「きゃあ!」
穏やかな陽気の午後。五時限目のグラマーなんて寝ろと言っているようなもんだ、とばかりにさっさと夢の中で遊んでいた快斗は、甲高い悲鳴に覚醒を余儀無くさせられた。
「……んあー……?」
きゃあ、きゃあ。そこここでかしましい悲鳴が聞こえる。何が起こったのかと見回してみれば、騒ぐ女性陣とは裏腹に、男性陣はそれをニヤニヤと眺めている。
「なァんだぁ……?」
寝惚けた声を上げれば、キシシと笑って前の席に座っていた芦屋が、身を捻って快斗に話し掛けてきた。
「起きたか」
「お陰様で」
で、何事? と口を動かすのも億劫そうに視線だけ上げて見せれば、芦屋はホレ、と顎をしゃくって騒ぎの中心を指し示す。
「ああ、なーる……」
逃げ惑う女子達をよく見れば、何の事はない、黒い小さな生き物がその足許を、大層なスピードで走り回っているのが見えた。そんなに怖いものかねぇ、と安眠を邪魔された快斗は若干据わった目でゴキブリを見遣る。
悪ィな、君にはなーんにも罪はないんだけどね? オレ様は今眠いの、ちょーっと成仏してくれるかなー?
立ち上がった快斗に、まるで面白いものを見るかのような視線を遣した芦屋の頭を軽く小突くと、さーて何か潰すものは、と辺りを物色する。ちょうど後ろのロッカーの上に、誰ぞやが残したスポーツ新聞が目に入る。おし決まり、と快斗が一歩、踏み出そうとしたときだった。
「おんやぁ、青子ちゃん」
未だ同級生の男にちゃん付けされる、幼い雰囲気を持った青子が、何処か清閑な貌で騒ぎの中心に近付いてゆく。青子の席は大分離れた場所だ、何を好き好んでゴキブリなどに寄っていくのだろう? と芦屋は興味津々といった体を隠そうともせずに成り行きを見守っている。快斗は軽く舌打ちした。
「あ……ンの莫迦」
「さっすが夫婦、何やろうとしてんのかわかんの?」
今度は小突くと言うには少々手荒く拳を芦屋に与えて、だが快斗もまた、ただ黙って成り行きを見ていた。青子が自分の意思で決意した事柄について、快斗は今の今迄、ただの一度として彼女を信頼せずに無意味に止めたことはない。
喧騒の中、黙って進み出た青子は、あれ? という貌をするクラスメートに目もくれず、暫くその素早い生き物の動きを見詰めていたと思うと、ぱっとその進行方向に屈んでそれを捕えた。
きゃあ! 悲鳴が一際大きく上がる。あんぐりと口を開けた芦屋の隣で、快斗はやはり、と天を仰いだ。
青子はクラス中が引く中、好奇の視線をものともせずにそれを両手で包んだまま、窓際へと歩く。片手を伸ばして窓を開けた快斗に微笑むと、それを手から離す。
その生き物は命を救われたことにもしらぬげに、遠く快晴の空に向って飛んでいった。
静まり返る教室に、カラカラ……と快斗が窓を閉める音だけが響く。その中、青子は教師に向って、にこぱ、という音が聞こえそうな無邪気な笑みを見せ、言った。
「先生、授業始めてくださーい」
快斗は小さく溜息を吐いた。
「バー……カ」
昔も未来も学校の中でこれだけは変わることがないんじゃないだろうか、と思える馴染みの鐘の音と共に授業は終わりを迎える。教師の「終わります」という声も待たずに生徒達が片付けを始めるのもいつもの風景だ。今日は水曜。五限で終わりである。さぁ何処に遊びに行こう、と期待に胸を弾ませる子供の心音が聞こえてきそうだ、と快斗は口唇に弧を描いた。
その視線の先には青子。彼女はスポーツ新聞の隣に立っている、誰が持ってきたのやら、カーネーションが生けてある花瓶を手にしている。恵子が声を掛けた。
「青子、ノリエッテ行くでしょー?」
ノリエッテは歩いて十分程の処にあるケーキ屋である。あそこのザッハトルテは旨かった、と快斗は舌に思い描いて悦に入る。
