「自分に似た者を愛すると云うのならば只の自己愛だろう。自分に似てない者を愛すると云うのならば只の被虐趣味だろう」
「ならぱ愛と云うのは?」
「バランス感覚の取れた者のみに許された幻想かも知れない」
「友情でも、恋愛感情でも」
「自分の心の三半規管が優れている自信は全く無いが、人を愛したいと、愛されたいと、特に思った事も無かったが、でも御前が傍に居てくれて良かったと思った事が何度もある」
「幻想でも良いのか?」
「詰まる所、実体である事も幻想である事も、オレには大して興味は無い。唯オレが愛情を抱いていたいと思う人達が居るだけの話だ」
「ならばオレも欲望に従っておまえを好きだと言おう。其れが御前にとって迷惑で無いのならば」
「迷惑であれば此方から好きだと云ったり等しない」
「まぁ此れがバランス感覚か」
「多分な」
「何故恋愛感情に於て此のバランスが崩れる事が多いのかが疑問だが」
「恋愛感情を好意の一種乃至上位概念と見做さない者が多いからだろう」
「?」
「恋愛が最も大きな通過儀礼となってしまった現代社会の歪みが大きいと思われるな。恋愛に於て自分がヒロインになれるという幻想が社会を覆っていて、恋愛感情を特別なものだと認識したがる者が多い」
「嗚呼、恋が色では無くなってしまった弊害か。感情は普く名を付けられ定義される以前に唯感情であるのにな」
「色気が無くなって乾いたな」
「御前の感情は濡れていて円満に潤滑油となっているとでも云いた気だな」
「其れこそバランス感覚、だろう?」
「恋愛感情は、何のためにあるんだ?」
「理由がないと不満なん?」
「そういうんじゃ、ねーけど。何つーか……」
「姉ちゃんと喧嘩でもしたんか」
思い切り頭を叩かれた。子供の力とはいえ、相変わらず容赦のない。ちゅーかコイツはンなこと絶対考えてないねんで、大人のままでも絶対本気で殴っとったやろコイツは。
などと思考が脱線したのを素早く察したコイツはまた人の頭を叩く。ええい、まーだ我慢しといてやるねんけど、中学生ぐらいまで育ったらこっちも容赦せぇへんでェ、ウルァ。
「オイっ」
「ちゅうか何でオレにそないなこと訊くねん……」
実はこちらの理由は何となくわかっていた気もするのだが。
「え。だっておまえ、新婚さんだろ」
言われると思った。視線を逸らす。
「新婚いうたかて、オレ等は付き合い長いよってなァ……ああ、せやからおまえらのアドバイスにも丁度良いて思うたんか?」
「え?」
「? 毛利の姉ちゃんとやろ?」
オレの言葉に、一瞬目を大きくさせたと思ったら、狼狽えたように視線を彷徨わして結局、俯いた小さな頭。……コイツのこないなトコ、初めて見た気ィする。
ってちゃうちゃう、そないなコトにこっちまで狼狽えてる場合やあらへん。何や、蘭ちゃんやないんなら、何処の誰やねんな……って、あ。
「もしかして科学者の姉ちゃんッ?」
「灰原だ……オメー好い加減名前憶えろよ」
んん? 不思議に思う。呆れたような工藤の様子はどうにも色気がなかった。
「や、憶えとるけど。ちゃうのん?」
「別に……誰っつーこともねぇんだけど」
へいへい、誰かにゾッコンなんやな。相も変わらずわかりにくいようでわかりやすい。……ちぅかどうにも面白ない。面白ない……昔から、工藤があんま幸せそうやない様子を見せると。
「へいへい。で、話を戻そ。恋愛感情は何のために存在するんか……て、大阪の人間に愛なんて言葉使うたらアカンで、サブイボ立つわ」
「恋っつーよりは限定されてなくていいだろ」
「? 限定したいんとちゃうん?」
「……よく、わからない」
恋というものが。そう聞こえたのは気のせいだったろうか。それとも願望だったのだろうか。少なくとも工藤はそういう生き物なのだと、誤解にしろそう思いたいだけの感情を抱いてはいたと思う。……過去形やないな。この感情に名前を付けることができんかった。それが和葉との結婚のきっかけになったんだろ、と言われても否定はできない。女の子の腕は、細くて柔らかくて暖かかった。
「……恋愛感情か否かはともかく。問題は、おまえがそれを恋と見做したいかどうか、やろ」
目に見えて狼狽える工藤は、確かに恋とやらをしとるのかもしれへん。そう、思った。けれど、それを言うのは何か癪で、結局オレは工藤に先を促す狡い方法を取る。
「恋なんて、或る程度しようと思わなできへんもんやと思うで。子孫繁栄てだけなら、何処の女とでもヤれる。ちゃうか」
「したいと思うから、するのか……?」
「セックスにそれ以上の意味を求めるその行為こそが、恋とか愛とか呼ばれるんちゃうか」
「だったらそれこそ、恋愛感情は何のためにあるんだ」
工藤が何に拘っとるのか、オレにはイマイチわからんかった。
「……昔、黒羽に」
ピクン、と工藤の肩が揺れたのを見た。……まさか、工藤は知っとった?
