雨余心恋ひ ウヨウラゴイ

一日目

 そうして、君は笑う。

 そこここに春の気配を残しながらも、花言葉の通り熟し切った女の嘘を示したかのような山梔子の濃密な香りが、纏わりつくのに少々鬱陶しいと感じられるほどには、空気が湿度と温度を上げ始めた季節。彼の小さな姿を見付けてしまったのは、本当に偶然であった。

 雨が降っているとも言えず、かといって止んでいるとも言えぬ、あたかも空気全体が雨粒を、あるはずもない細胞内に閉じ込めてしまったかのような、そんな天気の日であった。彼は閉じられた子供用の傘を手に、所在無げに軒下で片足をぶらりぶらりと、前に後ろに振る様はまるで本当のこどものようで、つい洩らした笑みの気配に彼はこちらを向いた。

 蒼い瞳が、靄がかった重たるい大気のむこうで、湿気を孕んで揺れている。子供好きのお兄さんを演じてニコリと笑ってみせれば、何処か引き攣れた笑顔で返され、吹き出しそうになるのに、必死で我慢の子。ごまかすためか単なる照れか、自分でも判断付かなかったが、不自然に腕を上げて後ろ頭を掻く。ふと気付き、そのまま天を衝いて腕を伸ばした。空を掴む。パチンと指を鳴らす。

 眉をひそめた子供の許に、天から光の天使が舞い降りキスをする。などと大層なものでもなかったが、雲の切れ間から、それこそパァ……と音でも聞こえてきそうな体で光が射し込み、彼を照らした。まあるくまあるく、おひさまのように開かれた目と視線が絡み、そして。

 君は笑った。

 光の中で、青はくっきりとその色を際立たせ、錯覚と知りつつも、その周囲にからりと乾いた空気を生み出したとしか見えなかった。

 もうじき夏が来る。

二日目

 からりと晴れた一瞬の空気は、光に愛されたこどもと共に去ってしまい、残ったのはうっすらと湿る山梔子と、しっとりと重みを増した厚い雲のみであった。こんな日は空飛ぶ夢にも空飛ぶ現実にも逃げることはできずに、舌打ちしようかと思ったら、幼馴染みが玄関先にドカッと埋めていったまっすぐな植物と目が合う。

 この分だと今年も恋人には会えない天の二人に多少同情して、空を仰げば新たな雨粒がはたはた、はたはた。顔を濡らした。

 よっという掛け声と共に土から引き抜き、その青々と葉の茂る植物を肩に担いで家のドアをくぐった。台所から姿を現した母親に、視線で風呂場へ行ってちょうだいと促され、仰せに従って移動すれば、いっそ風呂場の方が余程外よりも乾燥している。冷たいシャワーでそれの足許を洗ってやると、土色が水に溶けて排水溝に流れていった。

 そうして綺麗になったしなやかに伸びた彼の足を拭いてやっていると、持ち主の女の子の何時もが通りの元気な声が玄関から響いてくる。恐らく手には山程の和紙やらリボンやら、彼を飾るための装飾品が握られていることだろう。

 果して予想通り。彼女と共に彼に化粧を施してゆきながら、見れば彼女の短冊には自分と同じ願い事。彼女も同時に気付いたらしく、お互い目が合えば、ぷっと吹き出した。

 いつも他人の願い事ばかり叶えている織姫と彦星の願いが叶いますように。

 時偶会うから認知的不協和で相手のことが必要以上に愛しく思えてる二人はそれはそれで幸せかもしれないね、と無邪気に笑った彼女に、おまえがそうやって時折見せる本音が怖くて愛しいのもそれかな、と思ったことは口に出せはしなかったが。

 そういえばあの名探偵の、心からの笑顔を見るのも、珍しくて興奮したかもしれないと、昨日のことを憶い出した。

 二人を隔てた雨に毛羽立つ舗装道路が、オレ達にとってのミルキーウェイだった。

 お蔭で動悸息切れ眩暈と、橋の上で恋が始まる条件が揃ってしまったが、お互いその程度のことで怯んでいては、もっと興奮するあの対決の瞬間に打ち勝つことはできないと知っているから、勘違いなど決してしないだろうが、それでも。

 一日くらいは勘違いに身を委ねてみるのも悪くはないかもと思うほどには、夏の気配は心地好かった。

三日目

 祭囃子と彩りも鮮やかな笹を背負って、彼女と連れ立って出てきたのは電車で二駅、近いとも遠いとも言い難いがやはり近所と言えるだろう、割合に有名な神社だった。普段は弓道場に使われているものか、広々と草も生えてはいない広場に晧々と火が灯り、妖艶な舞いを披露して火の粉を散らしながら炎は人々の顔に影を作っていた。

 既にその火の中には何本も笹が投げ込まれているのだろう。底には堆く灰が山を為し、まだ燃え切らぬ天を衝いた青い笹は、やがて足をその焔に取られ、ずぶずぶと地に沈んでいった。それとは対照的に笹に縫い止められた願い紙は熱に空へと舞い上げられ、だがイカロスの翼のように熱に負けて天に届くことはなく、灰となってひらひらと人々の足許に落ち、もはや見向きもされぬといった体で踏み潰される。

 綺麗だね。そう言って彼女は、目の前を落ちていった灰をひとひら、てのうえに受け止め、すぐに地に還す。願いは天に届くことなく、だがひとりの少女に看取られて、それはそれで羨ましく思われた。入れようか。どちらが言い出したかも知れない。投げ込まれた二人の笹もすぐに焔の糧となり、舞い上がった炎塵に天が雨を降らしたというわけでもあるまいに、ちょうどぽつり、ぽつりと天が涙を零し始め、もしかしたら彼女の願いは天に届いたのかもしれないとうっすら莫迦な満足感に浸ってみる。

 そんなことを考えながら目を細め狭められた視界に、彼女にも似た容貌の少女と、その少女に手を引かれる小学生の姿が飛び込んできた。

 またも天の川を挟んで会っちまったな名探偵。彼はこちらに気付かぬ風で、こどものように炎の舌先を視線で追い掛け、やがて自分の前に舞い降りてきた宴の残骸を、蓮華の形で合わせた手に掬い取った。

 自分が泣き出さなかったのを不思議だと思った。

 炎のせいではない、目が乾いてチリチリと痛み、湿気を欲して涙が溢れるかと思われたが、動かなくなってしまった視線と同様、涙腺もその機能を失ってしまったかのようであった。

 名探偵、それはオレがさっき地に落ちることを承知で火に投じた短冊だよ。熱に張り付いた咽喉はそんな僅かな囁きすら洩らせず、ただ胸の奥で嗚咽が響いた。願い事なんてしなければよかった、何も誰も願わなければ、君に人々の声が届いたりはしないのに。

 どうしてそんな傷付くことも知らぬげに、あっさりとひとの願いを掬い取ってしまえるの。

 ひどく傲慢な思い込みでしかないことは充分に承知で、それでもオレは名探偵の孤独を思って泣いた。あれは単なる灰。あれは単なる行為。そこにそれ以上の意味を見出したのは、あくまでもオレであって名探偵ではないと知って尚、それでも。

 胸が痛いという表現は、本当に心臓が痛むのだと、知った。

 せめて雨が、君のてのひらを汚した黒い灰を流してしまえるように。

 どうかこの涙が君を濡らしますよう。

 せめて、夏が来るまでは。

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