名も無き詩

Novel

「おやぁ?」

 学校帰り、学生服に身を包んだ快斗は、道を行く小学生の集団に目を留めた。別れ際らしい彼等の挨拶は実に無邪気な表情と共に交わされる。……たった一人を除いては。

「じゃーまた明日な! 明日こそはサッカー付き合えよ、コナン!」

「そうですよ、コナン君も早く風邪治してくださいね。それじゃ」

「灰原さんみたいにお休みになっちゃうと大変だから、ちゃんとあったかくしててね! じゃあばいばい!」

 帰る方向が同じらしい三人に、マスクと眼鏡でその顔の大半を覆われた少年が軽く手を挙げる。

「ああ……またな」

 そうしてきびすを返してこちらへ向かって歩いてくる。人の顔をちらと見ることもなく、昏い瞳を更に隠すかのように俯き加減で、快斗の周りで止まっていた風を微かに乱れさせる程度の静かな動きを以て、コナンと呼ばれた少年は快斗の横を通り過ぎていった。

『何だこりゃ……』

 視線を流して快斗はその少年の動きを追った。完全に後ろ姿になった彼が小さくなってゆくに従ってその視線を強めていったが、気に留める様子もない。

『やっぱりな』

 その少年は、見掛けこそ快斗の知っている彼の姿に似せてあるが、明らかに別人であると確信する。

『今時の小学生の間では変装が流行ってんのか?』

 自分でも呆れるような莫迦なことを考えながら彼であって彼でない、その少年を追い掛けた。足音には気付いたろうが、気に掛ける様子もなくすたすたと歩を進める彼。快斗は触れられる程度まで追いつくと、隣りに並ぶようにして歩調を彼のそれに合わせて緩めた。さすがに彼も快斗に注意を向けたようである、ちらりと不審げに一瞥をくれる。

「えーっと……ボク?」

「……。何?」

『うわ、凄ェ……あのボウズよりもガラ悪そうだなんてな』

 彼に冷たい眼差しを向けられて、何故か快斗は楽しくなったようである……作り物ではない、本当に楽しげな笑顔を浮かべて視線が交わるように、自分より遙か下にある瞳を覗き込むように見下ろす。

「それって、何かの遊びなのか?」

「……何のこと?」

 にこにこと話し掛けてくる快斗に、少年はどう対処しようか頭を悩ませていた。

『マズいわね……江戸川君の知り合いかしら』

 工藤新一――今現在、本当に元の身体に戻っている新一によく似た面差しの快斗は、どうやら自分がコナンでないことに気付いている。だからこそ声を掛けてきたのだろう……が、自分はこの高校生を知らない。

『逃げた方がよさそうね』

「んー……わかんねーならいーや」

「ごめんね、おにーちゃん。ボク用事があるから、今は――」

「あー……っと。ちょっとだけでいいんだけど。ああ、『はじめまして』、挨拶が遅れたな。ほんのちょっと、オレのマジックに付き合ってくんねーかな?」

「……え?」

 目を丸くした少年に、快斗はできるだけ優しい笑みを浮かべた。きっと何か事情があるのだろう。小さな子供を追い詰めるのは快斗の趣味ではなかった。自分に話し掛けられて困ったような表情を必死で隠そうとしていたこの子は、恐らく江戸川コナンのために変装などしている。実際に黒羽快斗としての自分は江戸川コナンなど知っていてはならないのだし、ここは何も知らない振りで、快斗は様子を探ってみることにしたらしい。

「実はこれからオレ、ちょっとマジックショーをしなくちゃなんなくてね。その助手を探してたんだけど。手伝ってもらえ…――」

 言いかけた快斗の言葉が止まったのは、交差点の対岸に一人の高校生を見付けたからであった。それに気付き、「コナン」も快斗の視線の先を見遣る。そこには二人の方へ向かって歩いてくる工藤新一の姿があった。不覚にも束の間、ポーカーフェイスを崩してしまった快斗はだが、その状況を一瞬にして理解した。

