はらり、はらり…と。
桜の花辨が舞い散る中でのことあった。
それは街頭に照らされて、はらはら、はらはら…。茫と光り、舞っていた。薄紅色かと思われた花辨は意外にも純白に近く、その向こうに佇み白い衣装を身に纏う、彼のいろを損なうことはない。寧ろ反対の感慨を探偵に与えもしたようだった。そのちいさなしろ、が、彼を仲間と連れていってしまうのでは…と。
円陣を組んで、それは彼の周りを舞う。
舞う。
舞う。
しろが。
彼が引き寄せてでもいるかのようであった。己が眷属のようにそれを操っているかのようでもあった。そのしろい翼を広げて、白に乗じて逃走するのではないかと思ったかのように探偵は、必死に駆け寄ってほそい指でではっしと白いマントの裾を掴む。ぎゅ…と握る。見上げるとそこには、闇に光るさくらよりも底知れぬ儚さを湛えた怪盗の薄い笑みがあった。
闇に発光する様は、やはり眷属なのやもしれぬ。そう伺わせるには足りる雰囲気が彼にはあった。掴んでいる自分の手まで光が飛び火するかのような錯覚に襲われて、探偵はうろたえた様子でその手を離す。てのひらを確かめる。彼から離れた手は光ってはいなかった。彼はまだ光っている。
ふっ…と。何を思ったのか、怪盗の笑う空気を感じた。
「めーたんてー」
些か神聖さに欠ける声を発して、怪盗は朗らかに笑う。
「お花見、しよーぜ?」
そして、コナンはといえば。
その言葉に釣られて、何故かかたきとのんびり夜桜見物などと洒落込む羽目になってもいる。何故自分がこんなことに、と苦いものを噛み下す。自業自得といえば自業自得であるが、しかし。仮にも平成のホームズと呼ばれた人物を意のままに陣営に取り込んでしまう、怪盗の人心術をやはり誉めるべきであろう。
件の人物はマントに同じ色の花辨を絡ませながら、鼻歌など口ずさんで木々の間に歩を進めている。時にゆっくり、時に早く。こどもの足に合わせているようでもあった。こどもの足に頓着していないようでもあった。探偵はそれに構わず自分のペースで歩く。即かず離れず、恰かも二枚の花辨が揺れる水面に浮かんだ態の如くにゆうらり、ゆらり。近付いたと思っては離れる。離れたと思ったら近付く。互いの距離を測っているのか。互いの距離をわかっているのか。
やがて、怪盗が徐ろに口を開いた。
「まともに花見なんかしたの久し振りだけど、結構良いもんだな」
コナンが首を傾げる。動いた空気に連れられて、花辨が一枚、不自然な動きを見せた。
「いっつも忙しくて花なんか見てる暇ねーってか」
「うんにゃ。いつもは花見を口実に酒呑みが主体だから」
途端、こどもの頭に上野公園辺りでたむろする酔っぱらい親父達が浮かんだとしても、責める者は居まい。それと怪盗キッドをイコールで結びつけることはあまりに難しかったらしく、頭痛を訴える頭を無視した体で、中断するように云い放たれた。
「オレはあんま好きじゃねー…」
今度はキッドが首を傾げる。
「何でだ?」
「染井吉野って、結局前方後円墳と同じ使われ方したじゃねーか」
「ああ…」
江戸の町で生み出された染井吉野なる品種の桜。末は幕府の象徴ともされたという。息の罹らぬようにと気負った藩にはその桜は殆どない。
それの何がいけない訳ではない、今更の歴史という波である。訳ではない、が。コナンの気性に些かそぐわぬものであったことは確かであった。
だからこそ、どうでも良いといった態度を取ってもきた。実際の処、古墳や花などコナンの興味の対象には程遠いものであるし、どうでも良いといえばそれまで。それまでではあるが、しかし。
「そうだな、おまえは嫌いかもなァ…同族嫌悪ってヤツ?」
