「戦う方法」と一口に言っても、それは「戦略」と「戦術」に分けられる。戦略とは、大局的に戦闘を維持する方法として、例えば大軍を用意したり、補給路を確保したり、のレベルの体系的方法論を指す。に比して戦術は、実際戦闘の場面場面でどのような攻撃を行うかの実践的、局所的な方法論である。もっと単純に言えば、戦術は戦闘方法そのもの、戦略は戦闘のための環境作りと言って差し支えない。
4人組のなかでは唯一、蔵馬だけがこの戦略レベルでの能力を有する。これに併せ、冨樫氏が恐らくパズラであろうことから、蔵馬の能力が如何にこの物語にとって邪魔なものか論じてみたい。
冨樫義博氏は、11巻の自作パズルを見ても、また最近の物語構成を見ても、パズラだろうとの推測は一般的にも可能なのではなかろうか。パズラ仲間ならば、ドグラ星とマグラ星やら(他にも江戸川とかカーとかいっぱい、うふふー)が出た時点で「コイツもアレだな(ニヤリ)」としてしまうだろうし、『よしりんでぽん!』の劇中劇を聞いて直ぐ様『匣の中の失楽』を思い浮かべたことだろう。さて、では仮にわたしがパズラであると定め、パズラであることの誇りを拠り所にパズル物語(一般的には本格推理小説と言ったほうが良いのか? 多分に正確には本格のハウダニット及びフーダニットの論理的純粋抽出物語)を書くとしたら、蔵馬のような能力と人格の持ち主は意地でも探偵としては使いたくない。出しても良いが、出すとしたら『黒い仏』に於けるアントニオのような役割しか与えたくない。
『幽遊白書』に於いて、「能力の制限」という「ゲーム」で欠かさるべき要素が出現したのは、普通に考えれば魔界の扉編からということになろうが、兆候は既に幻海の後継者選考試験から出ていた。霊能力と言っても一括りではなく、幽助と桑原の能力の違いが明確にされたこと。それぞれ得意分野があること。その使用方法によっては、霊能力の総合力で劣る相手にも勝つ可能性が出ること。
これらが示す結論は、対霊能力(妖力)戦にはゲームとしての意味合いもある、ということである。その後の幻海×死々若丸戦が良い例だろう。同じ漫画だったら『ジョジョの奇妙な冒険』『銀と金』等が例としてわかりやすいと思うが、能力と場に制限を設けることで、つまりは戦闘をゲーム化することで、同じ人物でもルールによって強さが大きく変わってくるシステムとなる。境界条件はあくまで(キャラクタからではなく)作者から読者に提示されている範囲内でのみ物語は描かれなければならない。
神の手は能力UPに対して決して働かない。即ち、勝利はルール内で自らの能力を最大限に生かせた者に訪れる必然である。それがゲーム。
主人公が無尽蔵に力を発現することの許されるバトル物語で、この理論は不要である。だが主人公チームが必ず勝つという前提を踏まえたままで物語に緊張感を持たせようとしたら、ゲーム展開が有効なツールであることは事実である。幽助の霊丸使用数然り、飛影の黒龍波後冬眠然り、これらは意味も意図もない厳然たるルールである。
領域能力への移行も見るに、恐らく冨樫氏は少年漫画に多く見られる、強さのインフレをできるだけ食い止めたかったのではないかと思われる。そのためのゲームであり、ルールである。意味も意図もない単なる決まり事であるからして、誰に有利となるルールでもなく、ただそこに存在するだけであり、だからこそその場その場のルールにより変化する強者が生まれることは、「作者にとって」意味がある。