「うん、ちょっと待ってね、水替えてくる。紅子ちゃんは?」
「まだだよー」
花瓶を抱え、ぱたぱたと上履きの音を残して教室から出ていった青子の姿が完全に見えなくなってから、快斗は徐ろに席を立った。見当を付けて後を追う。廊下に設置された水道。
果して青子はそこに居た。水を替え終えた花瓶を脇に置き、石鹸で手を洗っている。また快斗は小さく溜息を吐いた。
それが聞こえてということもないだろうが、快斗に気付いて青子が振り返る。
「あ、快斗」
「よ、ジャンヌ・ダルク」
「…………。そんなんじゃないよ」
「知ってる」
「え? ちょっ……快斗ッ?」
青子の持っていた石鹸を取り上げるようにして、後ろから全身を抱き竦める形で彼女の手を取った。青子の軽い反発と周囲の学生のどよめきを感じながら、快斗はそのやわらかな手を洗い始める。
きめの細かな白い泡が青子の手を包んでゆく。石鹸が幾度も手を撫でる。
快斗の胸に後頭部を押し付けて、天を仰ぐようにして、青子は快斗を見上げた。
「……快斗? どしたの?」
「……いいのに」
「え?」
「汚いと思うのなら、そう言えばいいのに」
小さい頃、青子は虫が大の苦手だった。列を成す蟻を見ても怯えていた。好きな子を苛めたいという有り勝ちな欲求で、それを揶揄って笑ったこともある遠い昔の自分。ゴキブリの模型を投げ付けたら本気で泣かれ、初めて謝るということを憶えた。
それ以来、快斗は青子に虫を見せないよう心掛けてきた。だがいつからだろう、彼女がそれを恐れないようになったのは。水槽で飼った蟻の巣の観察日記を付け、青子は笑った。
(こうして見ると可愛いよね)
だが硝子に押し当てた手が小さく震えていたのを、快斗は今でもはっきりと憶えている。
先程のように。
「……快斗さ」
ややあって、ぽつりと青子は呟くように言った。
「うん?」
「どうして魚、苦手なの?」
「……怖いから」
「怖いものが、欲しかったの?」
怖いものなら、元からあったけれど。そう思い、快斗は苦笑した。この幼馴染みを傷付けてしまうこと。それは昔から本当に恐れていたかもしれない。或る意味あの名探偵よりも、自分のことに関しては聡いこの幼馴染みに気取られぬよう、頑張ってきたつもりではあったが。
「こっわいぜぇ? オメーの鉄拳と同じくれー怖……うげっ!」
青子の肘が快斗の腹に入る。クリーンヒットだった。
その動きで零れ落ちた石鹸が、床を滑る。廊下の端に置いてあったバケツに当たって、カーンと良い音を響かせた。
「お……おまえなぁ!」
「だってさぁ……変でしょ?」
クエスチョンマーク宜しく快斗が首を傾げる。青子が努力してきたものを、理解していなかった訳ではなかったけれど。こういうときに何も気付かない風を装うのが既に快斗の常になってしまっている。
気付いても、自分には何もしてやれないから。気遣えば只の同情になってしまう自分の能力を、快斗はよく理解していた。
「理由もなく何かを嫌うって、変でしょ」
「別に。実際ゴキブリ、汚ェんだし」
「人間の手のが汚いよ」
そりゃあね。と快斗は思う。だけどおまえの手は汚くないよ。そうも思う。他の女の子にだったら当り前のように軽く言えていたかもしれない、だが青子にだけは言うことのなかった本音。
「そんな懐の小さい人間に、青子なりたくないの」
青子が目指して努力してきたもの。それは例えば一見紅子のような存在なのだろうと快斗は思う。自分一人の力で立っているような、快斗に守られることのない存在。そうなりたい、と。
