日本の夏はじっとりと湿っぽくて、実際の温度よりも暑くて堪らない。
そう言ったおぼっちゃまが居たことを憶い出しながら平次は、じりじりと痛いほどの日差しを投げ掛けてくる空を、避けるかのように腕を翳して見上げた。
「平次ー、何しとんの?」
幼馴染みの少女が手を振りながら駆け寄ってくる。セーラー服の、上着とスカートの境目から覗く白い肌が眩しく、平次は目を眇めた。
「暑いなァ、思て」
「…………」
「何や」
「あんたがそんなこと言うん、珍して思ただけや」
「珍しィ?」
「暑さなんかいっつも吹き飛ばしとるやんか、気力で」
「ああ……疲れとるんかな、オレ」
「夏バテ? それっこそ珍しなァ」
「……風邪はひかんで」
「先回りしよったな。ほな鬼の霍乱」
「なまはげ祭りな、見に行きとうなった……」
「何やの、突然……」
「夏と言やお祭り!」
「ちょいちゃうんやないのォ?」
「浴衣新しの買うたか?」
「これから。一応希望訊いとくわ、どんなんが好み?」
「藍染め。カザグルマ」
言って少年は、きびすを返して少女に背を向けた。
「何処行くん?」
「お姫さんトコ」
少女は、ああ……とだけ頷くと、少年とは反対方向に歩き出す。ちらりと肩越しに視線を遣った平次は、少女の背中が丸まっているのにちいさく苦笑して、堪忍な……と心の中で謝ったが、それが口に出されることはいつもの如くなかった。
おまえ、人を殺しちまったこと、あるか?
ライバルと口にするにも気合いが必要になるほど深く尊敬を抱いている、そのときはまだ純粋にライバル視をしていた彼がぽつりと言った言葉は、当時も今も、平次の胸に突き刺さり、その存在を誇示し続けている。
あのとき、ある、と言えなかったのは何故であろう。未だに平次にはあのときの自分の感情をはっきりと説明することができない。或いは殺したなどと思っていないのかもしれない、自分は。そう思い、自嘲気味に口唇を歪めた。何故なら彼女は、未だに自分のそばに居る。
人に話せば頭がおかしいと言われてもしょうがない言葉を、阿呆やなぁと呆れた態を見せながらも信じてくれたのは、和葉だけであった。話しても無駄なことなのだと、諦観を以て口を噤むようになったのはいつだったろう。当時、誰彼構わず話したかったのは、ただひとえに彼女の存在を皆に認めてもらえれば、彼女は確かに生きていることになると信じた幼い心故であった。
十五の夏。平次は確かに子供だった。
一軒の門戸をくぐった平次の目に、荒れ果てた庭が飛び込んでくる。物哀しい気分にさせられて視線を逸らそうにも、見渡す限り一面の夏草、夏花。酷い庭であった。誰の手も入っていないことは明らかな庭であった。なのに何処から養分を取っているものか、草木は絡み合い、日光を奪い合いながらも、その迸る生命力は、人間の考える生態系なぞ嘲笑うかのように、葉を青々と広げ、茎を、幹を、野太く伸ばし、花の色香を存分に振り撒いて、青い命を謳歌していた。
夾竹桃、烏瓜、芙蓉。槿、夏椿、凌霄花、雪下。藪枯、未央柳、糊空木、百日紅、京鹿子、冬忍。
名前の知れる花を指折り数えてみる。それでもその庭に存在する花の半分にも満たず、咲き乱れ匂い立つ花の、そしてそれ以上に、葉だけでは何やら正体の知れない、噎せ返るような草木から発する緑の匂いが、平次に否が応でも夏を思い起こさせた。
一歩、足を踏み出す。木陰に浄化された清涼な空気が身体を包み込み、殊更ゆっくりと歩を進める。草に埋もれた石畳を辿ってゆくとやがて見えた屋敷の縁側、平次は腰を下ろし、うっそりと瞼を閉じた。風が顔を撫ぜる。そういえば夏の花々は何処か、その季節に反して冷ややかさを感じさせる佇まいを持っていると思い、その顔々を思い浮かべてみるが、何処が他の季節のものと違うのか、平次には結局知れなかった。
そうして居れば、やがて彼女がやってくる。自分に覆い被さったのを感じ、平次は口唇に曲線を刷きながら、夏の日光をよく吸い込んだ肌の上に、その翠を映す瞳を開けた。
「よーう、おひぃさん……」
