棋聖光臨・肆 第一局

Novel

 結局佐為は、ヒカルの祖父、平八と対局すること叶わなかった。理由は至って簡単、ヒカルのあまりの手の遅さに、平八が短気を起こしたためである。

 石の並びには意味がある。応手として何処に置くのが理に適っているか、打ち手によって好みはあろうが、特に序盤は或る程度置くべき場所というものが決まる。

 だがヒカルにはわかるはずもなく、やれ大ゲイマ掛かりだ、やれコスミだのと言われても、到底付いてゆけるものではなく、かと言って番号で言えと佐為がそれに従ったとて、三百六十一ある交差点を数えている間にもヒカルの焦慮と平八の苛立ちは募ってゆき、遂には突き放されたという話であった。

「ヒカル……半年後にまた来いや」

 自宅に帰り、部屋で盛大な溜息を吐いたヒカルの横で佐為も嘆き、つられてヒカルに胸焼けのような嘔吐感が沸き起こる。

「悪かったな。でも、ま……というわけさ」

 目の前に横たわった宿題も併せて、ヒカルはひたすら憂鬱といった貌を見せ、遂には机に突っ伏した。

「囲碁の基本も知らんオレにはキツいわ。もう打つのは勘弁……うえっ。いちいち落ち込むなよ、うー……」

(だって……)

「そうでなくてもこっちも気が滅入ってんだから。明日までにこの社会のテスト、直さなきゃならないんだ。泣きたいのはこっちのほうなんだぜ」

 そこでふと、こどもの目が輝く。ちらりと視線をくれる。なぁ佐為、と呼び掛けられた。

「おまえ、天保の改革って知ってる?」

(天保の改革? 水野忠邦老中の? 色々ありましたねぇ)

 人返しの法を出したり、物価の引き下げをしたり、一度など城中で彼に――然様なことが如何したとばかりに佐為は記憶を辿るが、どうやらそれが宿題とやらの内容らしい。ヒカルは佐為を遮り、何やら必死に書き込んでおり、覗き込んだが、現代仮名遣い故にか、はたまた字の汚さのためにか、佐為にはそれを読むことができぬ。

「わかった、それはもう良い。じゃ、ペリーって何処に来てたんだ?」

(浦賀ですよ、軍艦四隻を率いてですね)

「浦賀っと……。へぇ、佐為、おまえって結構使える奴だな」

 己を利用する子供に思わず苦笑する。このような瑣末事で相手に負わせた貸しを軽減させてしまう計算の無さに笑った。

「……なぁ佐為」

(はい?)

「何で囲碁の打てないオレなんかに引き寄せられたわけ?」

(…………。私が訊きたいです)

 ヒカル自身が打てぬことは佐為にとって如何程の問題にもならないはずであったが、石が置けないとなると話は別である。否、時間を掛ければそれすらも問題とはならないのやもしれなかったが、相手はヒカルの祖父、孫と同様に気が短かった。

 己が取り憑けた、その時点で佐為としてはヒカルの可能性を疑いもしなかったものではあるが、如何せん興味の欠片も抱いていないということが懸念であった。囲碁を愛さずにいられるということ自体が、この幽霊の想像の埒外である。この子供をどのように扱って良いものか、想像も付かぬ。

「囲碁の基本ねぇ。……囲碁教室とかに行ってみるかぁ」

 囲碁教室、という場所の有り様は佐為の知るところのものではなかったが、社会保険センタとやらで行われていたその会は何のことはない、昔大君の相手をしていた時分の行為と変わりなかった。

 詰碁を教えている人間は、ヒカル曰くプロということであったが、囲碁で金を稼ぐという行為に、多少物哀しく袖を握る。時代が違うのだと思いはしても、金になど換えられる行為と碁を、同列に考えることは佐為にはできなかった。ヒカルもであるが、現代人とやらはどうにも行為がすべからく金銭に結びついているとの印象が強く、平安貴族から見れば酷く卑しく思えるのも致し方あるまいが、佐為は己の、生活を気にせず趣味に興じることのできた優雅な暮らしが、どれほどの犠牲の上に成り立っていたのかを実感として知ることはない。

「えーと、君は進藤君だったね。碁は初めて?」

「あ。はい、全然何も知りません」

「そう、わかりました。どうして碁に興味を持ったの?」

「いや別に興味なんて……ちょこっと基本を教えてもらおうと思って。テストの点も稼げるし、小遣いだって――」

「テスト?」

「う。いや、何でも……」

 白川という名の青年に石を囲うという基礎の基礎を習ってのち、ヒカルは教室内を歩き回り、子供が居ないことに腐していたが、やがてひとつの噂話に耳を引かれたのは、或いは佐為の影響だったやもしれない。

 阿古田なる人物が、腕を笠に弱い者苛めを行っている。佐為も見たが、それは酷いもので、明らかに己が上手と知った上で下手の者を甚振り、優越感など抱いている卑屈さに、あるはずもない血が上った。

(ヒカル、あの人と替わってください)

「え?」

(怯えきっているあの人に代わり、私が打ちます。強い者が弱い者をいたぶる碁なんて、私は許せません!)

 その間にも阿古田は相手を弄び続けている。

(私がこの男を窘め、大差で一太刀にしてみせます。無慈悲な一手に見合う苦渋を、この男に飲ませてやるのです。そして終局ののち、言ってやるのです。これからは私が相手だと……!)

 ていうか相手になんのはオレなんだけど。妙に冷めた呟きが聞こえた気がし、ヒカルに目を遣れば、佐為を窘める間にもふくよかな手は碁笥に伸び、はっし。掴んだかと思うと、次の瞬間には阿古田の頭に碁笥をすっぽりと帽子のように被せ、それはそれは性悪といった風情でこどもは無邪気に嗤っていた。

「おーっと、すみません!」

「な、何をする、この……ッ。折角の対局が台無しじゃないか!」

「いやー、ちょっと手が滑っちゃって。じゃ、今これ取りますから失礼をば」

「! 莫迦、何をする! やめろ! 駄ッ……」

 ずるり。音まで聞こえてきそうな体で碁笥と共に阿古田の髪が滑り落ち、現代人の髪とは外れるものであったのか、と佐為も顎を外したくなったが、皆にとっては驚くべきところではなく、笑いに落ちるべき場所であったらしい。途端に爆発した哄笑に佐為は付いていけなかったが、ヒカルのほうはといえば役者宜しくどうもどうもと頭など下げている。

 尤も褒められるべき行為ではなかったようで、一頻りの笑いののち、白川には多少の御説教を食らっていた。

「いいかい進藤君、来週ちゃんと阿古田さんに謝るんだよ」

「はい、そりゃ。オレもちょっとやりすぎたかなと……」

 反省した様子で、だが一瞬きする間にも、こどもは顔を上げている。

「そうだ、先生。あのさ、藤原佐為って知ってる?」

 かと思えばこのような質問である。知るはずもなかろう。案の定、佐為の目の前で白川は疑問を顔に刷き、鸚鵡返しに名を呼んだ。

 多分にこれからもヒカル以外に呼ばれることなどないであろう名。

「ふじわらの……さい? 御免、知らないなぁ。その人、囲碁に関係ある人?」

「ん……良いや、何でもない。さよなら」

 ヒカルは知らない。その後白川と生徒の間で交わされた会話に出る、碁の歴史上最も強い者の名が、本因坊秀策であったなどと、知ることはない。

 ヒカルは知らず、そして佐為も知ることはなく。

 未だ、或いはこれからも。

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