棋聖光臨・貳 第一局

Novel

 貴族に職業はない。生業としての仕事など持つのは下賎の者の証拠であり、藤原に名を連ねる佐為が有業の身のはずもなかったが、ヒカルには説明したとて理解されまい。佐為の言う勤めはあくまでも嗜みでしかなかったが、それが通じはせぬだろうことくらい、この浮世離れした幽霊も承知していた。

 江戸の世は職業制度の整備された時代である。佐為がそれを知るのは大分後のことになるとは言え、人には職業というものが何時の間にやら必要となったのだ、とだけは当時も理解していた。働く者などヒトの範疇ですらなかった己の時代とは違うのだと、秀策の時代にこの雅なる貴人も知ることとなった。

 故に、佐為は己の指南役を、今ヒカルに教授している教師と同じようなものだと説明した。進藤ヒカルという名の新たな媒体は、それには納得した様子であったが、入水の件には愕然と目を見開いていた。平安貴族の生活力のなさなぞヒカルに理解できようはずもなかったが、それ以上に、汚名を着せられ死さねばならぬ状況など、子供の想像の及ぶところではあるまい。

 だがそれでも、同情めいた感情の流れは伝わってきて、佐為は内心わらう。こどもなのだ。あたら優しく無意味に他人に同調しやすく、そしてそれを表現する術さえまともに持たぬ、ヒカルは本当に子供であった。

 またひとつ、この度の己が形成されてゆく感覚に、立つはずもない肌が粟立つ。他人に認識されて初めて個というものが成り立つものならば、佐為は確かにヒカルに認められて、今形を作りつつある。

 ニューラルネットワークなどこの幽霊の知るところではなかったが、己が確実に媒介の肉体に引き摺られてその形を変えることを、佐為は合点していた。碁打ちの才ある者にしか取り憑けないのではないかという予覚は即ち、肉体の能力的限界が佐為という精神体にも作用を及ぼすであろうことに繋がる。肉体を同じくして、佐為は憑依対象の思考能力に依存する。それが肉体の持ち主に対する阿諛に近い擬態であるなどと佐為は考えたこともないし、そのように象られてしまった時分には既にして考えられもしなかったが、確実に効果は上げていた。

 ヒカルという子供によって作られる佐為という人格。ひどく幼く優しく築かれることを予感して、わくわくと心弾んだ時点で既に感化されている。

「じゃあ、おまえは幽霊みたいなもんか」

 結局、ヒカルの表立っての感想はそれだけとなったようである。佐為はただ是とだけ応えた。

 大君の囲碁指南役としてあった藤原佐為と菅原顕忠、満足していなかったのは顕忠のほうであった。指南役は一人で充分と、対局にて雌雄を決し、勝者のみを召し上げるよう大君に進言した。帝の覚えめでたくあることに大して興味のなかった佐為には煩わしいことこの上なかったが、大君の御言葉とあらば致し方なく対局したものであった。

 結果、故意にか偶然にか、顕忠の碁笥に混じっていた自分の石を彼がアゲハマとしたことで、それを諫めようとした佐為が逆に斯様な手を使ったと先手を打たれ、動揺を収められぬまま負けを喫した。御前で陋劣なる行為に及んだとして都を追い出され、当時は泪に袖を濡らし死したものであったが、恨み辛みも疾うに忘れ果て、現在尚残るのは、もっと碁が打ちたかったとの一念のみ。

 よって今現在ヒカルに当時の状況を同情されるのはこそばゆいものであったが、それで彼が打たせてくれるようになるのならば惟幸い。抜け目無さもヒカルらしさのままにか、佐為は大袈裟に哀しみを表現して見せる。策士じみた本心。

(成仏できぬ私の魂はその碁盤に宿り、遙かな年を経て、一人の子供の声を聞きます。ヒカルと同じように誰にも見えぬ私の涙を見、私の声を聞いた子供、彼の心の片隅に棲まわせてもらいました。子供は碁打ちを目指していたので、喜んで私に身を委ねました。そして私は、私自身の望むまま、囲碁を打つことができたのです。お城碁を打つ第一人者となった彼は、不幸にも三十四才の若さで流行病に罹り……)

 死んだのだ。

 翳りが落ちる。自分が切に哀しんだことをようやっと憶い出し、佐為は今、心から彼の死を悼んだ。辛苦も悲哀もすべてたったひとつの想いに絡み取られて消えゆく、身を持たぬ業の固まり。内省すら忘れ果てる己を憾みがましく思おうとも、佐為は碁に対する情熱を消すことすら許されない。そのような存在であった。

(彼の名は本因坊秀策……良い人でした……)

 言葉にすることを諦めた部分で、ただ佐為は虎次郎を懐かしんだ。

 幼名ではなく世に知られる本因坊の名で語ったのは、ヒカルの知識を期待しないでもなかったからであるが、やはりと言えばやはり彼はそのような名など知らず、文房具を所在無げに指先で弄んでいる。

『ほんいんぼーしゅーさく……? ふーん……誰だか知らねーが、オレが見た碁盤の血はそいつのものだったわけか……。で? オレにまた乗り移ったのは、まだ碁を打ちたいわけ?』

(はい。何故なら私は)

 それのみが佐為の存在理由であり、それ以上にもそれ以下にも存在せぬ。ふと気が張る。ヒカルが息を詰めたのが知れた。

(まだ……神の一手を極めていない)

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