彼女はうっすらと微笑むだけで、今日も言葉はない。黙ってその口唇を彼の口唇に合わせ、ひいやりとした舌を絡ませてくる。手は胸板に沿って下へと進み、高ぶりを捕らえた細い指は、熱を帯び始めたそこを、やがてゆうるり撫で始めた。幽霊相手にでも欲情するか。自分で呆れるが、波を止めようともせず、そのまま華奢な身体を抱き締めれば、その冷たい身体は確かに実体を持って平次の腕に収まり、何のかおりか、花よりもあでやかに匂い立ち、少年の心を掻き乱す。絡み付くしなやかな身体は、恰かも彼女の纏った着物の柄の、鉄仙が木々に絡み付きその命を吸い取るかのように、平次の精を奪い取ろうと、そこかしこに快楽の種を植え付けてゆき、抗う術も知らぬげに、少年は自ら取り込まれていくのであった。
二年前と何も変わらぬ彼女。否、その体温くらいか。当時二十七と聞いていた彼女は、だがその年齢を感じさせぬ、簡単に手折れそうな少女の如き細い手足や腰を呉服の下に隠して、平次の前に現れた。
(服部平次なる御方は居らはりまっしゃん……?)
ずれた言葉遣いに、何者や、というのが第一印象であった。後に知ったことだが、元を辿れば京に住む華族の末裔、世が世ならばお姫さんであったらしい。
父親に着いていった先で既に幾つかの事件を解決していたとは言え、年齢のためもあって報道機関に載るようなこともなかった平次を探偵として頼ってきた理由が、風の噂に聞いて、というのもふざけた話であった。しかも依頼内容は人探し。にべもなく断ろうと思った平次が、だが結局付き合う気になったのは、何処ぞの小説ではないが、夏の太陽が狂わせたとしか思えぬ気紛れであった。
先日、夫を亡くしたばかりのうら若き未亡人。恐らくは政略結婚であったろう相手からようやっと自由になったと思った世間知らずが、初恋の人と再会さえすれば何とかなると考えたに違いない。平次はそう思った。
結局、その初恋の相手の見付かるのを待たずに、彼女はこの庭で首を括った。夏の終わりのことであった。平次が見付けたとき、彼女の美しかった顔は目を剥き熱に爛れ、手足はだらりとだらしなく肉を垂らし、辺り一面を異臭に染めていた。何が原因であったのか、彼女が本当のところ何を求めていたのか、平次は聞かなかったし、調べようともしなかった。ただ、死の直前の、彼女との逢瀬を事あるごとに憶い出すのみである。
(なァ平次はん)
(一夏の恋はあるのに一冬の恋がおへんのは何故でっしゃろ)
(夏の何が人を狂わせるんでっしゃろ)
(この冷たさが人を狂わせるからに違いおまへん……)
もはや正気を失っていたのかもしれない彼女と、その日幾度となくまぐわった若い身体からは、とめどもなくしとど汗が流れ、藺草の匂いも青々とした畳の色を変えた。彼女の身体は熱く、熱く、ただ彼女の下にたぐまる絽織りの薄藍い薄物と、その上に流れて川を思わせる羅の夏帯だけが、涼を醸してその白く染め抜かれた鉄仙に冷気を絡ませていた。つめたい、と感じながら、少年は彼女の花式図にむしゃぶりついたものだった。溢れ出る熱い蜜に安心して、少年は夏をむさぼり、彼女の死と共に夏を終えた。
恐らくはあのとき、彼女の誘いに自分が受諾さえしなければ、彼女は首を吊ったりなどしなかった、との後悔にも似た想念が、絶望にも似た罪悪感が、平次にはあった。自分が殺したも同然だと思った。彼女がずっと呼び続けていた名前、初恋の人にたかだか十五の男を重ねて、彼女の受粉は終わり、世界に満足して彼女はその生を全うしたのだと、思うことがせめてもの救いであったが、それもすぐに間違っていたのだと、思い知らされたのは彼女の死後、この庭を訪れたときであった。彼女は変わらず、何かを求めているあのまなざしで平次にすがってきた。
生きている、生きている、生きている! そう言えば、本当に彼女が生き返るような気がした。生き返れば彼女から逃れられると思い、生き返れば彼女のものになれると思った。大人達は、平次をショック状態から抜け出せない子供だと判断し、現場から遠ざけた。
(何でや、オレはもっと真相を暴いて、二度と彼女みたいに死ぬ人の出ぇへんように――!)
