「……四月一日にはまだ大分あると思うが」
それが緒方の感想だった。
だが市河は至って真面目な面持ちで、それが本当なのよ緒方さん、と自分が被害者であるかのように痛々しくも重々しく続ける。
「本当なの、本当にアキラ君が負けたんです。それも二度も」
塔矢アキラが、同い年の子供に負けた。
それがどれほどあり得ないことか、彼を赤ん坊の頃から見てきた緒方は身に染みて承知している。
緒方が入門した頃、既にタイトルホルダであった塔矢行洋は、それ以来ただの一度もタイトルを零にしたことがない。その一人息子として生まれたのがアキラである。才能が遺伝ですべて決まるなどと、自らが碁打ちの環境にない場所からのスタートであった緒方は欠片も思ってはいなかったが、だからこそ、まだまともに歩けもしないうちからタイトルホルダと毎日打ち続けてきたというアキラの貯金は、そしてそれを望んできたアキラの気性は、緒方の認めるところであった。
アマは無論のこと、プロですらアキラに勝つことは容易くあるまい。それがアキラの実力であった。名人に三子置きでまともな対局になる小学生など、際立っているというレベルではなく、異常であると言って良い。
そのアキラが、同い年の子供に負けた。
「……この前、こども名人戦で優勝した子が来たと芦原が言っていたが」
「ああ、その子はてんで話にならなかったですよ」
「じゃあ何か、その子供もアキラ君と同じく、強すぎて大会など出られないというタイプか。誰かトップ棋士でそのくらいの子供が居る人なんて居たか? シンドウ……?」
「そ、それも違うと思う」
首を振って、市河はひどく複雑な貌をし、言おうか言うまいか決めかねている様子である。続きを促すと、益々困ったような表情で緒方を見上げた。
「またエイプリルフールなんて言わないでくださいね」
「……言いたくなるようなことなのか?」
「その子。誰とも対局したことがないって言ってたんです」
誰が信じられよう。
市河が嘘を言っているとは思わなかったが、その子供が嘘を吐いていたのだろうと鼻で笑い、煙草を灰皿に押し付け、緒方は徐ろに手近な椅子を引き寄せた。
「座って」
「あ、はい。信じられます?」
「信じられんな」
「ええ、私も。その子が嘘を吐いてた可能性は勿論あります、ありますけど」
そこにあった碁盤と碁笥を引き寄せた、マニキュアに彩られた桜貝色のゆびが、剥がれるのも構わず人差し指と中指で石を挟み、白黒を刻んでゆくのに従い、緒方のまなざしは変わっていった。
盤面、始終黒が優勢であり、それでいて勝ち過ぎもせず、地は均衡している。黒も白も相当なレベルで、石の流れは淀みないが、殊更淀みなく「させている」ことが見て取れた。
黒石が、盤面の流れを支配している。
「黒がアキラ君か……? いや。それにしては、手筋が。そもそもアキラ君が負けたということは、まさか」
「コミを設定しなかったそうなので、勝敗はコミ無しのものですけど。これ、そういうんじゃありませんよね」
「……コミがあったならばあったで、同じ数だけ勝ったただろうな、黒は」
「やっぱり指導碁に見えますか」
「これで対局したことがないなんて、大嘘も良いところだ」
「ええ、でも手付きが」
「手付き?」
「お客さんの話だと、初心者丸出しの手付きだったそうです。こう、親指と人差し指を摘むように、石にまるで慣れてない様子で。わざわざそんな演技をする必要性なんて、あります?」
「アキラ君を油断させるため……も、ないな、これだけの腕なら」
「私もその可能性は考えましたが、さっきの緒方さんの言葉で完全に排除しました。きっとアキラ君もそうでしょう」
「しかも二回勝ったというのなら本物だろうな。もう一局は?」
わかりませんと首を横に振られ、嘆息する。シンドウとやらもアキラも本気を出していないこの一局では、如何な緒方であったとて、確実なところは言えまい。
