バレンタインって何だ?
そう訊かれたときは眩暈がした。
折しも怪盗キッドの予告日は二月十四日。バレンタインに合わせ、特別展示と相成った、アフロディテの情熱と呼ばれる世にも珍しい真っ赤なハートシェイプカットのダイヤを狙って出された予告であった。恋人の居る警察官達には、奴も女性キラーと呼ばれてるが実は寂しい奴なんだな、と恨みから来る誹謗を買いながらも、早く帰りたいという彼等のパワーも虚しく、まんまと盗み遂せた獲物を手にしたキッドと対峙したコナンに発せられた彼の第一声がそれであった。
「なぁボウズ。バレンタイン特別展ってあったけどよ、バレンタインって何だ?」
「……………………。へ?」
たっぷり三十秒は間を取ってから、コナンはまさに間の抜けた、意を尋ねる質問とも聞き返しを求める声ともつかぬ応対を返した。今何か、聞いてはならぬことを聞いてしまったような気がする。
「なぁんか毎年この時期ンなると騒いでるみてーだけどさ、何で皆チョコくれるんだ?」
そうか、キッドはチョコを貰う方なんだな、やはり男なのか。眩暈を起こしつつ、そのような冷静な分析をしているかのように見えるコナンは、だが無意識にキッドがそれを知らないという事実から目を逸らしているに過ぎなかった。最近の子供は発育が良いとは言え、最低でも中学生にはなっているであろう……否。たとえ実年齢が幾つであろうとも、世界を股に掛ける天下の大怪盗が、あろうことか、もはや本邦では国民的一大行事となったバレンタインを知らないなどということが許されるであろうか。コナンの脳は知らずそれを拒否していた。
「オメーがチョコを貰えてんのは、オメーがモテてるからだろ……何のために園子があんな茶番劇を開かせたと思ってんだ」
はは、と乾いた笑いを洩らしつつ、キッドの質問の意図からは外れた至極常識的な答えを返したコナンにそのつもりがあったのか否かは定かでないが、キッドの意識はそのずれた流れに乗ってきたようであった。
「んー? ああ、それ謎だったんだが。何であの園子ちゃんだったよな、がオトーサマにあんな宝石展、頼んで開いてもらったんだ?」
園子の奴も可哀想に。コナンはがっくりと肩を落とした。自分も大概蘭や服部等に鈍い鈍いと言われているが、絶対にコイツの方が上だろう。
つまりはあの展示会は、キッドを呼び寄せるための撒餌であったのだ。絶対にキッド様にチョコレートを渡すわッ、と意気込んでいた園子に、チロルチョコしかくれなかったことを恨んでではないが、この逃走経路を教える気には更々ならなかったけれども。たとえ受け取ってくださらなくても、キッド様に会いたいがためにこんなことまでした私の気持ちはわかってもらえるわよね、などと彼氏付のはずの園子は言っていたが、そもそもキッドがバレンタインの何たるかを知らないのだとしたら、彼女の意図など伝わりようはずもなかったのだ。
「オメーに会いたかったからだろ」
もはや戦意まで喪失してしまったかのような脱力感をコナンは感じていた。ごそごそとブレザーのポケットを探る。
「あー、そういやあの子、怪盗キッドのファンだっけ……って何だ?」
コナンがキッドに向けて手を差し出していた。小さな掌の上には、更に小さなチロルチョコ。
「何? ボウズまでチョコくれんのか?」
「園子の分だよ。オメーに渡し損ねて悔しがってるだろうから」
「園子ちゃんの?」
キッドは手をぽむ、と合わせると、
「そっか、バレンタインって、好きなアイドルなんかにチョコレートを贈る日なんだな?」
「…………。或る意味間違っちゃねー……」
警視庁に届いた怪盗キッド宛のチョコレートは確かにその意味合いであろうから、敢えてコナンは否定はしなかった。
「なーんだ。何でこんなこと、訊いても誰も答えてくんなかったんだろうなー」
「…………。チョコをくれた女の子に訊いた?」
「そうだけど」
コナンは心の中で合掌する。
「そっかそっか。ンじゃ。ボウズに、はい」
チロルチョコの重さが手から消えた。と思ったら、ずっしりと摩り替わった何かの重みに、思わず乗せられたそれを取り落としそうになってしまう。
「おいおい、落とすなよー」
「な、何だ……?」
「チョコに決まってんだろ」
「…………はい?」
綺麗にラッピングされたそれは、見ると確かにゴディバのロゴが刻んである。さすがにコナンもその有名メーカーが本命チョコの大本星であることくらいは知っていた。
「……園子に渡せと?」
またもや脳が何かを拒否している。思考と感覚の乖離を感じて、コナンは自分の納得できる答えを探すのに必死であった。
「園子ちゃん? いーや、違うけど……ああ、お返しもしなきゃなんねーもんなんだな?」