(……おまえ、しっかと死んだて認めてんねや?)
「へーじ! こっち、こっち」
「応」
祭囃子が聞こえる。
昔、祭りは祀りであったのだと知識としては知っていたが、和葉に誘われてやってきたこの場所に神聖は感じられず、それでも晴の場としての機能は果たしているのだろうか、と浴衣姿の少女を見て思う。
ハレの儀式はケ枯レを褻の状態に戻すものだという。自分が矢鱈目鱈と彼女のことを吹聴して回ったのは、やはり動揺していた自分にとっての穢れ払いの儀式であったのかと、今となっては平次にも思える。現代では呑み会での悪口までもハレの装置の役割を果たしているくらいであるから、言霊に乗せて裡なる昏いもの、ドロドロとして混沌とむこうの見えないもの、を吐き出してしまう行為は、多少なりともその機能を果しているのかもしれない。少なくとも言語という形に縛られることで、己でも収集つかぬ主体を客体に置き換え、冷静に返ることは可能なのではあるまいか。
しかし、ならば。その吐き出された闇い言霊は、何処に溜まるのだろうと、平次は思う。寄り集まり、溜まりきった自分の言霊が彼女を此世に喚び戻しはしないかと考えたのだろう、だからこそ自分は、
「平次! 何考えとるん? 何か変やで」
少女の、髪に結わえられた紅いリボンが、平次の視界で揺れてはじけた。
「…………。馬子にも衣装て思ててん」
「何やとー!」
「嘘、嘘。似合うとるで、それ。ええやん」
分断させられた思考を持っていかれて、だが怒る気にもなれず、平次は苦笑して少女の紅く染まった頬を、うなじを眺めた。
「ようわかったな」
「何が?」
「風車。後で気付いてな、あ、勘違いされとるかなて思たねんけど」
「あァ……。ま、付き合い長いしなァ」
藍地の浴衣だろうとばかり思っていたが、生成り地に藍でクレマチスを染め上げたもので、その上に巻かれた帯は浴衣帯ではなく、朱の名古屋帯のようであった。えらく涼を誘う出で立ちである。
風車とは、これであった。ぱっと聞きには子供の玩具を想像するだろう言葉は、同科同属のテッセンの別名ともされるが、中国原産の鉄仙蓮に比べ日本をその原産地とする、クレマチスの一原種である植物の名前である。現在園芸用として売られているクレマチスの大半が、このカザグルマを元に品種改良が進められたのだという。尤も日本では、江戸時代に渡来し、色や花弁の繊細さから茶花としてよく用いられた、鉄仙のほうの名で広く人々に親しまれている。
普段ならば玩具のほうを憶い出すだろう風車という単語を、すんなりと使ってしかも注釈を加える必要性さえ感じなかったほど、それが至当という意識が平次にあのときあったのは、既に彼女の鉄仙に綾取られた絽が、彼の頭を占めていたためであろう。それでも鉄仙より大分華やかな風車を挙げたのは、セーラー服の少女を慮った結果であろうか。
冷たいのかと、思わず衣紋に手を伸ばした平次に、和葉はヒャッと声を上げた。
「何すんねん、冷っこいやんか!」
「……は? 冷たい?」
「手。冷え性やったかいな」
