精華 II

Novel

「なーるほど! それでレインなわけかー!」

 経過を聞いたラグナは腹を抱えて笑っている。憮然とした面持ちで、それを見遣る人物がひとり。

 それは端から見たら非常に微笑ましい光景であった。淡い新緑の隙間から木漏れ日の差し込む中、笑うラグナに髪を撫でられ、拗ねたように彼の妻が口唇を結んでいる。あり得ないはずの風景がそこにあった。

 線が細いとはいえ、その骨格は女と言うには無理があった。少年から青年へと変貌を遂げかけている伸びやかな手脚は、憧れようとも女性の持てるそれではなかった。それでもなお。

 それでもなお、レインがそこに居ると言って差し支えなかった。確かにスコールはレインになれていた。奇跡が起きたのかと、一瞬でも錯覚させることが可能なほどには。

 しかめっ面で舞台に上がったスコールの目に、驚愕と、そしてひどく傷付いた獣のような色の表情を刷いた、ラグナの貌が映った。瞳が合った瞬間、それは泣き出しそうなほどにゆがんで、微笑みの形に崩れた。

 彼も信じたのだ。ほんの一瞬。奇跡を。

 そう思った瞬間、スコールは舞台から飛び降りて駆け出していた。ざわめき立つ生徒達の間を、ラグナの手を引いて駆け抜ける。駈けて、駈けて、だが何処に行くあてがあるわけでもなく、ただ衆目に居た堪れなくなっただけであった。耐えられなかった、これ以上自分の姿を人目に晒しているのが。堪らなかった、レインを、ラグナ以外の人間が見ているのは。

 やがて辿り着いた訓練施設の裏手。こんなお祭り騒ぎの時期に人影のあるはずもなく、ようやく立ち止まって振り返れば、いつもの何も気苦労などないような笑顔でラグナは、よぅスコール……などと言う。

 脱力して、その場に座り込んだ。奇跡はもう起こせないのだと知り、虚しさに足掻いた指先はラグナの髪に絡まった。膝をついて覗き込んでくる男の目にはきっと、自分のほうが余程泣きそうな貌に映っているのだろうと自覚しながらも、立ち上がる気力もない。

 レインは居ないのだ。

 諦めて、スコールはスコールになる。請われるままに、最後の瞬間を除いた経緯を話す。指はラグナの髪に絡まったままだった。

 話し終え、やがて指はちからをなくして離れて落ちた。代わりにラグナの手がスコールの頭に乗せられ、ラグナは何も知らぬげに大笑いする。

 奇跡を起こそうとするスコールの努力は、ことごとくラグナによって踏み潰された。レインはラグナのものでしかなく、先程自分が感じたように他の人間が、それがたとえ自分であっても、ふれたのは赦されることではないのだと、思い知りスコールは俯く。俯いて、悔しげに口唇を噛んだ。そしてすぐに顔を上げて、目の前の男を睨み付ける。ラグナはまだ笑っていた。

 親孝行などと莫迦げた試みは端から無理で、却って傷付ける羽目にしかならなかったと、臍を噛んでも時間は戻らず、ただ怒っているようにもとれる表情のまま一言、ごめんと呟いた。

 ラグナはそれでも何にも気付いていないかのように笑う。

「何が?」

「……レインに」

「レインに?」

「……踏み込んで、想い出を荒らして」

「……は?」

 するとラグナは、今度こそ本当にわからないといった風に瞠目して首を傾げた。眉をひそめて瞳を覗いたスコールに、動じないところを見ると本当にわからないらしい。彼と同じ方向に首を傾けた。

「俺なんかがレインの真似をして厭だったんじゃないのか、あんた」

「……はぁ?」

「誰かがレインになるなんてのが気分悪かったんじゃないのか、と訊いている」

 目を見開いたラグナは、しばしの沈黙ののち、やがておもむろに息を吐き、スコールの頭から手を外して、顔に掛かる自分の長い前髪を掻き上げた。それはひどく緩慢な動作で、諦観を滲ませているかのようで、スコールの不安を煽る。

「ラグナ」

「違う。……違うな。ああ、厭だった。厭だったよ、誰かが、じゃあなく、おまえがレインの恰好すんのが」

「……ら」

「あんまりにも似てたから。レインに見えたから。じゃあスコールは何処に行っちまったんだろうって、思った」

「……え?」

 ラグナは笑んでいる。まるで切ないような眸で、完璧な微笑を形作っている。長い伽羅色のウィッグを、レインにするかのように愛しげに撫でながらも、彼はそのレインを否定し、笑うのだった。笑えてしまうのだった。笑えてしまう、その強さが堪らなくスコールには痛い。

「おまえが居なくなっちまうようで、厭だった」

 そうしてスコールを抱き締める。こんなにもレインが居なくて彼は孤独なのに、孤独で居ることのできる強さが彼の空洞を更に大きくしている。

 空虚は恐らく、スコールを見る度にラグナを襲うのだろう。スコールと対峙する度、ラグナは否応無しにレインを憶い出し、後悔に喘ぐのだろう。それでも、あたかもすべてが巧くいっているかのように、悔恨など知らぬかのように、ラグナは昔と変わらぬ笑顔で微笑む。

 そうしてスコールを救う。レインを否定してでも、スコールの存在をただ肯定する。

 救われたくなどないのに、と感じる痛みは、だがラグナにぶつけてはならないものだった。むしろ救いたいと、こうしてスコールが足掻く度に、却って彼を傷付けている。

 だが、わかっていても、なお。

「……居るだろ。俺は、ちゃんと。レインも、一緒にここに」

「……ふたり?」

「そうだ。ちゃんと、居るんだから、あんたは何も心配しなくていいんだ」

「そっか……」

 自分を抱き締めるラグナの吐息が、言葉と共にうなじに掛かり、ざわりと熱いものがたぐまる感覚に泣きだしたいような衝動に駆られ、でも泣いてなどいけないと己を叱咤する。

「……そう、そうだ。……わかったら、返事は?」

「はいはいはーい。ってなぁ、スコー……」

 身を起こしたラグナの、目がおおきく見開かれる。

 そこには、ラグナがいつも夢に見る、遠い日の微笑があった。

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