁を打つようになってようやく、アキラは鉄男が自分に求めたものの正体を朧気にも知ることとなった。

 鉄男のほうこそ、アキラをしてライバルと思いたかったのだろう、と。彼は負けて家には入れずとも父親に嫌われようとも、アキラと力の限り戦うことを望んだのであろう。その気構えに対し、アキラが打った指導碁の如き碁は、確かに鉄男から見れば不遜以外の何物でもなく、彼が怒って当然だったのだ、と。

 薄ぼんやりと思い描くばかりで形にならなかったその思考は、進藤ヒカルに出逢ったことで明確に姿を現し、己がヒカルに何を求めたのか、思い知り苦しむこととなった。

 彼が碁を愛していないということは、彼がアキラと打ちたいと思っていないことに等しい。指導碁程度ならばまだ良かった、アキラは鉄男のようにそこで歩みを止めたりはせず、逆に彼を指導できるようになるほど精進しようとするであろう。だが彼は、そもそも碁を打ちたいなどと欠片も思ってはいないのだ。

 自分がこんなにも彼と打ちたいと願っていても。

 アキラを本気にさせることができなかった鉄男を侮る気持ちはまるでなかったが、ヒカルを碁に傾倒させることができなかった自分のことは、アキラにとって責めるべき対象であった。それは己がヒカルにとって価値もないほどの力しか持っていなかったためでもあり、それを挽回するためにも己は力を付けなければならないのに、と思ってみても、アキラはもはや怯んでしまっている。

 アキラは既に、如何ともし難い才能の差というものが存在することを、才有ることでも才無きことでも承知している。それでもただの一度も諦めたことはなく、諦めて良いと思ったこともなく、また諦めたいと思ったこともなく、真っ直ぐに精進を重ねてきたが、ここに来て初めてアキラは、諦めるべきなのだろうか、という選択を迫られることになっている。

 諦めたくなくとも、諦めなければならない局面というものに、アキラは出会したことがなかった。父の下を去っていった幾人か、棋士になることを諦めた幾人かの、気持ちを慮りはしても、実感として理解していなかったアキラは、終わるべきときというものに慣れていなかった。否、ただひとつ、諦めた実感さえなく何時の間にやら諦念に近い位置にあったものに、等しく精進してゆけるライバルという存在があったが、それが進藤ヒカルの姿をしていたことは皮肉に過ぎる。

 進藤ヒカルは塔矢アキラなどまるで相手にはしていなかった。

 アキラを怯ませていたのは、圧倒的な棋力の差も無論あったがそれだけではなく、どれほど己が力を付けようとも彼は碁を愛すまい、という絶望であった。

 ただ己が力を付ければ良いだけの話ならば、蓋し如何に苦しもうとも邁進できようものを、たとえ彼を打ち負かす力をアキラが身に付けたとて、あの碁を莫迦にしているこどもが、まるで碁を愛してなどおらぬあのこどもが、負けたことに腹を立てるとは考えにくく、アキラのように奮起してこちらに向かってくる保証は、何処にもない。

 真剣になったことがないのか、と問うたときの彼の貌を憶い出す。きょとりと動揺を見せて丸められたこどもの眸は、碁どころか何物をも大事に思ってはおらぬ色を湛えていた。

 求めても決して返されることのないだろう絶望を、嘗て己が鉄男に与えたのであろう失意を、アキラは今、心底理解していた。

「アキラさん」

 暗雲を表情に乗せ、怯える心を打擲することにかまけていたアキラに、母親が心配を滲ませて声を掛ける。精一杯微笑んだ。

「何でしょう、おかあさん」

「海王中学の校長先生からお電話なんだけど」

「……ボクに?」

 今年受験するはずの学校長からの電話。そうして彼に請われて赴いた先で、アキラがひとつ、予想外の確信を得ることとなるのは、その次の週のことである。

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