『戻ったのか……はーん、そういうこと。っつーことは、このボウズも「江戸川コナン」の正体を知ってるんかね……』

 二人の視線が注がれる中、「工藤新一」は小走りに横断歩道を渡ってくる。

「よぅ、今帰りか、コナン……と、そちらは?」

 あからさまに快斗に対して警戒した表情を見せる新一に、「コナン」の方が驚いたように快斗を仰ぐ。快斗は苦笑を浮かべて、

「いや、ちょっと」

「こいつに何か用ですか?」

 答えに窮した快斗の救いの手は、横断歩道のむこうからやってきたようだった。

「新一ー? とコナン君、そんなとこで何やってんのー?」

 毛利蘭だった。横断歩道のむこうで、信号が変わるのを待っている。学園祭打ち上げの買い出しでもしていたのだろうか、新一も蘭も、手に重そうなビニール袋を下げていた。……まるで仲良く買い物に出掛けた夫婦のように。

 蘭の姿を見留めた途端、新一の顔に喜色が上った……のと対照的に、「コナン」がそれを見て表情を曇らせるのを、快斗は見逃さなかった。不自然には見えないスピードで二人から視線を逸らしてゆくその動作に彼の慣れが感じられて、快斗は軽く眉を顰めた。その視線に気付いたのか、彼がゆっくりと快斗の方を向く……まるで縋るような、瞳。

 無意識に快斗は「コナン」の手を取っていた。……柔らかな女の子の手。

「行くぞ、ボウズ」

 彼の返事も聞かず、手を取ったまま快斗はきびすを返した。新一が驚いたように快斗を見遣る。

「おい、ちょっと待てよ。オメー一体…――」

「――ボクの知り合いだよ」

 振り向き様、新一に応えたのは快斗ではなく「コナン」であった。新一の目が見開かれる。だが快斗はその答えを予測していたかのように、振り向きもせず歩を進めた。

「ちょっとこの人と出掛けてくるから。帰り遅くなるかもしれないって蘭ねーちゃんに言っておいてね」

「あ? あ、ああ……だけど今日は蘭も遅いぜ?」

「……一緒なの?」

 それを発した「コナン」の貌を見たくなくて、快斗はほんの少し、脚を早くする。「コナン」がついてこれる早さで。

 不思議そうに見送る新一と蘭を後ろに残して、二人の辿り着いたのは街の片隅にある公園であった。

「はい、烏龍茶」

「ありがと……」

 人気のない公園のブランコに所在なさげに腰掛けた「コナン」に、快斗は彼――彼女の注文の烏龍茶の缶を手渡し、自らも缶のプルトップを開けてオレンジジュースを口にする。「コナン」の方はといえばその缶を手にしたまま、何処に視線を定めるともなく、ぼんやりと結露が流れ落ちるに任せていた。何も言わず快斗は、彼女の隣りのブランコに腰を降ろす。

 やがて手を伝う水滴もなくなるほど缶が暖まった頃、やっと「コナン」はプルトップを開け、顔に掛けていたマスクと眼鏡を外した。それを見遣ると快斗は、飲み終わった缶をゴミ箱へと投げる。綺麗な弧を描いて飛んだ缶は、カシャンという音と共に見事にゴミ箱に収まった。

「器用なのね」

「まぁね。これでもさっき言ったとおり、マジシャンなんで」

 気障ったらしくウィンクなどしてみせながら、何処からともなく出した深紅の薔薇を彼女に差し出す。

「どうぞ、お嬢さん?」

 半ば呆れたように苦笑しながら彼女は花を受け取った。

「やっぱり驚かないのね」

「あん? 何が?」

「私が女だってことよ」

「いや……まぁ」

 苦笑して頭を掻いた快斗に、彼女はすっかりコナンの演技をやめた表情で向き直った。

「私は驚いたわよ? まさか怪盗キッドがこんなに若い子だったなんてね」

 すっと快斗の顔から表情が消え……一瞬のちには、何を考えているのか伺い知れぬアルカイックスマイルに取って代わる。

「何のことだ?」

「別に誰にも言うつもりもないわよ。助けてくれたお礼」

 彼女は一口、烏龍茶を口に含むと

「あなたは『工藤』君のことも『江戸川』君のことも知っている様子だったわ。そして二人が同時に存在することに驚愕していた。『彼等』の正体を知っているということ……なのに工藤君はあなたを知らない。かといって工藤君に敵意を持っている人間でもない。そんな人間、探偵じゃなくても推理すればたった一人しかいないってすぐにわかるのよ。……怪盗キッドの別の姿。尤もそれが素顔なのかどうかまでは追求しないけど」