どうやら冷たいのは自分の手のほうだったらしい。丸くした目でまじまじと見やった手は、焼けていないてのひらのほうにしっとりと汗を掻いていて、平次の緊張を示していた。だが何に冷や汗を掻くほどのことがあったと考えても、平次にもわからず、首を傾げるしかない。
「? どないしたん?」
「いや、なんか」
「へーじ」
まっすぐに平次の目を覗き込んできた少女に、一瞬ひどく冷たいものを感じて、ゾクリとした。
「へーじ?」
ざわざわと背中を駆け上り、思う存分身体を若い舐め回していったそれが、何処かに曖昧な痛みを残す快感であると気付いたのは、一瞬ののちであった。しかし少女に欲情したわけではない。その浴衣の、鉄仙の蔓に絡められて、熱の上がる躯とはうらはらに、平次の頭のしんは冷たく冷えていった。
「平次」
「すまん……何でもあれへんよ」
「手」
「え?」
「冷たいねんか」
気付けば平次の手は、それこそ平次の意思とは別の思考で動いているかのように、絡み付くことを本能とした蔓性の植物の如く、少女のほそい首にぐるりと指を回していた。
「や……っ、あー……あったかいなーて、思て……」
「平次が冷たいんよ」
「せ……やな――」
「あたしを殺すん?」
「ちゃ」
違う、と言い切りたかった。だが言おうにも咽喉の奥まで鉄仙の蔓は絡みつき、よい宿り主を見付けたとばかりに繁々と葉で、花で体内の通じ道を塞ぎ、今にも受粉してその子供を平次の花蕊に産み落とさんばかりの勢いであった。或いは本当に、この自分の鉄仙の腕は和葉を縊ろうとしてたのかもしれぬと、自信も持てなくなるほどに。
「なァ。何で風車がこれやて、すぐわかったて思うてんねや。あんたが姫さんのこと、考えとったのわかったからや。前に鉄仙の夏着物、あたしに話してくれとったからや。そないあのおひいさんとこ行きたいんか? 死んどる人間のがそないにええの? それとも死んどる人間だからええのん?」
だとしたら見損なうわ、と、鉄仙を身に纏った少女は、だがその身に蔓など微塵も絡ませずに、ただ睫に涙を絡ませながら、屹ツと睨め付けるように平次を見た。
「許さへんで。他の何は、たとえ厭でも許しはする。幽霊好きになろうと、それ忘れるために何人女抱こうと、そんなんかまへん。せやけど平次が死ぬんは、死ぬことだけは、絶対に許さん。許さへんで。平次、言うてたやんか。探偵は人の死に群がって糧を得る死人喰いみたいなもんや、どうせやったら古式に則って、そン人の裡なる歴史まで、事件とは関係のう存在するやろう知識や能力や歴史まで、喰ろうてオレん中に生き続けさせたろ、て。平次が死んだら、平次が解決してきた事件の、被害者や加害者の、歴史まで全部失われることになるねんか。あんた、それでええのん? 自分が真実を暴いてきた人達を、今度は平次が殺すのんか。自分の命と一緒に、あんたが後生大事に抱えてきた仰山の人達のおもいまで、殺してしまうつもりなん? あんたの中に生きる、あんたが喰ろうた人達の命、あんたと共に死ぬんやで。あたしのことなんかどれだけ殺してもかまへん。そんであたしをあんたの中で生き続けさせるちぅなら全然かまへん。せやけどあんたがそういう人達を、あんたの中の探偵を、殺してしまうんだけは許さへん、絶対に許さへんねん……!」
――おまえ、人を殺したこと、あるか……?