「え?」
キッドの言葉に目を見開いた。
その感想は、確か自分が先に――――。
「オレ…は。おまえのが桜のイメージだと、思ったんだが」
「そうねー。オレはどっちかってーと、あっちでショ」
顎をしゃくって見せた、その先を見やるとそこには、見事な枝振りの枝垂桜。樹齢何千年とも噂される、御神木のように扱われ、他の染井吉野とは一線を画される――――。
「ああ、成程…」
「怪盗KIDが利用されるとしたら、それは招鳥としてだから。染井吉野とは違う」
「じゃあ、オレは」
「でも、おまえは」
しろい手袋の手が、頭に乗せられたのを感じた。
「それでも探偵で在りたかったんだから、それはおまえの選んできた道だ」
何故警察が、高校生などの力を借りていたのか。
警察官による不祥事の続く正義行使機関。必要とされていたのは、人身御供となり得る偶像。
知っていて、敢えて乗った。
メディアが媒介の役割を果たし、「工藤新一」は確かにその役目を果たしていた。否、必要以上とも云える。些か出過ぎた杭を打とうとする外から内からのちからにも屈せず、真っ直ぐ目標だけを見詰めてきた探偵は、桜梅雨に半ば無理矢理花を散らされて、江戸川コナンとなった。
それでも未だ、「探偵」を続けている。
花が散っても尚、その裡に華を秘めるその様は、まるで。
「不器用な奴だな、とは時々思うけど」
こどもはむっ…としたらしい態度を隠そうともせず、その頬を膨らます。子供ではないはずの、探偵の子供らしさ。そんな簡単に大人になれるような人間であったのなら、身体の縮むこともなかったろうことは容易に想像できて、怪盗は笑った。
「何だよ」
「でも、いーんじゃねぇの」
「?」
「桜の草木染めって、どうやるか知ってっか?」
「いや…」
落ちてきた花辨を一枚、器用に抓んで謡うように話す。
「あの花辨色は、花からは採れねーんだ。花が咲く直前の、早春の桜の皮を剥いで、それで作る。職人はこう云うんだ。あの綺麗な花を咲かそうと、桜が一年掛けて一所懸命一所懸命頑張ってきた華のこころを、戴くんです。…ってな」
いつ奈何なるときも、桜は華を秘めている。
具現化するのがほんの僅かな時間だとしても。その一瞬のために桜は華を抱き続け、たとえ人間にそれをほんの僅か奪われたとしても、花の損なうことのないほどに。
「おまえは」
「めーたんてーみたいだなァと、思ったんだよ」
「………」
そしてまた、来年も花は咲く。
「花の色がな」
「うん?」
「オレには白に見えるんだ」
「オレには薄ーいピンクに見えっけど」
「オレがそう見たいからだ」
「白に?」
「おまえの色だから」
キッドは軽く瞠目したようであった。だが動揺らしきものは欠片も見せず、純粋に興味を惹かれた体で以て口許に笑みなど紡ぐ。そう、奈何にも興味深げに。興味を持っていなかったら、彼を桜に重ね合わせてイメージを膨らませることもすまい。
それはまた、逆も然り。コナンが桜に自分を見たというのならば、それは彼の自分に対する何らかの興味なのだ…と。キッドはそれに興味を惹かれたようであった。彼が自分に奈何な印象を抱いているのか。結果として興味のままに尋ねていた。
「権力に利用されそう?」
「そっちじゃなくて」
滅びを知っている眸だ――――――と。
こどもの細い咽喉に絡まった言葉は表に出ることはなかったが、それ故に。
目は口程に物を云うという。名探偵の大きな瞳に明らかな断罪と憐憫を見て取ったようである、怪盗は肩を竦めた。
「…意外と一般的な物の見方をする方か? 儚く散る――――ってか」
「…そのつもりなのか」