 彼女は薄く微笑を浮かべて快斗を見遣る。それに快斗も感嘆したような笑みで応じた。

「さてさて、何のことだか、愚鈍な私めにはわかりかねますが。……灰原哀さん?」

 彼女――灰原哀は微笑とも苦笑ともつかぬ表情を深くし、

「やっぱりね。私のことも調べてあるとは思っていたわ」

「調べ足りなかったようだけどな。君があのボウズと同じような環境の人間だとはついぞ知らなかった。……それと」

「それと?」

「……いや。何でもねー……」

「私が工藤君を好きなことも知らなかった?」

 くすりと吐息を洩らして笑うと哀は、立ち上がって先程の快斗と同じように缶をゴミ箱に向かって投げる。まだ中身の残っていたそれは金色の液体を撒き散らしながら……目的地に辿り着くことなく、地面に転がり染みを広げていった。

「やっぱりあなたみたいに巧くはいかないわね」

 哀はその染みの元まで歩いてゆくと、まだ広がり続ける水溜りを避けるようにして缶を拾う。

「まだ言ってなかったわね。……有難う、何度も。フェミニストだとは聞いていたけど、それ以上に優しいのね」

「お嬢さんのためでしたら」

 茶化すようにも照れを隠すようにも、芝居がかった一礼を返す快斗。哀は笑うと、

「そういうことにしておいてあげるわ。意外と可愛いのね」

 くすくすと笑う哀は本当に楽しそうに見えて、先程とは別人のようで。快斗は安心したように微笑む……やはり人の表情の中で、笑顔を見るのが一番好きだった。特に「コナン」の顔で苦しそうな貌をされると胸が痛む……自分の胸が痛んでいたことに、快斗はやっと気が付いた。無邪気に笑っていてくれると安心するというのはどういうことなのか。

 己の心境に多少動揺を隠せないまま、疑問の元である「コナン」の顔を視線で追う。彼女はコナンの表情ではないそれで、赤く染まる空を見上げていた。

「……好きじゃないわ」

 空を掴むかのように手を伸ばしながら、聞き取れないほどの呟きを哀は洩らす。聞かれたいのか、聞かれたくないのか。判断がつきかねて、快斗はただ黙って彼女を見詰める。まるで独り言のように哀は呟き続けた。

「好きなんかじゃないわ、工藤君なんて。あんなに冷たくてお子様で」

「…………」

「あなたとは大違い……あなた、顔はちょっと工藤君に似てるけど、性格は全然似てないのね」

 夕日を背に、哀が快斗に向かって微笑む。苦笑とも諦念ともとれる儚い笑み。

「工藤君なんて大嫌い」

「……うん」

「毛利さんも嫌い。……殆ど話したこともないのにね」

「……うん」

「解毒剤なんて作らなければよかったわ。江戸川君のままだったら、彼は私と同じ、帰る場所なんてなかったのに」

「……うん」

「嫌いなの……」

「…………」

「工藤君なんて好きなんかじゃないわ……大嫌いよ……」

 赤い光でできる影で表情を隠すように、俯いて小さく震える哀を、快斗は膝を突いて抱き締めた。小さな身体……だが涙も流さず心だけで泣く泣き方は、確かに子供のものではない。こんなときに必要なもの……快斗にはぬくもりくらいしか思いつかなかった。その小さな身体をすべて包み込むように、優しく強く、抱き締める。

「……あなたみたいな人を好きになれていたら、少しは楽だったかしら」

「でも君は、彼のことしか見てない」

 声を上げて哀は笑った。

「……知らないわ、恋なんて。好きなんて感情、知らないわ。私は何も知らないの、恋愛も友情も……およそヒトらしい生活なんてしてこなかったんだもの」

 自分を落ち着かせるためか、哀は大きく深呼吸を一つして、

「ごめんなさいね、こんな話をして。……誰にも話したことなんてなかったのに」

「――…君は全部知っているよ」

「……え?」

 目を瞠る哀に、快斗は少し身体を離してその瞳を覗き込むように微笑する。

「君は知っている。人を愛する気持ちも、人として生活することも、充分。それはあのボウズから学んだことだったり、一緒に暮らす博士や、学校の友達や。そして今日、オレとの出逢いでも何か学ぶことがあればいいんだけどな。色々な人達にもらったもの。そしてこれからももらっていくもの」

