こども囲碁大会は、結果として、とくと観戦すること叶わなかったが、なかなかに得るものがあったと佐為には思えた。
ヒカルである。大会で真剣に打ち合う子供達の姿に、彼は意外なほどに歓心を示し、それは感動と呼べる類の感情ですらあったのだ。
そうして佐為は悟る。この子供は、全く以て何かに溺れたことがないのだ、と。
本腰を入れて何事かに取り組んだことがない。否、取り組めない。他人の真摯に対する感動は、裏腹の空虚に対する焦燥であった。何処か冷めた子供だとは思っていたが、多分に彼は目が広すぎるのであろうと佐為は思う。
初めて虎次郎に取り憑いたとき、彼は佐為の声と己の思考との区別を付けるのにえらく難儀していた。歳はヒカルより下であったが、精神的には現代の十二歳より寧ろ虎次郎のほうが自立していたと言える。つまり、それでも難しかったのは、裡の自己と他者の分別ではなく、純粋に処理能力の問題である。
佐為が憑いている状態とは、肉体の持ち主にとっては二人分の思考を並行処理しなければならないも同然である。しかし佐為によって強制的に過負荷を掛けられたとて、根本的な処理速度向上が望めるべくもなく、結局の所、虎次郎は佐為を棲まわせることによって、己の思考の一部を閉ざさざるを得なかった。謂わば、佐為と自分の残すべきところと捨てるべきところ、その取捨選択に、当時の虎次郎は難渋していたのである。
ヒカルにはそれがない。初めの幾日かこそ処理の限界に嘔吐を繰り返していたものであったが、もはや佐為の思考をコントロールすることに成功している。
それは即ち、己の思考を制御できていることと同義である。取り立てて頭の回転が早いわけでもなく、かと言って全くの無条件に佐為の自意識を自らのものとして縮小を図っているわけでもない。ただ彼は、虎次郎が苦労した切り分けを極自然に行えているだけの話である。
思えば、ヒカルにとって佐為が他人であるように、或いはヒカル自身もヒカルにとって他人の様相を呈しているのではなかろうか。目が広いとの感想はそれである。何時ぞや佐為はヒカルをして他人に同調しやすい子供と称したが、ヒカルのその姿勢が自分自身に対しても同様なのだとしたら、当人に自覚があるか否かは別として離人症にも近い。
彼は今迄ずっと、自分自身に対しても必要なときに同調してきたのかもしれない、と佐為が思うほどに、ヒカルの視点は佐為に対するときとヒカル自身に対するときとで変わりがない。冷静とは別のところで、ひどく遠い視点を何処かに保ち続けている。
だからこそ、佐為の自我を殺すことにもヒカルの自我を殺すことにも、ヒカルは長けているのではなかろうか。結果としてそれは、奪い合うしかない二人の寄生にも近い共生生活を円滑にしており、均等に分割することに成功している。
このような自我では、確かに何にも没頭できまい。囲碁莫迦の己をしてここまで考えさせられているのだから、と佐為は溜息を吐く。ヒカルが佐為の妄執に恐怖したのは、未来に対する希望の剥奪を恐れてのことだけではなく、己が決して至れぬ境地がある事実を認めることに対する拒否反応だったのやもしれぬ。
なのに、その固い場所に実際にふれれば、こどもは至って容易に感嘆を見せる。平八との対局の際、流した泪にヒカルが見せた寛容の意味を、ここに至り佐為はようやく理解した。
彼は自分を取り戻したがっている。
かと言ってそれは、他人の一意専心な懸命さに自分を重ねて得られるものではない。今、目の前でヒカルを睨め付けている、アキラの真剣を以てしても。
当のヒカルは現在、非常に困惑している。例えば穏やかな笑みであるとか、碁会所の料金をおまけしてくれたことだとか、そんな些細なことで、ヒカルがこの塔矢アキラという子供に好感を抱いていることは佐為も存知していたが、未だ真剣を知らぬヒカルには、理解したいと願ったとて、アキラの豹変の理由は知れまい。
囲碁大会にも出ていなかったアキラが、突如としてここ市ヶ谷に現れた理由は、彼がヒカルの手を確認したことで、佐為には理解できた。佐為も最初に確かめたヒカルの身体箇所である。
アキラの碁の腕は、佐為から見てもかなりのものであった。先程のこども囲碁大会の様子を見るにしても、彼の腕は抜きん出ており、恐らく彼は同年代の子供に負けたこともあるまいと思わせた。あれからアキラはずっと自分に勝った者、即ち佐為を探していたのだろうという佐為の予測は当たっている。