「二局目は多分誰も知りません、アキラ君は教えてくれないし、お客さんたちも憶えてませんでした。私は仕事中で見に行けなかったし。ただ、こっちの棋譜は、毎日のようにアキラ君が並べていたから、私も憶えてしまったんです」
「毎日? 悪いが、経緯をもうちょっと詳しく話してくれないか」
市河の話を要約すれば、以下のようになる。
去年の暮れ、ふらりと碁会所にやってきた子供は、まるきり初めてという言葉のとおり、打つのに金が掛かることすら知らぬ様子であった。棋力を訊けば、他人と対局したことがないからわからないなどとふざけたことを言う。それでいて、わかんないけどそこそこ強いと思う、と嘯くあたり、本当の初心者だと思われた。アキラを指名したのも単に、そこに居たただ一人の子供だからという理由であり、止める市河の言葉より先にアキラが受諾したが、それはアキラのほうが指導碁を打つつもりだったと言って差し支えなかった。
そこから先は市河にとっても伝聞だが、棋力を尋ねるアキラの問いに、やはりその子供は市河に対してと同じ、よくわからないが多少は強いといった答えを返したらしい。アキラが置き石を勧めたのに断った理由も、ただ同い年にハンデを付けられたくなかったためということだった。完全に「塔矢アキラ」を知らない無謀な小学生の態度であり、それでいてアキラがコミも設定せずに有利な黒を勧めたときには断らず、もはや何も知らない初心者決定と思われた。
結果は、先程市河が並べたとおりである。
それ以来、アキラは一週間程その棋譜を前に考え込んでいたが、或る日街中でその子供を捕獲し、碁会所に連れてきて再戦を申し込んだ。そのときの子供の様子はと言えば、コミもニギリも知らず、ただアキラの剣幕に狼狽えているだけに見えたという。
「……アキラ君が真剣だったと?」
「ええ、だから今度こそ本気で倒しにいったのでしょうけど。今度は中押しでした、物凄い早さで。更にアキラ君がすぐに崩してしまったとかで、憶えてる人が居ないんです」
「信じられんな。あの塔矢アキラを真剣にさせたことも、それ以上に、その上で勝っただと? 初心者? はっ」
肩を竦め、緒方はジャケットから煙草を取り出した。ライタを鳴らす指がかたい。
「狸が化けて出たか何かと考えたほうが童話としては面白いな。大体偶然街中で探し出せたというのが信じられん、この近所の子供なのか?」
「あ、それはわかりませんが、アキラ君がその子を見付けたのは、あながち偶然でもないんですよ」
眼鏡を上げ、睨み上げるようにして話の先を促すが、生憎と市河は緒方の視線に慣れていて、彼の脅しも通用しない。通じないと知っていて緒方は敢えてする、そのような男である。
「その子が初めて来たとき、私、帰り際にこども囲碁大会のチラシを渡したんです。大して興味もなさそうだったから来るとは思ってなかったけど、それをアキラ君に教えたら飛び出していっちゃって」
煙草を弄んでいた指を止める。
こども囲碁大会には、緒方もサポータとして参加していた。レベルは毎年の如くで、やはり塔矢アキラが異常なのだと緒方に知らしめる結果にしかならなかったものであったが、それよりも収穫は、参加者の子供とは別のところにあったことを憶い出す。
参加者の中には塔矢アキラを手玉に取れるような子供は絶対に居なかったと緒方は断言できる。不確定要素があるとしたら、ただひとつ。
「そのままその子を連れてきたから、きっと市ヶ谷で会えたんでしょうけど、それにしてもねぇ」
「ちょっと待て。シンドウと言ったか、その子供、目立つ金色の前髪メッシュじゃなかったか?」
「え? ええ、ええそうです! なに、緒方さん知ってらっしゃるんですか?」
市河が取り出した碁会所の記帳ノートには、いっそ見事とも言える金釘流達筆で、進藤ヒカル、と汚らしく書かれていた。