 いつしか夕日はすっかりと地に消え、まだ赤みを残す空のみとなっていた。街灯が灯る。静けさは夜の帷と共にゆっくりと哀に押し寄せ、ただ世界に快斗の声だけが響く……新一の声によく似た声。

「たくさん、君は色々な人に色々なものをもらってきて……そして君も周りの人達に色々なものを返していく。それを否定してはいけない……大事なものを見失なっちまうぜ?」

「私が……返しているものなんて」

「オレは返して……てか一方的にだけど。もらったぜ? 君の笑顔に、元気をもらった。盗んだが正しいのかな、オレの本業だし?」

 変装の名人のはずのこの怪盗は、敢えてだろうか、新一の振りをすることもなかった。快斗の表情で、快斗の言葉で。哀は、却ってそれで救われているような気がした。心の奥にしこりのようにたぐまり凍り付いた何かが、溶けだして闇に溶けていくかのような感覚……哀にとって随分と久し振りな感覚。ずっと昔に、何処かでこれと同じような思いをしたことがあった。

『ああ……お姉ちゃんだわ』

(志保の喜ぶ顔が見たくて)

 そう言って、外に出ることもままならない自分のために、事あるごとに外の様々な話や土産を持ってきてくれた姉。

(志保のその顔を見ると、また私も頑張らなきゃって気になれるのよね)

『私もそうだったのよ、お姉ちゃん……』

「そうね、私も…――」

 聞き漏らしてしまうほどの小さな呟きを、だが快斗は確かにその耳に留めた。

「あなたに元気をもらったような気がするわ……」

 目の前の彼が微笑むのを、哀は何処か幸せな思いで見ていた。けれどそれにくすりと揶揄するような笑みで返し、

「なんてね……気のせいかもしれないわ」

「あ、ひっでー」

 顔を見合わせ、互いに吹き出す。こんな風に笑えたのは随分と久し振りのような気がした。

 姉に支えられていた。そしてきっと姉を支えていた。……これから先に、他人とそのような関係が築けるのだろうか。既に彼とは築けたのだろうか。

「私……にも。できるかしら。毛利さんや、他の人にも。私は優しくできるかしら。何かをあげることができるかしら……」

「君が望むなら」

「……望むわ。望めるわ、そのうちね。だから今は」

「…………」

「もうちょっとだけ、自分のために泣かせてちょうだい……」

 顔に熱いものが伝うのを、敢えて哀は隠さそうとしなかった。快斗もそれを止めさせようとはせず、黙って目に掛かる前髪を掻き上げてやった。

 私は江戸川君の姿で、怪盗は工藤君に似た姿で……奇妙な情景でしょうね。哀は思った。コナンの姿で哀は新一を思って泣き、それを悟られてはならないはずの新一の姿で快斗は哀を癒すのだ。

『今だったら認められるかもしれない』

「工藤君が好きなの……」

「ああ」

 まるで彼に告白するかのように、快斗の目を真っ直ぐに覗き込んで。

「好き……」

 噛み締めるように哀は呟いた。苦しみも愛しさも、いつかは力になることを祈って。

 まるで子供にするように頭を撫でられても不快な思いはしなかった。むしろ気持ちが快くて、こんな怪盗などに短時間で気を許してしまった自分も今は許したい気分で。

 甘やかしさえしなければ、自分を許すという行為は強さになると思う。いつか彼のことも、彼を好きな自分のことも許せる日が来ますように。そのとき本当に新一のことを愛せるような気がする。快斗の顔に新一の顔を重ねながら哀は思った。

「手始めに、マジックで人を幸せな気分にしてみる気、ない?」

「……本気で助手を探していたの?」

 哀は笑った。目の前の、想い人に似た面差しと視線を重ねながら。いつか、心から彼と笑い合える日を夢見て。

「残念ながら今日は駄目。もうじき魔法が解けるから、王子様を迎えに行かなきゃ」

「魔法?」

「あの解毒剤は未完成で、まだ身体を固定させておくことは危険なのよ。身体に負担が掛からないよう、今夜にでもまた戻るよう……どちらが戻るかわかったものじゃないけど。小さくなるよう、設計してあるのよ」