泣き虫の少女にそんな覚悟を付けさせたのはやはり自分なのだろう。快斗は青子の兄でも恋人でもない、「幼馴染み」という対等であるべき関係が、やはり今迄の二人を示すには最適の言葉なのかもしれなかった。快斗が何でもできる人間であったから、なまじ青子にもそれに付いてこられるだけの才能があったから。ここまで青子に強いる結果になってしまった、と快斗は腕に力を込める。
「快斗?」
「……懐が大きくなりたいと思うのも、おまえの懐の小ささだぜ?」
ぴくりと青子が身体を揺らしたのを感じた。
「……知ってるよ」
「何でオレが魚怖いと思う?」
「……わかってるよッ」
快斗の寂しがり屋は! そう叫んで振り向き様、青子は泡だらけの掌を快斗の顔に押し付けた。
「うわっぷ!」
「だけどねぇ!」
肩をいからせて青子は叫ぶ、その姿が泡でぼやけていることを快斗は残念に思う。そしてまた、見られなくてよかったとも思う。
「青子が虫怖い人間でしか在れないように、快斗だってそういう人間でしか在れないんだからね! でも、だから青子は快斗と同じ処まで行きたかった! 行って、一人じゃないんだって、快斗に言ってあげたかった!」
だって、本気で抱き締めたくなってしまうから。
別段寂しいと思うわけではない。苦しいと思うわけでもない。ただ時々無性に羨ましくなる。眩しいと思い、愛おしいと思う。
弱くとも、醜くとも、すべてを持ち得る広さからの脱出と同時の狭さへの邂逅、その狭さを信じられる愚かしさから生まれ出づる矜持。プライドを持てる弱さが、快斗には眩しかった。
「どうしてオレが魚怖いと思う?」
もう一度、繰り返す。
「憶い出せよ、アホ子!」
「憶い出す?」
猫のように首を振る。飛び散る白い泡。快斗は石鹸に涙を流しながら、顔に残ったそれを腕で拭う。何事かと、そこら中の教室から出てきた生徒達を尻目に叫んだ。
「多分そのときからおまえのことが好きだった!」
目を見開いた青子と、同じく瞠目し、一瞬の沈黙の後に囃し始めたお祭り好きの学生達。周りが浮かれる中で、だが青子だけは正確に意味を把握してくれたようだ、と快斗は微笑した。
快斗をじっと見上げて青子が言う。
「快斗。好きな人が、できたんだね?」
石鹸水が頬を伝う姿で、快斗は静かに微笑む。まるで泣いているようだと青子は思った。
快斗の泣き顔を、青子はただの一度も見たことがなかったけれど、だからこそ彼の泣き顔は容易に想像できた。それを思うとき、青子はいつも哀切に胸を押さえる。セーラー服の胸元を握り締めてから、石鹸の泡を憶い出した。構わない。
子供を宥めるように微笑んで、青子は快斗を見上げた。
「今日ね、つみれ鍋だよ。おばさまと一緒に来るでしょ?」
「……ああ」
周囲で囃し立てていた学生達は、やっとという感じの告白と同時の別れ、そして「いつもと変わらぬ」二人の生活についてゆくことができずに、しんと押し黙って成り行きを見守っている。それに気付かぬ二人ではなかったが、また気にする二人でもなかった。
「白滝大根人参白菜」
「白滝却下ッ、葛きり希望!」
「両方入れよう両方!」
そして変わらぬ日常。
「クレームブリュレってホント美味しい……」
うっとりと呟く。そんな青子を見、不審そうな態度を隠しもせずに、どうしてこの女はこうなんだろうね? と恵子は紅子に同意を求めるように視線を遣ったが、彼女は悠々とティーカップを傾けていた。紅子に常識を求める方が間違っていた、とがっくり項垂れたが、もっと常識を求められない女がここに居る、とばかりにキッと恵子はクレームブリュレを頬張る青子を睨む。
「けーこひゃん、どひたろ?」
「口にもの入れて喋らない!」
「食事中に大声を上げない方が宜しいのではなくて?」
「うぐ……」