「いや、それはそうなんだが来月……ってじゃあ、園子へじゃなかったら何だ、これは」
「勿論おまえに。何だ、チョコ嫌いだったか?」
「そうじゃなくて……」
「ファンしてる相手にやるんだろ? お前は唯一オレと張り合える奴だしな、一応敬意は払ってるぜ。ってことで」
「……あのな……」
「今日貰ったヤツなんだけどさ、そのまんま仕事に直行ンなっちまって、重くて飛ぶのも大変だし、おまえに一個やるよ」
……つまりは自分が貰ったものを素通りで渡す気なのだろうか、この男は。
「……おまえ、マジでわかっちゃねーんだな……返す。義理ならともかく、本命を他人に寄越す莫迦が何処に居る」
いい加減莫迦らしくなって、コナンは背を向けた。これ以上付き合っていたら、自分の常識を疑いたくなる羽目になるだろう、という予感の下に。だが一般知識以外は余程己の常識を疑ってかかった方が良いのだという事実をコナンは自覚していない。
「本命? っておい、何処行くんだ」
「帰る」
「オレを捕まえに来たんじゃねーのかよ? 名探偵」
きびすを返して進めていた足をかつ、と止めると肩越しに振り返り、コナンは宣言した。
「バレンタインの常識を身に付けるまでオレの前に顔を出すなよ、こンの莫迦」
だがまさか、その今日一日の不機嫌の元凶が、律儀にも自分との約束を守り顔を出すとは、如何な名探偵とて予想だにしていなかったのだ。しかも工藤新一の顔で。
「よう、ボウズ」
小学校の校門に凭れ、帝丹高校の制服を纏った工藤新一――自分が、奴であることは疑いようもなかった。
今日は何をして遊ぼうか、と放課後の計画を立てながら校庭を進んでいた少年探偵団の面々は、先頭を歩いていたコナンが立ち止まったことにより、必然的にその歩みを止めた。
「ちゃんと調べてから来たぜ。文句ねーだろ?」
その姿には文句ある、と声を大にして言いたかったが、歩美達の手前、叫ぶこともままならない。
「あ、博士の隣に住んでるというお兄さんですね。こんにちは」
「どーも」
「あ、あンときの変なにーちゃんだな」
「あのときの格好良いおにーさんでしょ」
(好き勝手言ってくれやがって……)
光彦達の言う「あの時」とは間違いなく、自分が一時新一に戻ったときにうっかりとコナンのときの癖で挨拶してしまったときのことであろう。全く訳がわかっていないだろうに如才無く皆に返答している彼に、また後で揶揄われることを予想して天を仰いだとき、コナンは哀に袖を引かれた。小声で囁かれる。
「ちょっと工藤君。彼……怪盗キッド?」
「……何でわかんだよ」
「他に考えられないもの。あなた、昨日会ったみたいだし」
「ごめいと――」
「ってことで、このボウズは預かってくんで宜しく」
身体が浮いた、と思ったら、いつも小五郎にされているように、荷物宜しく彼に抱き上げられていた。
「へっ?」
「はい、いってらっしゃい」
「また来てねぇ」
「またお菓子くれよな、にーちゃん」
「お、オメーら?」
「はい、そっちのお嬢さんにも」
今は工藤新一に化けた彼――キッドが、自分を抱えたまま器用に哀の手を取って、その上にチロルチョコを幾つか乗せたのをコナンは呆然と見ていた。
『やっぱコイツ、根本的にわかってないかも……』
「――どうも……」
哀もまた、コナンと同じような困惑の表情を浮かべていた。キッドだと聞いた男の真意が知れなかったからであろう、とコナンは思ったのだが。
「一日遅れよ?」
「バレンタインってもんを知ったのが今日だったんでね」
「呆れた人」
「おー、笑ってやってくれ。じゃあな」
上機嫌といった態できびすを返した彼に抱かれて、コナンが我に返ったのは元太達の声を遠くに聞くほど距離が開いてからだった。
「ちょ、ちょっと待て! 何しやがるんだ、この誘拐犯ッ」
「どうせなら人買いっつってほしかったなぁ」
「はぁあ?」
「何だ、やっぱさっきの話聞いてなかったんだな。おまえ連れてくっつったら、これから遊ぶんだからってあの子達に反対されたの、チョコで買収してきたんだぜ」
然も有りなん。コナンはがっくりとキッドの肩に顔を埋める形になった。
「それはわかった。は、いいが、いい加減下ろせ」
未だコナンはキッドの腕に抱えられたままであった。如何にも軽そうに、軽やかな足取りで歩いてゆくのが、自分のなくしてしまったものを思い知らされるようで癇に障る。昨日の、蘭の周りに纏わり付いた甘ったるいチョコの匂いを思い出した。その絶望は今まさに自分の姿をしているのだ。
「逃げねーって約束すんならな」
「そういや、まだ用件聞いてなかったな。その姿で何しに来た、貴様」
「…………」
この姿なのは、用事済ませた後だからなんだけどな。
キッドの微かな呟きは、コナンには聞き取れなかった。
