打ちたい、と。
もはや彼にはその思考しかない。
たったひとつの思考しか残ってはおらぬ。だがそれも道理。彼は怨霊であり、恨みを晴らさんがため、この世に留まっているだけの存在である。その未練以外になにひとつ残っていなかったとて、何の不思議があろう。
彼は囲碁に心を残して死した者であった。碁を打つこと、それのみに心を傾けたその年月は、既に千の年を数える。否、途中で彼に手を差し伸べんとした人物に心を寄せたような気もしたが、憶い出せぬ、憶い出せぬ。久々に彼の人物の泡影を指先に絡み引き寄せようとしても、その焦燥さえすぐに忘れ果てる彼はまさに怨霊以外の何物でもない。
店頭の薄明かりの下、或いは暗い蔵の中、うっそりと待ち続けることに飽くという感情もなく、ただ彼は待ち続けた。己が指の代わりとなるゆびを。
今、彼は持ち上げられている。こどものゆびのようだ、ぷくりぷくりと節の埋まったまるいゆび、綺麗なつめ。碁打ちではあり得ぬそのゆび。
彼にとって意味のないゆびが通り過ぎるのは常のこと、もはや欠片も諦念は湧き上がらぬ。ただ、このゆびの持ち主の、些か甲高い声を発する上に乗るきんのいとが、何か光明でも思い起させるかのようで彼は、そっとゆびを伸ばした。
「莫ー迦、囲碁だよ、碁盤とかいうやつだ。かなり古そうだな、じいちゃんが昔使ってたやつかな? 今はお宝ブーム、こりゃ高値で売れるぞ」
このこども、碁なる言葉は知っているらしい。しかも彼を売り飛ばすつもりとあらば、或いはまさに光明と言っても良い。この蔵に閉じ込められてから幾年が過ぎたのか彼にはわからぬが、ここに来てからとんと人と出逢う機会がなくなった。それは取りも直さず、自分を生かすゆびと出逢えぬことと同義である。
彼は思う。自分は出逢わねばならぬ。自分に打たせる、神のゆびと。
「それにしても全然落ちないぞ、この汚れ」
自分の声を聞く者と。
「? 汚れてなんかないよ、綺麗じゃない」
「えー? 汚ェよ。見ろよ、ここに血の痕みたいに点々と……」
初めて。そこで初めて、こどもをまじと見たと言える。
言葉に凝っと見詰めたこどもの貌は、前の毛にきんいろを乗せる、毛唐とのあいのこの如き風体である。ふくふくしい頬、大きな眸。年の頃は十を過ぎたほどであろうか。
こどもは必死に碁盤を指差し、もうひとりの娘御に説いているようではあるが、彼女には見えまい。その血の痕は、そう、彼の人物が死ぬ間際に残した――。
「何処?」
「ここ」
「どこぉ?」
「ここだってば!」
(見えるのですか?)
ならばこの声も聞こえよう。もはや確信に近く、彼は玲瓏と声を発した。このこどもには聞こえるはずである。聞こえぬ人物が、あの染みを目にすること叶うはずもない。
まるい、まあるいこどものゆび。磨り減っておらぬ、きれいなつめ。
これから、蓋し彼のゆびになる指。
「だからさっきからそう言って……」
(私の声が聞こえるのですか?)
「へ?」
(私の声が聞こえるのですね)
こどもは顔を上げた。金の髪が光に透ける。美しい。
彼はふと、微笑んだ。肉体が自分に近くなる感覚、ああ、彼の人物のときもそうであった、と吐息めいた笑みを零す。
名が近付く。彼という個を認識するための名を手繰り寄せ、自分を抱き締める。
「あかり、この蔵の中に誰か居るぞ……誰だ? じーちゃんか? 隠れてないで出てこい!」
「やだぁ! 何よヒカル、変なこと言わないでよ、わ……わたし帰るよ!」
そう、憶い出した。彼の人物の名と、己の名を。名、名は――。
(居た。居た。あまねく神よ、感謝します――)
「出っ……!」
(私は今一度……今一度、現世に戻る──)
気を失う一瞬前、こどもは確かに彼と視線を交わした。前の毛と似た、色の薄い虹彩。綺麗なきれいな稲穂のいろ。
「きゃーッ、ヒカルが倒れてる! おじーちゃん、ヒカルが大変だよーッ!」
彼の名は、佐為。藤原佐為。或いは彼が身の裡に棲まわす今一人の名を、本因坊秀策という。