戦闘の中のヒロイン − 物語への生贄としての桑原 −

 結果としてはただひとり純粋な人間となってしまった桑原。4人揃っての人物紹介では、幽助の愛されっぷりをして「ヒロイン」と称してしまったが、物語上、実質的にヒロインとしての機能を担っていたのはこの人である。

 桑原は幽助の喧嘩敵ではあったが、同時に幽助を慕っていた同級生ということもあり、そこまでの性格変更もなく仲間としていつのまにか戦闘に加わっていた。この「いつのまにか」が、飛影の変更に比してとても自然で巧い。

 幽白に於いて攻撃力の目安となる霊能力は、霊撃力、霊感応力に分けられる(霊気量は総合的な生命力のようなので除外)。霊撃力とは、物理的な攻撃力を異界のモノに対し適用する能力、端的に言えば攻撃力であり、霊感能力とは異界のモノの感応及び具現化を指すようである。桑原は霊感応力こそ常人離れしているが、霊撃力はさほどでもない。これが何を意味するかと言えば、怪異を感じたり霊具を扱う能力には長けているが、実質的な戦闘能力には乏しいということになる。

 霊感能力については幽助が霊界探偵となる以前からの設定なので取り立てて言うこともないが、敢えて言うならば19巻コミックス表紙裏の作者の言葉を借りて「マイナチェンジ」、つまりパーティから抜けることとなったぼたんの能力と立場の一部を肩代わりした、という点だろうか。4人組の中では、霊具を扱うことが可能な者は桑原しか居ない。

 しかしそれだけであったのならば、ぼたんのままでも良かったはずである。だがバトル物へと変容する物語で求められたものは、戦闘能力としての霊能力。ぼたんでは駄目だった理由。それが元のままでは桑原にも、ない。しかも霊界の関わった幽助とは違い、霊丸のような霊的攻撃能力を、急に天から授かるのは不自然である。

 ここで巧いとわたしが言ったのは、桑原に戦闘能力を持たせるのと同時に、幽助にも霊能力者としての訓練とキャリアを積ませ、それを物語のメインとして見せたという点だ。つまり、幻海の後継者選考大会を指して言っている。

 幻海の霊光波動拳を我が物にせんと動いた妖怪を退治する名目で、後継者選考会にやってきた幽助は、そこで「たまたま」桑原と会う。桑原は決して後継者たらんとやってきたわけではなく、霊障を如何にしたら良いかという相談に「たまたま」やってきただけであったが、そこで幽助に「たまたま」会ったことにより、当初の目的を忘れて幽助との勝負に熱中し、「たまたま」霊具を介して攻撃力としての霊剣の発現に目覚めた次第である。ここに初めて、幽助の対妖怪戦に於けるバトル仲間としての桑原が「偶然にも」誕生したのである。

 而してその能力は主人公を超えるものでなかった。故意にか偶然にか、だがその弱さは結果としてヒトとしての幽助を所謂人情と呼ばれる領域、ジャンプの求める領域に留める役割を果たしている。

 幽助はあまり人間に受け入れられるということを知らない、超不良と呼ばれた子供だ。桑原は人間に於いて非常に珍しく、幽助の並外れた強さを知りながらも彼をただの喧嘩友達として扱った人物である。負けても負けても向かってゆくそのド根性、一筋に誰かを愛する一途さ、現実的で理性的な物の見方をできる魯鈍さ、などが、幽助とは決して相容れないものであったが故に、彼は物語上、幽助にとってのキィパーソンとなり得たのである。

 幽助の資質は多く直感と諦念と傍観と、それが故の発想の自由である。正義を以て自ら進撃するタイプではない。彼は殆どの場合に於いて受け身であり、魔界統一トーナメントを除き、事象は常に彼に「降り掛かった」類のものである。彼は人間の行く末に期待をして人間のために戦っているわけではなく、ただ流されるがままに戦っていた。