「ははぁ、また小学生生活に逆戻りですか。アイツも難儀なこって」

「意外に馴染んでるみたいよ」

「確かに」

 気が付けば、お互いの顔も街灯に滲むほどになっていた。そろそろ限界だ。

「もう行かなきゃ。じゃあ」

「送っていくぜ」

「結構よ。遠くになりそうだから、毛利探偵に車を頼むわ」

「遠くって……ああ。ボウズの眼鏡か。追跡装置だな? じゃあ事務所まで」

 何処までもフェミニストらしい。哀はクスリと笑みを零すと、

「そうね、じゃ、そこまでは頼もうかしら」

 だが言った直後に後悔する羽目になった。まさか抱き上げられて歩き出されるとは、哀の予想外のことである。

「ちょっと……下ろして」

「何となく、したくなった」

「……変な人。でもないのかしら、普通かしらね」

 好きな人にふれたいと思うのは。

 自分が新一の変わりにキッドに告白したように、これも代償行為なのだと哀は思う。自覚があるのかは知らないが、この怪盗のコナンに対する興味は一通りではない。でなければ自らの正体が露見する危険まで冒して、あの探偵に関係深いだろう自分に話し掛けたりしなかったであろう。

 ふれているぬくもりも優しくて、気を付けてくれているのだろう静かな歩みの微かな振動も心地好くて、哀はおとなしくその腕に体重を預けた。

 許してくれるの? キッドが問う。私がしたいだけよ。哀が応える。

「今頃、工藤君は毛利さんに告白できたのかしら」

「何だ、それ」

「二人、今ホテルに居るのよ」

「……君はそれでいいの?」

「あなたはそれでいいの?」

「何でオレが?」

「何で私が? 私は、告白なんて一生する気、ないもの」

 自分を抱いている人物が、首を傾けて視線を寄越したのを、ふれている筋肉の動きで知った。

「友人でいいのよ。そうすれば、ずっとそばに居られるかもしれないじゃない。主治医としてだったら」

「……それでいいのか?」

「私はあの綺麗な風景をなくしてしまうくらいだったら、こんな想いなんて一生言わないままでいられるわ」

「…………」

「彼に優しくしたいの。彼を守りたいのよ」

「……ああ」

「彼が他人から何も得ることができない人だとしても、私は彼から色んなものをもらったから。お返ししたいの」

「…………」

 頷きの代わりに心持ち、抱く腕に力が込められたように感じる。優しい人なんだわ、と哀は奇妙な感動に胸を撞かれた。そして淋しい人なのだ、とも理解した。頭の良い子供はあまねく孤独なものだ。哀然り、キッド然り。或いは親近感を覚えたのかもしれなかった。そしてまた自分達は、己の孤独にさえ気付けないほど孤独な子供に出逢ってしまった点でも似ている。この非現実的な非日常を共有しながら、それを日常ではないと理解することもできないほど非日常を生きている彼に。

「あの二人が嫌いなのはね」

「うん?」

「工藤君が、恋も知らないくせに毛利さんのことを好きだと錯覚しているところよ。そして毛利さんもそれを重々理解した上で、それでもいいと彼を愛し続けてるところよ」

「……だからあのメイタンテイにはぴったりなんだろ。アレはそんな執着も幸せも知ってしまってはならないイキモノだ」

「そうね。知らないままだからこそ彼は探偵で存られる。そしてだからこそ誰のものにもならない、なれない。だけど」

 コナンの顔で哀はキッドを見上げた。

「あなたが目的を達して怪盗をやめるとき。二度とあの人と接点もなくなってしまうとき。もうあなたがあの人と非日常を共有できなくなってしまうだろうとき。……あなたはまだそう言える?」

「……どういう、意味だ……?」

 怪盗キッドであるために、敢えて半身を切り落とすことに慣れているのだろうかたわの怪盗に、哀はもう一度繰り返した。

「あなたはそれでいいの?」

 私のものにならないなら、誰のものにもなってほしくないと思っていたけれど。ならない人だからと安心してもいたけれど。

「あなた、変な人ね。あなたならいいんじゃないかって気分にさせる」

「? 何が?」

「あの人を幸せにする権利。あってもいいんじゃないのかしらって思えるわ」

「……幸せにすんのに権利があるってのも変な話だけど、あの名探偵の場合、確かにそうだよな……」

 哀は確かに天下の怪盗のポーカーフェイスが外れたのを見た。苦いような哀しむような、淋しい微笑。

「だがアイツは果して幸せになる権利を望むのか?」

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