但し、それはヒカルという子供の姿をしていた。ヒカルという碁打ちでない指を持っていた。あまつさえ、それほどの腕を持ちながらも、このこどもは平然と、碁と棋士と、すべてを否定するかの如き暴言を吐いている。
「ちょっとプロになって、ちょこちょこっとタイトルの一つ二つ取るのも悪くないかな」
タイトル戦というシステムも、プロ棋士採用の仕組みも、佐為には知れるものではなかったが、ひとつだけ、佐為にも確実に言えることがある。
その暴言を口にしたのが、アキラを負かすほどの腕を持つ子供でなければ、或いは碁石に磨り減った碁打ちの爪であったならば、アキラはここまで激高しなかったであろうということである。勤苦も知らぬつよく傲慢なこども、と、アキラには、現在のヒカルがそう見えるに違いあるまい。
「君が碁打ちのはずがない、碁を打ってきた者がそんな暴言、吐くものか!」
逆に言えばつまり、碁打ちであることを、それが暴言と理解されることを、アキラがヒカルに望んでいたということになる。
「ちょっとプロになる? 棋士の高みを知っているのかッ。忍耐、努力、辛酸、苦渋、果ては絶望まで乗り越えて尚、その高みに届かなかった者さえ居るんだぞ! 父の傍らで、そんな棋士達を見てきた。それを、君は……!」
だがアキラも、この才能ある子供も、ヒカルと同じように、そして自分と同じように、棋士になれぬ絶望など知ってはおらぬだろうと佐為は思うのである。
この子供が努力してきたというのならば本当であろう。苦しくても打ち続けてきたというのは嘘偽りないであろう。
だが、努力が己に返る才能は如何ともし難く、佐為が見るに、アキラはそれを有していた。だからこそ、アキラにはその辛苦はわかるまい。ならばその辛苦に報いるためにも、才ある者が取るべき行動はひとつ、と佐為は既にしてその部分を切り捨てている。アキラは己も無意識にしてきたことだろうに、優しさ故か無知故か、甘いものだと佐為は呆れ、そして哀れんだ。
苦しまずとも裏切り続けようとも、才ある者は平然と凡人を踏み付けて上に行けるものであるし、行って良いのであり、大局的には彼等を侮辱することさえ、勝ちさえすれば許される。ただ、己がその事実に傷付き立ち止まること以外は、何であっても。
阿古田の行為に怒りを抱いたのと同じ心で、佐為はそのようにも考える。阿古田は形こそ違え、佐為が虎次郎に行ってきた行為と同じことをしていた、だからこそ許せなかったのやもしれぬ。
そもそもプロの高みなどという正体が知れぬ、と眉間に皺を寄せた。プロというのは、聞けば碁を打つことを金に換金するシステムのようである。佐為にはそれすら碁に対する冒涜と見え、延いては、本当に何も知らぬヒカルよりも、アキラのほうが暴言を吐いているとさえ思えなくもなかった。
金にならなければ打つこともできぬと言うのか。先程の囲碁大会の子供達も、何が益になるということなく、ただ純粋に対局に勤しみ、相手の先を行く一手だけを、そのあどけない眸で追求していたではないか。プロになることに何の意味がある、と佐為は苦々しく扇子をにぎる。
対局の場を多く他人に認められてしか自らに規定できぬ、それは佐為を陥れた菅原顕忠と変わらぬ思考であるとさえ感じた。
「ボクはプロになる。いずれなる。君が苦もなくあっさりタイトルを取るというのなら、こんなところでボクに負けては話になるまい。逃げるなよ……今から打とう!」
ヒカルに伸ばされた子供ながらに碁打ちの手、それに湧いた凶暴な感情が、果して本気の対局に臨めることに対しての歓喜からのものであったのか、佐為には言うことができない。
雨が降り出していた。
アキラに拘引されて足を進めるヒカルは、瞠目しながらも、何やら神妙な貌である。見遣る佐為の視線にも気付かぬ様子で、彼にしては一心と呼べる激しさを以て己を引くアキラの背中を見ていた。
それは、大会で見せた感情と同質のものであった。激越ながらも、或る種の静穏。困惑を極めながらも、醒めた視点でヒカルはアキラの激情に感動している。
ふと佐為の心に計算が働く。ひょっとしたら、この塔矢アキラの頑ななまでの一途さは、ヒカルを動かしはしないだろうかと。そうしてアキラは、ヒカルと違い碁に専従する身であり、その心理を操ることは佐為に容易い。
己を切り刻むようにして、彼を切り裂けば良いだけの話である。