「何だ?」
「んー……バレンタインの意味わかったっつったろ」
「わかんねーでここ居やがったらブッ飛ばす」
「だーからわかったって。基本的には好きな相手にチョコ贈る日だけど、チョコにも何種類かあって、義理チョコだったら他人に渡すのもまぁ許されるとして、おまえが怒ったのはあれが本命チョコだって思ったからだろ?」
「……よく一日で調べたな」
「手っ取り早く、答えてくれそうな奴に訊いた」
その相手が誰だったのかは知るのが怖いような気がしたので、敢えて突っ込まなかった。
「で? それと、オレが連れ去られるのの間にどんな関係が?」
「連れ去るだなんて人聞き悪ィな。折角おまえにチョコケーキでも奢ってやろうっつーのに」
「……はぁ?」
確かキッドはバレンタインの意味がわかったと言っていなかったか。
「よっと。ほら、もう着いたぜ。ここのザッハトルテが絶品なんだ」
語尾にハートマークでも付いていそうな上機嫌の口調で、キッドはカランとベルを鳴らして扉を開けた。その段になって漸くコナンは、自分がまだ彼に抱かれていたことを憶い出した。店内の客の衆目を集めていることに気付き、慌てて小声で耳打ちする。
「おいッ、下ろせよ!」
「言われなくても」
ぽすんと下ろされた先は、柔らかなソファであった。
「まさかオメーを膝に乗せたまま食べようとはしねーって。安心しろ」
「……何をどう安心なんだ、それは」
「おまえの分にまで手ェ伸ばしたりしねーから安心しろよってこと」
「誰もそんな心配してねーよ……」
そっか? と首を傾げるキッドに、コナンは本気で頭痛がしてきた。
『まさかこれがあのキッドの地だなんて思いたくねー……これも演技、なのか? だとしたらコイツまさかオレを演じてるつもりじゃねーだろーな……ッ』
「おい、キ――」
「おねーさん、取り敢えずザッハトルテ、ホールでお願いしまーす」
「…………。ホール?」
訊こうと思っていたこともすっかりと忘れ果て、上擦った声で鸚鵡返しに彼の言葉を繰り返す。
「ああ、遠慮せず食えよ」
それから後のことは憶い出したくもない、とコナンは思う。六分の一も貰えば充分過ぎると思えるようなチョコレートケーキを、コナンが食べた分以外すべて平らげたキッドは、取り敢えずという先程の言葉に違わず、追加注文をしたのだった。
『……コイツ捕まえるには、罠張るよりも甘いモン置いといて、糖尿病で倒れさせた方が早いかも……』
怪盗キッド、チョコレートケーキにやられる! そんなスポーツ新聞の三文記事がバッと頭に浮かんで、コナンは頭痛を覚えた。結局そんなこんなで胸焼けを起こしているうちにキッドはケーキを食べ終え、彼が会計を済ませるまで質問をすることさえ忘れてしまった。
「あのさ……おまえ」
「何だ?」
腹もいっぱいになったし光合成をしに行こう、とキッドが連れてきた先は、最近できたばかりのレジャー施設も兼ねた公園であった。そこの芝生に寝転がった自分の顔を不思議な思いで見つめ、軽く首を振ってからコナンは尋ねる。
「ホントは何でオレんトコ来たんだ?」
キッドは頭のすぐ横にあった白詰草の四葉を千切り、コナンの手を取って握らせた。
「ホントにバレンタインの贈り物だって」
「オメーがンな見返りもなしに?」
「いや。あの、おまえとケーキ食べれたことがオレの見返り」
「は?」
仮にバレンタインの話が本当だったとして、あれが自分に対するプレゼントだったのではないのだろうか。
「オレ、ケーキ食べたかったんだけどさ。男一人で入ると断られるんだよ」
恰かもコナンの考えを見透かしたかのように彼は言った。
「女の子、誘えばいーじゃねーか……何だ、オメーの素顔、実は物凄ェ怖い顔でモテねーとか?」
チョコの件を聞く限り、そんなことはないだろうと実は思っていたのだが。
「さぁ……自分の顔なんかに興味はねーけど。モテねーってこたねーな……だからこそ、誰とも深い付き合いはしねーようにしてるけど」
『あ……そういうことか……』
だから同じ立場の自分を誘ったのだ、とコナンは即座に理解した。だが口からは裏腹に憎まれ口しか出てこない。
「バーロ、だからってよりによってドロボウが探偵を誘うこたねーだろが」
「なに、やっぱチョコレート、嫌いだった?」
「論点が違う……」
からからと笑う彼は、光を浴びて光合成をする姿がとてもよく似合っていた。何故闇に紛れて怪盗などをやっているのだろう、とコナンが柄にもなく泥棒の理由の詮索をしたいと思うほど。
「さて……と。そろそろ帰るか」
「泥棒が何処に」
「おまえは蘭ちゃんトコに。プレゼント用意してあるぜ?」
「え?」
「魔法使いの役割はやっぱバレンチノかなァと思ったんだが、まだオレ誤解してる?」