尤も、それが完全なるパズル物語として成功していたかと問われれば、否、だ。霊光波動拳の体系は結局幽助の霊丸使用に何ら歯止めを掛けるものではなかったし(余談だが、幻海言うところの「本来の使い方」である霊光波動拳の継承者は雪菜であろう)、霊丸使用回数の制限は、威力の大きさと幽助の喧嘩能力の前に殆ど意味を為さなかった。霊力と妖力の(或いは肉体的な喧嘩能力も)体系の違いも能力の違いも規定されず、それは一言「戦闘能力」としか言いようのない実にシンプルな力という言葉に要約することが可能であった。否、バトル物語としては、スパイスとしてのパズルのルールのみの投入で確かに正しかったのかもしれない。
そうして結果、暗黒武術会編ではパズルの要素を取り入れたバトル漫画の域を出ず、仙水編に突入したところで一応のパズル構造物語に足を踏み入れたのである。
さて、ここでやっと蔵馬の話に戻る。蔵馬という存在の有するところの能力について語ることが可能となる。
幽助にしろ桑原にしろ飛影にしろ、或いは朱雀にしろ戸愚呂にしろ仙水にしろ、「己の能力で戦う力」である(黒龍波は一見「己の能力」とは異なるように見えるが、術者の妖力を高めるための餌だと飛影が言っていたこと、また炎は生まれたときから飛影がその身の裡に持つ生来の能力であったことから、前述と定義される)。多彩な攻撃方式を持たない、と言い換えても良い。だが蔵馬の能力は違う。無論、植物を剣や鞭に変えて自身の力で戦うこともあるが、彼の強みは「様々な植物のありとあらゆる能力を利用できる」ところにある。同じ支配者級とは言え、爆弾という単一の能力しか扱えない鴉とは桁が違う。人間界でも魔界でも、恐らく生態系の底辺として、植物は数も種類も最も多く存在するだろう。
詰まる所、戦術レベルでの能力に長けた3人に比べ、蔵馬の能力とは戦略レベル、即ち戦闘前に戦闘自体を有利にするために働く能力に長けている(実際アニメでは対時雨戦でそういう戦い方したらしいですね、見てないけど)と言える(或いは桑原もその霊感能力を以て、戦略レベルで己の能力外で戦いを有利にする条件を形成できるかもしれないが、性格からそれをしないので除外……頭が悪いとは言わないよ桑ちゃん、しくしく)。あまりにも範囲が広く、曖昧な能力。何故こんなにもマルチプルな能力を、蔵馬というキャラクタは背負うことが(物語に)許されたのであろう。
それは、彼と主人公との関係の特異性にあるだろう。陣にしろ酎にしろその他幽助がわかりやすく友人の形態を取っている相手は、おおよそ幽助と戦って、幽助との殴り合いを経て、相互理解を深めている。桑原と飛影にしてもそうである。だが蔵馬だけは違う。前述の推測のとおり、主人公とただの1度も戦わない運命の下に設定されたキャラクタ、それが蔵馬であり、それが故の許された能力、としか思えないのである。
主人公と戦わせることがないのならば、即ち主人公に勝つ必要も負ける必要もない相手ならば、そうして主人公を差し置いて敵と戦う必要のないキャラクタならば、どれほど強くとも何の問題もない。主人公の猪突猛進をフォローできる冷静さ、妖怪を食い物にするヒトの対比としての優しい妖怪、植物を操り薬草に詳しく傷付いた主人公を介抱でき、時には戦闘員としても活躍する。もし『幽白』が普通の少年漫画と同様の主人公超人インフレ漫画の道を歩むのだったら、パートナとして理想的である。主人公のためにのみその能力を使うというのならば、物語としては非常に使いやすいキャラクタである。