逆に紅子に注意を促され、恵子は言葉に詰まる。これだけ好き勝手に自分のしたいことしかしてない女達を前に、どうして自分の方が無礼を恥じなければならないのか。
「あーもー……惚れた弱みって奴かしらん」
「けーこひゃん、ひゅきな人できたの?」
「…………。口唇。付いてるよ」
青子の口端に付いていたクリームを、ナプキンで拭ってやる。ありがとー、という脳天気な声と共に笑顔が返ってきた。
「始末に負えない……」
「恵子さんも大概マゾだとつくづく思いますわ」
紅子の台詞に恵子は突っ伏す。
「マゾでも何でも心配するわ! コイツ、信じられる? 大衆の前で男に恥掻かされて、こやって脳天気に笑ってるんだよ?」
「別に本人気にしていないようだし」
果して紅子の言うとおりである。
「別に青子、快斗に恥掻かされてないよー?」
「はいはい」
もう好きにしてください。ヒラヒラと手を振った。青子がにこにこと手を振り返す。
「恥は掻かされてないとしても、泣いたりしたっていいんだよ?」
恵子はずっと、青子が快斗を好きなのだと思っていた。事実を違えてはいないはずだ。だがこれが今日、好きな男に振られた者の態度だろうか? 掴み処のない奴だとは思っていたが、泣き虫の青子を知っているだけに、恵子は不安であった。やせ我慢なのだとしたら、何としてでも吐かせて楽にさせてあげたいと思っていた。だがどうも違う。
案の定、青子は訳がわからぬといった体できょとんと首を傾げる。本当に辛い出来事ではなかったのか、と恵子の方が頭を抱えた。
「あーもー、快斗の大莫迦ヤローもこの阿呆女も、ホント訳わからーんッ」
「何が?」
「……二人の関係に何ら変わるところはないのだし」
意外にも答えたのは紅子であった。
「んー?」
「中森さん。黒羽君のこと好きなんでしょう?」
「うん。紅子ちゃんもだよねー」
そこまできっぱり答えるか、と恵子は机に伏したまま、顔だけを上げてアップルパイを突付いた。そんなに好きなのに、相手に他の好きな人間が居ると知って、どうして冷静でいられるのだろう。
「好きなのに、何で黒羽君に好きな人できて何ともないのよ」
だが返答は、予想を遙かに上回っていた。
「えー? 何でもないことないよぅ、とっても幸せで堪らないよ」
「…………はい?」
紅子は目を閉じ、静かに紅茶を味わっている。
「何が?」
「だって快斗に好きな人ができたんだよ?」
「……それがどうしてアンタの幸せな訳?」
「だってぇ」
青子は心底嬉しそうに微笑んだ。
「快斗、人好きになれないかと思ってたもの、青子のせいで。青子を守るために。そんなのは厭。快斗が青子のこと好きになってくれたらそれは嬉しいけど、それでもこのまま惰性で続いてったら、絶対いつか青子の方から断ち切ってたと思う。だからこれで、青子はずっと快斗のそばに居られるようになったんだよ」
ああ。恵子は首を動かさずに頷く。
快斗が人を好きになれないかもしれないというのは漠然と感じていた。青子のためというより、人間を愛するがために。彼は分け隔てなく人間を愛しているように恵子の目には映っていた。
鳴り物入りで入学した天才児。どんな取り澄ました厭な奴だろうという予想を裏切って、彼は鬱陶しいくらいに人懐こく悪戯好きな、いわゆる愛らしい阿呆な人種であった。だがそれも彼の本質ではないと知ったのはいつだったろう。彼がそのように、彼の愛する人間のように振る舞うのは何故だろう、という興味がかつて恋心だったなどと、今更青子に言えるものでもないけれど。