「黒羽に尋ねたことがあるんや」
工藤への自分の感情を持て余していたとき。感情に揺れることになどとんと縁の無いように見えた人物に尋ねて、後悔した記憶。今となると優しい優しい記憶。
「恋って何やと思う? てな」
「……快斗は何て」
……知っとったんやな、工藤。まさかアイツが告白なんてすることがあるとは、オレは思っててもみなかったが。
「アイツはなァ、こう言った。綺麗なモンだろ……てな」
「綺麗……」
日の光の中で、満面の笑みを浮かべながら言ったアイツが今でも鮮明に憶い出せる。
(親子愛も友情も憎悪も罪悪感も、みんな綺麗なものだけど。恋愛感情って特に凄いよな、感情に付けられた名前の枠を取っ払って、心が浮いたり沈んだり、すべてを赦したくなったり、すべてが赦せなくなったり。ほんの些細なことで酷く優しい気持ちになれたり、或いは残酷な気持ちになったり、そういった自分に不意に気付かされたり、全く盲目になったり。名前の呪縛を取っ払って、愛しさも哀しさも全部一緒こたに感情を爆発させてた赤ん坊時代に、戻ることができるんだ)
そう、笑いながら、
「――…そう、言うてた」
「……アイツなら、恋愛感情こそ時勢に操られた作り物の感情、とか言うかと思ってたけど」
「せやな……けど、もうそんとき、」
アイツはおまえに恋してたから。
言えずに、口を噤んだ。
「……服部?」
「その前、別ンときになァ、どないしたら優しくなれるんか、訊いたことがあるんや」
「……?」
「アイツはな、逆にオレに訊いてきよった。おまえは自分が全く憎いとは思えない、目の前の人間を殺せるか? てな」
「え?」
そう言ったたときも、アイツは笑っていた。
「オレは躊躇いもなく殺せる。言葉に詰まったオレに、アイツはそう、続けた。叩き込まれた倫理も遺伝子の情報も、捻伏せて同種殺しのできる、その強靱な理性こそが人間を優しくする原理だ、てな」
(遺伝子や環境の利益を度外視しても、優しくできたり冷酷になれたりする、利益以外の何かに見出す『意味』こそ、ヒトの綺麗な『修飾』だろ?)
飾りってのは、綺麗になるために身につけるモンだからな。
「そう言って、笑うたアイツは修飾なんて概念も何ものぅて綺麗に見えたんや……」
「……ああ。ああ……アイツの理論で言えば、あれこそ人間らしい人間じゃなきゃならなかったはずなのに、な」
「綺麗すぎて、人間に見えんかってん……可哀想な奴やと思うた」
その綺麗な笑みのまま、アイツは言った。
(オレ、名探偵のこと好きだぜ)
相談なんかせな良かったと後悔した。アイツはオレの工藤に対する訳わからん感情も、多分見抜いていたんだろう。その上で言った、それはアイツの嫉妬だったのかもしれない、と思ったたときに感じたどうしようもない敗北感。
アイツが理性を手放すんは、どれだけ怖かったことやろ……と。
それでもすべてを手放して工藤を愛した、アイツとは戦いとうないと思った。
怖じ気づいた訳やない、負けを認めて去るちぅ訳でもない、ただアイツから工藤を離したらアカンて思うた。
ただアイツに工藤を愛させたいと、心から思ったそれは、黒羽に対する愛情であったと、今なら言える。
友情と言うのかもしれない。同士に対する誠意かもしれない。形にするのはどうにも躊躇われた、自分を綺麗だとも思えた一瞬。あの後悔した瞬間を、今でも黒羽に感謝している。
自分の醜さを感じて、自分を愛しく思えた。他人の醜さを感じて、他人を愛しく思えた。
あの瞬間がなければ、探偵なんてやめていたかもしれないと思った瞬間があったなどと、工藤には決して言えないことだけれど。
「なぁ……まさか。二年も経っとるし、まさかて思うてたねんけど」
工藤がまたぴくりと肩を揺らした。まだ細い肩。結局元の身体に戻ることを拒んだ背景には、流れてしまって元に戻らぬ月日に対する諦念の他に何があったのだろう。工藤は何も話さなかった。亡くなった彼のことも。
「アイツ……なんか?」
ぽつり、ぽつりと語られ始めた過去は、既に年月が経っている疵痕特有の寂寥が漂っていて、どうしてあのとき無理にでも言葉を吐き出させなかったのか、後悔しても遅かった。
「誰だったかな、恋愛感情に理由を探しているうちはまだ本当の恋じゃない、いわば恋に恋をしている状態だっつった人が居るな」
「…………」
「そんなもん、前は興味もなかったしわかんなかったし、どうでもよかったんだ。ただ……理由が欲しくなったのが、アイツが居なくなってからだなんて、変か……?」
何と言って良いかわからず、ただ抱き締めた。
「理由とか名前とか区分とかそんなもん、アイツが居りゃ要らないんだ……」
軌道修正しないまま何処まで突っ走れるか。(多分)
初の恋愛状態工藤さんを目指して撃沈したような気が致します。つーか何でこにゃんちゃんからこんな遣り取りになったんでしたっけ?(素)