ところがそうはならなかった。主人公がひとりで超人となる物語にはならなかった。サポータとしてではなく蔵馬を前面に出す必要に迫られたとき、即ち幽助のために戦略を練る蔵馬ではなく、自身の戦いために能力を駆使する蔵馬という必要性に迫られたとき、パズラがパズラとしてパズラのために自身に要求する最重要課題は、蔵馬に対する能力の封印ではないかと思えるのだ。蔵馬の能力は、定めたルールを根底から覆したと錯覚させることまで可能となる能力である。(ソースがなくて申し訳ないが、記憶によると当時ジャンプで?)冨樫氏は蔵馬という存在の有する能力が使い方によっては最強と理解していたようだ。戦力的に大会本部に重要視されていなかった蔵馬をして、物語が凍矢にあそこまで警戒させた理由と同義であろう。そんな人物をあの物語で使うのは、少なくともわたしだったらとても怖い。あれは物語を壊す。その気になって巧くやれば世界中の生き物を抹殺することも可能な生き物だろう。ありとあらゆる植物の能力を使用できる支配力、更にはイカサマを物ともしない性格と、戦略と戦術を緻密に組み立てられるだけの頭脳。しかも対海藤戦を見る限り、ドグラ星のバカ王子や榎木津礼二郎のように才能の無駄遣いをする人格でもない。
まるでジョーカーだ。あんな生き物をそのまま使ったら、物語があくまで戦術レベルでのバトル物語である以上、そこに投入したパズルのパズルたる根底が崩れてしまう。パズラではない、単なるメタ推理小説の好きな人間だったら超絶美形世紀末探偵神話☆ とでもキャラクタ造形できるだろうが(いやワシは寧ろ好きですが清涼院流水)、或いは実はこちらの理由のほうが深刻なのだが、主人公が蔵馬だったのならば、バカ王子のように超越したトリックスターとして扱うことも可能だったかもしれない。が、主人公であり霊界探偵であったのは蔵馬ではない、幽助なのだ。魔界の扉編が最初戦略的な頭脳戦を繰り広げていながらも結局、幽助と仙水の物理的な戦闘に落ち着いてしまったのはむべなるかな。そうして蔵馬は、その幽助を裏切らない(と当初設定された)キャラクタであり、今更敵としてその能力を生かせもしないのだ(裏切ってほしかった…!)。
準主役として使用するには、蔵馬という能力はあまりに使い勝手が良すぎ、それ故に戦術内パズルの中では能力を制限されざるを得ない運命にあるのが、あのキャラクタである。能力だけを見ればあれをワトソンに留めておくのは非常に難しい。
蔵馬に物理的に課せられた最も重い枷は、南野秀一の肉体だろう。暗黒武術会のような、会場を用意されての1対1というスポーツマンシップに則った(あれで? という意見もあろうが、物凄くそう思ったよ……)大会ではそれが顕著である。しかしそれすらも実はあまり問題とならないことは、対呂屠戦その他で推測できる。
そうして更なる枷のために(助長して)付け加えられたのだろう蔵馬の性質、用心深く奥の手を幾つも隠す、という。四聖獣の時点から積み上げられたこの性質により、あのような大衆の面前で「全能力を以て敵を倒す」ということが蔵馬には「できなくなった」。奥の手は最後まで蔵馬にとって「見せない」=物語にとって蔵馬には最後まで「見せられない」。手の内を見せられない、見せるときは(対鯱戦のように)確実に相手を葬れるときのみ、という能力発動の限定条件が、この性格の付与により、蔵馬をして生まれるわけである。
即ち、蔵馬が用心深く頭が切れるのは、物語による必然であり、その性質は蔵馬の能力を最大限に生かすためのツールであると同時に、蔵馬の能力の発動を最小限に抑えるためのツールでもあるのだ。
あとはまぁ、人情味やお涙に弱く詰めが甘いというのが、本当に弱みになっていたかどうかはともかく、彼に血を流させる程度には枷になっていただろうか。
蔵馬の人格成形は、このようにして制限を生む過程で物語により作られていったと考えるが、さて。……なんか蔵馬にはfloat <var>蔵馬</var> = "幽助";と宣言したい気分(あっちでもこっちでもエラー)。
余談。パズラのパズラたるところの王道を行く氷川透さんが、自サイトの「影響を受けた100冊」で冨樫義博『レベルE』(全3巻)を挙げてらしたのがめっちゃくっちゃ嬉しかった〜〜〜♪♪♪