女神様は振り向かない

 中学生時代の螢子の人格が素直に何事もなく成長したら、幽助より蔵馬の肉体と人格に惚れるのではないかと思った。

 と、いきなり螢蔵を醸し出してから、徐ろに幽螢を語る。

 幽助→螢子は割と原作で描かれているように見える。幽助という人間は、14の身空で死んでも構わないと思うほどに、周囲に期待をしない人間だった。必要とされている自分を感じられない人間だった。

 そんな彼が自身の死を契機として、母親やら桑原やら竹センやらの「幽助に生きていてほしい」という愛情を初めて汲み取れるようになったわけだが、螢子に対してだけは違った。彼は、螢子だけは初めから自分に生きていてほしいと思っているだろうことに気付いていた。それを受けての「あいつが死んだら生き返る意味なんてあるか」という台詞だろう。彼にとっての彼の生は当初、彼に生きていてほしいと願う人達のためのものだった。その最たる願いの主が螢子であると幽助が思っていた、それを象徴する幽助の台詞である。彼は螢子のためならば、大嫌いな学校に行くことさえも、そうして生きることを選択することさえも厭わない。

 詰まる所、螢子という人間は、幽助という人間の軛だ。自由奔放、思うがままに生きているようで、幽助は実に他人のために生きている。他人を、螢子を拠り所として生きている(まさに! そのために生さえ彼は決定したのだ)。異次元砲を前にして彼は、世界の運命さえ螢子の手――彼が思うところの螢子という幻想――に委ねている。

 彼のそれは依存と言って良い。現実の螢子に拠った、だが現実の螢子を必要とはしない、彼の最大の甘えだ。彼は螢子を内面化する(女神とする)ことで、やっと自分に何かを決定することを許せるほどに、恐らくは弱い。彼自身の決断、例えば喧嘩が好きなこと、殴られる母親を守ろうとすること、何より父と母を求めること、などはすべて周囲に否定されるばかりで、彼は自分で何かを決定することを恐れているようにさえ見える。彼は決して周囲から与えられる不良というレッテルに逆らおうとはしなかった。あまりにも流されているが故に、逆に肥大して見える自我。

 そんな自我が、最大に流される先としてそこに在った存在が、螢子だ。その螢子は螢子としての自我である必要はなく、幽助が流れ着く先として幽助に必要とされているだけに見えた。幽助は、螢子の機嫌をこそ良く読んでいたが、彼女の内面に立ち入ろうとした場面を原作から(少なくともわたしは)読み取れたことはただの一度もない。機嫌を読むことに長けたのは、流れ着くことを許されるか否かを伺う姿勢から。内面に立ち入ることができなかったのは、流れ着くことを真に許されなかったとしたら耐えられない自身の精神を守るため。

 幽螢が哀しく見えるのは、幽助のこの依存のためだ。自分の生死さえ、幽助が螢子に委ねてしまう点だ。そうして螢子がそれに耐えられてしまったら、あまりにも螢子の意志が殺されてしまうからだ。螢子は多分にそれに耐えられてしまう人間だとはわたしも思うが、だからこそ耐える人格であってほしくない。だからわたしは幽螢を素直に支持できない。

 これを踏まえて、さて、では螢子→幽助を見る。彼女がまるで少女漫画のような展開に溺れることのできる少女で、好きな男の子に誰より愛されていると錯覚できてまぁ幸せ、なんて女の子だったら、幽螢は結構幸せなカップルになれるかもしれないが、彼女がそう在ってほしくないとわたしが願う以上に、そういう少女にはわたしには見えない。

 螢子は一見才色兼備の優等生と見えるが、本当にそうだろうか。この疑問を最初に抱いたのが、教師の台詞に諾々と従う態を見せながら、その背中を教師が見せた途端に、憎々しげにその背中へ向かって舌を出した彼女を見てからだった。

 意外と彼女は学校というシステムに逆らっている。教師の話をつまらなさそうな顔で聞き流し、そっぽを向いて幽助のことを考えている。幽助を異端と見倣すことで教師達が守ろうとしているものを、彼女は的確に見抜いていたように見える。

 ここからは更に想像で補う(程度にしか螢子という人格は描かれていない)。そんな螢子が何故優等生であったのかと言えば、端的に自立のためではなかろうか。手に職を持つためだ。内申は、目的のための手段である。そうして彼女は実際、よりによって幽助を排除しようとしていた学校の教師になろうとしている。それは彼女が学校というものを欠片も信用していなかった証拠となり得ないだろうか。幽助が学校社会をとっとと飛び出したのに対し、彼女は学校社会を変えようと動いたのではなかろうか。

 彼女が、幽助以上に周囲の人間を信用していなかった少女なのでは、と思うのはこのためだ。立派すぎる優等生であるが故に、周囲に依存しまいとする姿勢を感じるためだ。多分にそれは、彼女の聡明さと早熟とアンバランスな幼稚さと、そうして学校社会に溶け込むことのできなかった愛しい幼馴染みのために形成された人格ではなかろうか。

 そのような少女だったからこそ、幽助という幼馴染みを好ましくも思えただろう。彼女の憎む学校社会という枠組みを、いともあっさりとその疵によって無視してしまえる不良少年。自分とは違う方法で学校に敵対していた幼い少年。それは愛しくもあろう。