 に比べて、桑原は非常に言語化された思考の人間である。長い間人間に苦しめられてきた妖怪(雪菜)を前にして、「人間全部を嫌いにならないでくれ」と言える資質は、幽助にはない。人間という種を庇うかのような言葉は、人間を我が身に負うかのような言葉は、幽助には吐けまい。桑原は人間に傷付けられた所謂不良で、いとも簡単に妖怪に心を開く幽助に似た性質を持ち合わせながらも、幽助とは違い何処か蒙昧気味に人間を過信している節があり、だからこその人情味と道徳とを抱える。蔵馬は(……ここで「幽助は」と言えないあたりが凄い主人公だ)人間としての倫理こそ抱えているかもしれないが、道徳は恐らく4人の中で桑原しか持ち得ない観念である。桑原は「やらなければならないこと」「やってはならないこと」に合理的な理由を求めず、しかもそれは幽助のような自分ひとりの直感ではない、多く人間社会の規範に則した善悪でありタブーであり、それを抱えるが故に主人公とは相容れず、また必要とされる。

 謂わば桑原は、自らの裡に抱える正義が故に、事件に自主的に首を突っ込むのである。彼は唯一、霊界からの指令のためではなく、自分の意思で異界との戦いに身を於いた人物である。

 その姿勢に対して、幽助がとやかく言ったことはない。呆れたような表情を見せながらも、幽助は桑原の意思を(ただの寛容だったとしても)尊重する。そうして力の弱い彼が敵の前に倒れたとしても、幽助がそれに対し文句を言うことはないのだ。

 代わりに、幽助は後悔する。倒れた桑原を前に後悔する。無理に戦列に加わった桑原を責めるではなく、守れなかった弱い自分をこそ責め、後悔する。そうして幽助は強くなる。

 桑原の物語上の機能はそれである。ぼたんをも仲間に入れることは叶わない物語で、螢子は無論のこと、戦いという物語の中には入れられない。物語に「存在しない」登場人物「外」の女の子達をヒロインと呼ぶこともできなくなった物語は、だが、ともすればヒトを離れそうな主人公に、守るべき対象を必要としたのである。

 少年ジャンプの基本姿勢である。「努力」「友情」「勝利」。努力は望むべくもなかったかもしれないが、「友情」と「勝利」は、仲間意識のない主人公をして実現せしめるために、物語として戦いを共にする仲間の内にヒロインを設定するしかなかったのである。

 よって、「ヒロイン役」の「弱い仲間」である桑原は、戸愚呂によって殺され、仙水によって拉致される。それは物語からの要請によるもので、必然である。ピンクレンジャー(なんだかなぁ)の機能とは、敵の出陣による受動的な出動という宿命を持つ主人公を、能動的に物語に関わらせるための機構にある。

 よって桑原は、戦闘に付いてゆけるだけの能力と同時に、戦闘のぎりぎりのラインで踏み止まる能力を、物語によって要求されたのである。そうして逆に、その能力で尚、バトル物語に付いてゆくだけの性格を要求された。それが根性、人情、友愛、恋愛、正義、努力、現実主義、社会性、などの、桑原に付与された性質である。それらの性質を主人公が持ち合わせていなかったという点からも、桑原の存在は読者の共感を主人公サイドに引き寄せるという観点から都合良かったことだろう。物語のバランスとして、桑原の性質は大いに評価され、重宝されたわけである。

 だからこそ、幽助が変質を見せた、即ち幽助自身が自ら乗り出して作り上げた物語には、桑原は加わることができなかったのである。魔界統一トーナメントだ。あれだけは、バトル物に変容した後、初めて幽助が創造した物語である。その物語にはヒロインは必要ない。桑原も螢子も必要がない。物語はともかくとして、幽助自身は本当はヒロインを必要とはしていなかった。ヒロインとは、流される幽助の流される先に存在すべきものであって、流されなくなった幽助にヒロインは必要ないということになる。

 無論、だからといって、それで幽助の彼等に対する愛情が失われるわけではない。寧ろ、そこから始まるべきである。幽助自身の意思によって、始まるべきである。そうして初めて、幽助は幽助自身の物語に於ける「主人公」となり得るのだ。

 桑原が、ずっと幽助の友人たることを、わたしは心から望んでいる。