「そう意味を付与させるのはおまえの勝手な解釈だ。桜が散ること自体には本来、儚さもしたたかさも付随しない」
他の生命と同じく、生殖の役目を終えて死にゆく桜に人々は無情を見る。そう見たいから、見る。見る者は、多い。だが、
「オレにどう見えるかは、もう云ったつもりだケド?」
「桜の下には鬼が棲むという」
「?」
ザザ…ッ。
風が吹き、二人の間を花辨が幾枚も幾枚も横切ってゆく。間合いを確かめるが如くに、す…と目を眇めて探偵は白い男を見たようであった。が、花辨に遮られてその視線は男に届かなかったようである。鬱陶しげに男は、己の回りに群がる桜の花辨を払い除ける。幾度も幾度も。男の手が織り成す微妙な風に流されて、花辨が舞う。
その様を眇め目で眺めつつ、やはり眷属…と探偵は再認識したようでもあった。
実際には探偵の二の句を待っていたらしい男は、幾ら待っても続かぬ言葉に痺れを切らしてこどもを見遣るが、先程の急に話題から外れたとも思える己が発言のことなどすっかり忘れ果てたように、彼は視線の照準をこちらに合わせていたのだった。
「めーたんてー?」
「その口調。そんなに人間で居たいか、鬼神め」
或いは言葉を待っていたのは自分だとばかりに、コナンは視線を外さぬまま男を見、続きを紡ぐため口を開く。観る。睨め付けるようにも見える視線の悪さで、親を見上げるようにも見える淋しげな貌で――――淋しげ?
怪盗は首を捻った。傾けるのをコナンも見たようであった。益々顔を曇らせた探偵に慌てた怪盗をだが無視して、コナンは言葉を続けた。
「桜の下には鬼が棲むという。それはそう観た人間が居るということだ。桜の幽玄に惑わされて我を失い狂気に走った人間こそが鬼なのだろうとオレは思う、だが」
桜は本当に自分の意思で人を惑わせているのではないのか――――――?
沈黙。
珍しく素直に心情を語った怪盗に対し、こちらもまた珍しく探偵は、遠回しに意味深な言葉を幾つも吐きながらも、核心に触れようとする度ひらりと翻り、その桜色の衣の端だけを相手の視界に留めさせている。答えを出させたくないかのような態は、或いは自分で答えを出したくないが故の無意識に因るものやもしれぬ。少なくとも怪盗にはそう見えた。
不器用な奴だ…と思う。
悪賢い奴だ…と思う。
どちらにしろ一途である。
ひどく一途な己が性質を、本人だけがわかっていない。
「参ったね、こりゃ…」
「なにが」
自分の手に負える相手ではないかもしれない。そう思い、苦笑した気配を探偵が敏感に感じ取ったのを見て取り、鬼は更に苦笑を深めたらしい。対応するこどもの貌が益々不機嫌なものになっている。
果してやはり、こどもは自分の発した言葉の意味をわかってはおらぬ様子である。
桜を白い男だと云った。
人を鬼だと云った。
桜に惑わされて鬼となる人間に自らを重ねて、己が知りたかったことが何なのか、飽くまで目を瞑ったまま彼は尋ねることもできるほどに、無意識でもそれを行えるほどに。
桜は果して、桜に棲まう鬼を自らの意思で惑わせてはいないのか…と。
無意識にも、尋ねるほどに。
「気付いちゃねぇし、気付かせたら逃げんだろうなぁ、おまえは」
「なにが」
「なのに、人には強制しやがる」
「だからなにを」
「素直に応えるのも悔しい気分だが…。名探偵」
「キ――――?」
「はなは」
それきり。
口を噤んで、怪盗は暫く花を見るともなしに見詰めていたようであった。
その視線を追おうとこどもが努力しても、ちいさなそれは意外にも早く視線を掠めてゆく。先程男がしてみせたように花辨に手を伸ばしてもみたものだったが、するり、するり。掴めそうで掴めない、それは…――――。