はるかな高み 第二局

Novel

「あ! なんだ、子供居るじゃん!」

 何時ものように碁会所で棋譜を並べていたアキラの耳に、ひどく明るい声が届いて顔を向けたら、目に飛び込んできたのは、これまた明るい髪の色を持った子供で、そのいろはアキラに何とはなしに好い気分をもたらした。アキラはあまり子供との接点がない。アキラが子供を嫌っているわけではない。子供のほうにアキラが避けられる、それだけのことであった。ただ子供を見ている分には、アキラは幸せな気分になれた。

 その、道端の花を慈しむが如きの視線が、同じ子供の姿をしたアキラという人間を子供達が避けている理由となっていることに、だが気付けるほどにアキラは大人ではない。或いは気付く必要もなく、手に入れないままである。子供を理解することも、子供に理解されることも、アキラの生活にとって不可欠なものではなく、それほどの重要性を感じてはいなかった。彼にはもっとすべきことがあり、すべきことをしたいと思い、そうして実際に行っており、そこまで重きを置いておらぬ事柄に掛ける時間を、アキラは勿体無いと考える人間であった。

 今回、アキラに接続を求めてきたあかるい子供は、アキラがすべきことの範疇に対する侵入を試みていた。

 碁を打つこと。それがアキラにとってすべきことであり、アキラがしたいと思うことであり、また付随してアキラは、子供に対する碁の啓蒙促進に己も貢献すべきと考えていた。

「対局相手、探してるの? 良いよ、ボク打つよ」

 或いは、碁を打てる相手ならば相互理解の必要性も、また可能性もあるやもしれぬ、という、それが期待でなかったと言い切ることはできまい。理解者を求めていないわけでもなく、理解者が居ないわけでもなかったが、アキラにとってはその相手が子供では難しかったというだけの話である。

「ラッキーだな、子供が居て。やっぱ年寄り相手じゃ盛り上がんねーもんな!」

 不穏当な発言で周囲から白い目で見られた子供は、だが臆することもなく平然と名を挙げた。

「奥へ行こうか。ボクは塔矢アキラ」

「オレは進藤ヒカル。六年生だ」

 しんどうひかる。名前までもが明々しいと笑みが零れる。

「あ、ボクも六年だよ」

 尤も、半ば諦めてもいた。今迄幾度となく碁の打てる子供との第一次接触は試みてきた、或いは試みられてきたアキラである。表立って自覚していた部分のみを言えば、将来碁界を背負って立つという矜持から、未来の客ないし同業者となるかもしれない幼い子供を大事にしようとしただけとも言える。入場料をサービスしたのも、同様の心理からと言えよう。

 つい先日も、既にアキラの記憶から名は失せているが、アキラに対し対局を挑んできた子供が居た。こども名人戦で優勝したというその子供に、アキラは目を輝かせて負けることすら期待したものであったが、てんで相手になる腕ではなく、ああ子供のトップでも共に歩ける相手たり得ないのだと、アキラに絶望に近い失望と、いずれ確実に己が碁界を担うのだという更なる自負を抱かせたものであった。

 アキラの父は、アキラを子供の大会には決して出さない。その意味を知らぬアキラではなかったが、それでも、と何処かで期待はしていたのであろう。

 年上のプロを友人と言い切り、名人の父に三子置きで対局になる。そうできる小学生の特異性を、理解と自覚はしていても、その自負は何らこどもの期待を壊す要因にはなり得なかった。

 諦めながら、アキラは期待していた。それを自覚していたか否かはまた別の問題である。

「棋力はどれくらい?」

「よくわかんないけど、ちっとは強いぜ、きっと」

「よくわからないのに強いの? はは、じゃあ取り敢えず、君の置き石は四つか五つくらいにしようか」

 棋力も知らぬ初心者が、己の相手になるとは到底思えなかったのは事実である。寧ろ軽んじていたと言って良い、期待は期待の形でアキラの棘となることもなく、同い年なのだからハンデなしでと言った彼の意地にも、アキラは穏やかに笑って応じるのみである。

「じゃあ先手でどうぞ」

「わかった、オレが黒だな。あ、オレちょっと打つの遅いけど、勘弁な」

 そう言って石を置いた、まさに打つと言うよりは置いたという表現の相応しい初心者の手付きは、アキラの苦笑を深くさせたものであったが、それにしては石の筋が美しく、アキラは考えさせられる。

 手筋は流れる清流が如きに淀みなく、定石の型は古式ゆかしく泰然と、そしてこどもの指はふくふくとあどけなくたどたどしい。

 首を傾げた。人形めいた仕種で真っ直ぐに流れる黒髪を揺らし、手の合間に指を口に遣る。金色のこどもよりは幾分成長を見せるほそいゆび。流れるような動作で、あるべき場所に石を置くことのできるゆび。

 そんなアキラの打ち込みにも全く動じる様子を見せないこどもは、これまでも何度かあったように、到底考える場所ではない妙な局面でふと手を遅め、ああここだここだ、などと更に奇妙な言葉をそのぽったりと薄紅に染まる口唇に乗せ、ことりと鈍い音を立ててくろいしを盤に乗せた。

 その一手。

 最強の一手でもない、最善の一手でもない、その手。

 気付いたのは、アキラだったからこそであると言って良い。アキラの力量を以てして、その一手の意味に気付けたのである、アキラはそれを誇って良い。

 だがその余裕もなく、愕然と目を見開き、アキラは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

 それはアキラの力量を確かめる一手であった。アキラの力量を試す一手であった。

 遙かなる高みから。

 その立ち位置はアキラのもののはずであった。棋力の何たるかも知らず強いなどと嘯く子供に、見下ろして指導碁でも打ってやろうとしていたアキラの姿が、鏡に映されたかのように己に真っ直ぐ向けられている。アキラはそれに驚倒していた。

 局面は終始均衡している。陣は左に揺れ右に揺れ、だが平均として天秤は水平を保っている。

 意図的に崩さないのだ、と気付いたときには終局が見えていた。コミ無しで言えば二目負け、コミを入れればアキラの三目半勝ちではあるが、そのようなレベルではないことを、アキラ自身がモノクロームの中で実感していた。

 そのこどもは最後まで明るく、じゃあな、と席を立って跳ねるように歩き去る。常連がその異常事態に気付いたときには、既にして碁会所からちいさな姿が消えた後であり、ざわめきは大きくなるばかり。その騒ぎの中、ひとり悄然と盤を見詰めるアキラに、何も知らず受付で彼を見送った市河が聞きつけ、驚いた様も隠さずに詰め寄った。

「負けたってホントなの? アキラ君。だってあの子、今迄一度も対局したことがないって言ったのよ!」

 がたん。椅子が大きな音を立てることにも構わずに、アキラは立ち上がり、扉の向こう、そして盤面を、瞠目して再度見据える。

 進藤ヒカルに紡がれた、白と黒の世界を。

 そうしてそのむこうに見えた、もうひとりの己を。

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