 彼女の1番好きな色は青だという。それがわたしはとても好きだ。今の若い子には信じられないかもしれないが、女の子が赤やピンク以外を好きだと言うと仰天されるような時代だったのだ、連載当時に中学生だった子供は都会であっても。幼稚園で、女の子はうさぎさんとチューリップをピンク色で、男の子はぞうさんと海を青色で、描くことを先生に言い渡される。そういうセクシャリティを押し付けられる時代に生きながらも彼女もまた幽助と同じく、実はあまり世間様の一般常識をやら内面化させていないのだろう。幽助に何処か似た生き物は、別のベクトルで寂しさを抱えた子供を、それは愛おしんだことだろうと思う。

 という螢子論に落ち着いたところで螢子→蔵馬に話を移す。

 原作の螢子は、最後まで幽助を張り倒している。これは幽助の自分に対する依存の許容と、そうして多分に冨樫さんが男性であるために来ているのではないかと思う。

 現実に螢子のような振る舞いを見せていた小中学生の女子、朗らかで力強く行動的で優等生な、そんなおきゃんな少女達が成人を過ぎて尚、そのような形態を保っていた例を、少なくともわたしは知らない。中学生の頃まで、つまり男子よりも力も強く身体も大きかった時期まで、彼等を叱り飛ばし彼等に喧嘩で勝ち彼等よりも成熟だった勝気な少女であればあるほど寧ろ、大人となればしおらしく女らしくなっている。

 自分の弱々しい肉体に対する少女達の絶望は、恐らく男性である冨樫さんが思う以上に重く、根深い。彼には、彼女を女子中学生のステレオタイプ優等生以上に描くことは、難しかったのかもしれない。

 維持していられないのだ。女が強く在ることに対する世間の風は強く、そうして女の肉体はそれよりももっと弱い。男の子を殴り飛ばしたとき、男の子に殴り返されないようになってしまう、身体の成長の反転を乗り越えて尚、殴り飛ばす気力を維持できる女の子を、現実でわたしは知らない。強くなった男の子に殴り返されない、それは男の子に対する以上に、自分の身体に対する絶望だ。一生付き合っていかなければならない、自分との戦いである。

 乗り越えることは可能なのか否か。ハード(身体)を変えれば、可能だとは思う。ただ、身体と頭脳を切り離す技術が存在しない現在、それは無理とわたしは答える。肉体の最強に、女はなれない。

 そうして肉体のみならず、あらゆる面に於て女は1番にはなれないと、大人に、女になればなるほど世間は言う。人間を無視して妻となり母となることを望まれる。煽られ続ける絶望と終わりなき戦いを演じることは、死ぬよりも難しい。だがそれでも生きたいならば、否、生きているのならば、ソフトは自分の女というハードを受け容れるしかないのだ。

 だから、冨樫さんが描いた終盤での螢子という人格の可能性を、わたしは信じてはいない。彼女は既に中学生時代、絶望を知っていた。四聖獣の事件、最後の最後まで頑張って、でも幽助に助けを求めた。敵わない自分を知っている。

 それでも尚、螢子が幽助に、幽助だけには昔のままで居られるというのならば(実際蔵馬に対しては「蔵馬君」から「蔵馬さん」に変わっている)、そこにわたしは螢子の幽助に対する限りない受容を見出す。幽助の螢子に対する絶対の依存を、螢子が認識し、幽助が自分から離れられない絶望を受け止め、甘やかすように昔のまま、軛としての自分を演じ、彼を張り飛ばすというのならば、納得できる。

 だが、もしそうなのだとしたら、わたしにはその態度はあまりにも哀しい。それでは、螢子の幽助に対する絶望は何処に行ってしまうのだ。彼女は幽助に勝つ力などは欲していなかったかもしれない、それでも一緒に居られるだけの力は欲しただろうに、その可能性を完全な形で――彼が魔族として生まれ変わるという形で――否定された彼女の空虚は、一体何処に昇華させれば良いのだ。

 だから、螢子の中学生時代の人格が成長したならば、蔵馬の肉体と人格に惚れるだろうと、わたしは思うのだ。それは絶望の代償行為としての恋である。

 中性的な美貌、細い肢体、妖怪の強い力、戦いを好めるだけの胆力、そうして幽助に対する母性のような受容。多分にそこに、彼女の望むすべてが在る。憎むかのように憧れを以て、彼女は蔵馬を愛せるだろう。そしてまた、彼女にとって妖怪である蔵馬は、幽助を想うようにそばに居ることを望んで絶望を味わうこともなく、初めから手の届かない存在として、彼女に逆に安寧を与えるような気がする。

 幽助を愛するが故に、彼女は蔵馬に恋をするように思えてならないのだ。

 そうして蔵馬になりたい彼女が蔵馬に何かを望むことは決してなく、蔵馬もまた、螢子に或いは幽助に対し何らかのアクションを起こすとは到底考えられないので、結局は幽助が変わらない限り、何も動かないままだ。哀しみの再循環。動かせる可能性のあるのが、根本的に他人に興味のない幽助だけというのが何ともはや。誰のためにしろ、自分のためにも、幽助にはもう少し成長して頂きたいと思う次第である。

 「莫迦ね」。

 そう言って、自分を女神と呼んだ少年を慈愛と絶望で以て赦した女を、せめてそのまま認識してほしいのだ。