死活の急所 第三局

Novel

 あかりの知るヒカルは、クラスの女子の間では小猿とでも称される類の、ひたすら元気しか取り柄がないといった観の子供であった。

 運動大好き、勉強大嫌い、落ち着きなく常に身体を動かしており、礼儀知らずで奔放で、いつも教師に小言を食らっている。万事に於て粗雑な性格というわけでもなかったが、決して繊細とは言い難い。親や教師の心配を知らぬ気に、いつも外で悪戯をしては、怪我などこさえて夕飯時にはちゃっかりと帰ってくる。

 インドアの人間には絶対なれないタイプ、というのがあかりの評価であった。手先が不器用なわけでもなかったが、コツコツと何かを積み上げてゆく注意力と集中力に欠けていた。彼の意識は外に外に向いてゆくもので、一つ処に留まることができないのだ、とあかりは分析している。良く言えば視野が広い、とまで言ってしまうと、あかりの欲目も過ぎるであろうか。

 小六ともなれば、やれ初恋だの告白だのと騒ぐ女の子も既に一段落し、一夜のうちに相手の名前の変わる恋よりは、もっとじっくりと長期計画を練れそうな相手を選ぶようになっている。

 そんな折にモテるのは、ヒカルのようなタイプではない。昔はヒカルにキャーキャーと秋波を送っていた女の子達も、今はもうじき上がる中学の先輩やら、ちょっと年上のアイドルやらに熱を上げていた。

 あかりはそれに何処かほっとしている。ほっとした時点で、手の掛かる弟と思っていたヒカルに対する自分の気持ちに疑問を抱いた。

 一度だけ、ヒカルをはっきりと意識したことがある自分を、あかりは自覚している。それは小三だったか、子供達が性差というものを意識し始めた頃の話で、女の子は初恋を吹聴し始める時分、そして男の子は女子を避け始める時分のことであった。

 それまで名前で呼び合っていた男女は必ずと言って良いほど苗字で呼ぶようになり、よそよそしくわざとらしく、近くで触れ合うことを拒んだ。今考えればまるで莫迦げた話だとあかりは思うが、当時はそれに疑問も抱かず、自分の中に何らかの欲求を抱いたわけでもなく、ただ風潮に乗って呼んだのだ。

 進藤、と。

 ヒカルはギョッとしたように目を剥き、次いで不機嫌な表情になると、おまえもクラスの奴等と同じ? と言った。

 その先を続けるでもなく、踵を返して帰路を一人で歩いていったヒカルに、あかりは初めて羞恥心というものを覚えた。何を恥ずかしいと感じたのか、今尚明確に説明すること叶わないが、それきりあかりはヒカルを無理に苗字で呼ぶことは止めた。止めた自分を愛しいと感じた。以来、彼等はどれだけクラスメイトに冷やかされようとも、昔ながらに名前で呼び合うことを続けている。

 当時のヒカルが、何を考えて変わることに拒否反応を示したのかはわからない。自分の価値観を大事にすることを既にして知っていたのかもしれないし、或いは逆に精神年齢の低さからクラスメイトの成長に違和感を抱いていたのかもしれない。いずれにしろ、未だ以て彼等は互いに互いを名前で呼ぶ。

 ヒカルはパッと見、まるで成長していない風で、やがて冷やかされないほどに周囲が成長しても、まるで何も意に介さない様子で、あかり、と子供のように清々しいかおで彼女を呼ぶ。あまりの変わらなさに、意識したはずのヒカルは再びあかりにとって弟に戻ったものであったが、先日ヒカルが倒れて以来、どうにもあかりは気持ちを持て余していた。幼馴染みという関係に、疑惑を抱くのも時間の問題であった。

 吊り橋効果などあかりの知るところではなかったが、救急車に乗せられて病院に運ばれたヒカルを心底心配した気持ちは、確実にあかりの乙女心だか母性だかを揺さぶっていた。それに追い打ちを掛ける、ここのところのヒカルの変化は、あかりにとって困惑以外の何物でもない。

 そもそもの発端も、そういえば碁であったと、溜息を吐く。

 彼が倒れたのも、ヒカルの祖父の家にある蔵で、碁盤に触れてのちだった。それからというもの、突如として嘔吐したり、誰も居ない空間で喚き出したりと、ヒカルは奇行に忙しい。かと思えば社会の点数は上がり、宿題を真面目に提出し、代わりに体育では調子を崩すという勉学少年の兆しを見せている。

 果ては囲碁である。先日家を訪れた際、ヒカルの母は、彼が囲碁教室に通い始めたのだと、同じく困惑の表情で言ったのだった。

 直接問うてみたら、別に面白いものでもないと言いながらも、だがテストの合間にちらと盗み見たヒカルが机から引き出した紙には、こども囲碁大会と書かれていた。

 囲碁が何らかの形でヒカルを変えたのは間違いないだろうと思うのだが、それにしてもまるで理由が読めなかった。あかりにとってだけではない、彼の母親にとっても、ヒカルの変化の所以は全く見当付かぬものであろうことは間違いない。あの落ち着きない子供に、囲碁などと渋い趣味の似合わぬこと似合わぬこと、と首を振る。よしんば興味を持ったとて、いつものように一過性のものに過ぎないだろうと思うのに、あまりの変化の激しさが何やら小さな棘のようにあかりを刺す。

 その不可解はあかりを苛立たせ、感じる謂れもないと思いつつも淋しさまで引き摺り出され、その感覚がひどく甘さを含んでいることに、彼女は更に戸惑う。

 複雑な表情で見詰めた先のヒカルは、まだ囲碁大会のチラシを広げていた。

 まるで誰かに見せるかのような角度の視線で。

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