その時期、彼の視線を追っていて気が付いたこと。彼にとって人間の象徴としての愛すべき少女。何も考えずに、ただ快斗の愛を受け取っているだけの子供に見えていた。親しくなったきっかけは、或いは恵子の嫉妬にもあったのかもしれない。そうして付き合ってみれば、何時の間にやら快斗の気持ちが理解できるほどに青子のことを好きになっている。
今の台詞だと思う。もしかしたら快斗以上に底の知れない、彼女らしくない意外な言葉こそが青子らしさなのだと、そしてそれこそを好きなのだと、恵子は思う。
「例えばね、今日鍋なの」
どうやらまだ話は続くらしい。疑問を差し挟むことは止めて、ただ話を促すために恵子は相槌を打った。
「うん?」
「ウチはお母さん居ないし、快斗のトコはお父さん居ないし、よく行き来して御飯一緒に食べてたのね。だから快斗の家で作るお鍋と青子のウチで作るお鍋は、同じ味なの」
青子の方は知っていたが、恵子は快斗の家庭事情までは知らなかった。幼馴染みにしても男女でここまで仲が良いというのも珍しいのではないだろうか、と常々思っていたのだが、理由がわかったような気がする。
「快斗の好きな人。ちょっと哀しくないって言ったら嘘だよ、でもね」
一呼吸置く。青子は一瞬考えを纏めるように俯き、また顔を上げた。
「だから、例えば青子と快斗が憎み合って二度と会わないことになったとしても、私達の作るお鍋は同じ味なの。ほこほこ、暖かいお鍋を囲んでる相手はお互いじゃなかったとしても、そういうことなんだと思う」
だから、と青子は笑った。涙が零れる。
「恵子ちゃん、心配してくれて有難うね、青子は大丈夫だから」
「……ッ、莫迦ー!」
「け、恵子ちゃん?」
恵子に抱き締められて青子は目を白黒させている。その様を横目で見ながら、今迄黙っていた紅子がぽつりと洩らした。
「ところで中森さん。黒羽君が言ってた魚の意味、わかったのかしら?」
未だ青子を窒息させる勢いで抱き締めながら、はて、快斗はそんなことも言ってたっけ、と恵子は天井に目を遣る。ぷはっと吐息と共に恵子の腕から抜け出た青子は、だがうーんと唸るばかり。
「それがねぇ、わかんないの。憶い出せ、ってそれじゃまるで、快斗の魚嫌いの理由が青子にあるみたいでしょー?」
「アンタ昔、快斗君を池に突き落とすとかしたことあったりして」
「えーッ、そのくらいじゃ快斗が嫌いになることないと思うー」
もはや涙も乾いてからからと恵子と笑い合う、青子の顔を紅子は流し見た。
「…………」
前に水晶に覗いたことがある。鯉の跳ねる池に二人で姿を映し、魚になって彼等の生態を間近で見たい、と呟いた快斗。じゃあ一緒にお魚になろう、とにこやかに飛び込むときに快斗の手も引っ張り、共に池に落ちた青子。自分から飛び込んでおいて、餌と勘違いしたのか周りに群がりびちびちと二人を突付きたした鯉に、盛大に泣き出したのは青子の方であった。
忘れなさい、と。水から引き上げても尚泣きじゃくる青子に優しく暗示を掛けるように囁いた快斗は、恐怖が過ぎたのか、そのとき拾った風邪が治った頃にはすべてを忘れてしまった青子の、記憶を引き継いだ。いつか青子がその恐怖をも愛しいと思えるようになるまで、バックアップとして自らの身体を利用したのだ。
「そういえば、あの子供にも海を泳ぐ羽目にさせられたのだったわね……」
「え、なぁに?」
紅子の呟きを聞き咎めた青子が顔を覗き込んでくる。彼女の封印された記憶は今尚、形を変え快斗の中に存在する。
「……私もあの子みたいに黒羽君を水に突き落としてやろうかしら、って言ったの」
「子供ォ? に突き落とされたことあるの? アイツ」
恵子が呆れたように言うのに対し、青子は瞠目の後、得心したように頷いた。手を叩く。
「やっぱり快斗の好きなのって哀ちゃんなんだ?」