小泉八雲が、江戸時代の怪談集から『茶店の水椀若年の面を現す』という一話に着目し、『茶わんのなか』という小咄を残しているが、この中で明らかに原作と差異の認められる部分がある。
要約すれば以下のような話である。
休み処で茶碗の中の水面に一人の男の姿を垣間見、それを呑み乾した佐渡守の供の者が、その夜、宿にてその茶碗の中に現れた男と出逢う。あやかしと思い切り捨てるが、その後、その家来とおぼしきあやかし達が「望まれて出たものを、いたわるこそすれ切り捨てるとは何事だ」と言い残し、そのまま再び現れることはなかった。
原作のあやかしが男の望みに応じ姿を現したとされているのに比べ、八雲の著した小説は、あやかしが男の前に現れたのは単なる偶然となっている。詰まる所、八雲の話では「思ひよりてまゐりしものを、いたはるまでこそなくとも」の部分に一切触れられていないのである。
八雲はこの原作を、何らかの事故のため中途で終わっている未完の半端な話として扱っているが、平次にはこれで完結している物語に思えてならなかった。『茶わんのなか』で描かれなかった、あやかしが人に望まれて現れるというくだり。八雲が吸い取ることのできなかったこのくだりが、物語としての終結を平次に見せているのであろうことは確かに思われた。
日本人としての土壌を持たぬ、そして自身がマレビトであった小泉八雲――ラフカディオ・パトリック・ハーンには理解のできなかった……否、共同体の一員として加わることのできなかったが故に知ることもなかった
「……で、めーたんてーに会いたくなったってわけ?」
毛利探偵事務所の、うらぶれたソファに悠々と足を組んで座る男は、周囲の風景から浮き出てその高邁さを際立たせていた。それこそ平次に、水面に現れた眉目秀麗なあやかしは彼の如き容貌だったのではないかと思わせるには充分なほどの、その異相。平次が目的として会いに来た小学生の、元の姿にも似た美貌の持ち主は、のほほんとそんな台詞を吐いた。
遊びにきたのだか何なのか知らないが、この客人は持ち主の居ない家で、家の主よりも尊大な態度で何処でも居られる。
「アイツは子供時代、外国で過ごした時間の長さもあるかもしれんが、なァ……」
「気持ちはよっくわかる。異邦人だもんな、コナン君ってバ」
そう言うおまえさんもな。言い掛け、だがそれが真実でないことにすぐに気が付き、平次は口を噤んだ。
「何だよ」
「別にィ。そろそろ帰ろ思て」
「もーちょっとしたらボウズも帰ってくるんじゃねぇの?」
「黒羽でも目的は果たしたようなもんやからな。まぁおまえは稀人ちゅうより巫女やねんけど」
「はっはー。非人って呼んでくださっても結構よン」
「……おまえ、東都生まれの東都育ちやったっけ」
「あ? ……あー、ハイ。はい。都会っ子だから、すまねーがそっちの差別も同情もさっぱりわかんねぇ」
「今わかったやんな」
「服部までそんな顔するんだって程度には」
乞われて想われて姿を現した水面のあやかし。
自分はとっくに彼女の死を追い払う追儺式を完了したものだとばかり思っていたが、彼女が死後、あの庭に現れたのは彼女が此世に未練を残していたためではなく、自分が彼女の死を練れていなかったためだと、和葉に言われて初めて自覚した。平次の喰らってきた沢山の死。だが彼女を食めずにいたのは、死者黄泉還りの儀式であるはずのモガリの完成が、自分の中で彼女の真の死をもたらすものだと、幼心にも薄々気付いていたからに違いあるまい。
水面に浮かんだ秀麗な若者のあやかしが、男の前に二度と現れなかったのも道理である。モガリは彼が若者の映った水椀を呑み乾した時点で完了していたのだ。黄泉還ったアヤカシは二度と男の前に現れず、男の裡で生き続ける。ラフカディオの受け取れなかった物語は、それである。
古来より、常民――集村に暮らす共同体の内部に存在する人々は、ケ枯れた際に異界より訪れ人を取り込み、彼等を祭司としてハレの儀式を行うことによって、ケなる日常を取り戻していたという。共同体の外に遊ぶマレビトは聖にも穢れにも、また鬼にも神にも等しく、俗からもヒトからも隔絶された存在とされた。それは例えば非人であったり遊女であったりしたが、時代と共に彼等の聖性は人々の意識から剥奪され、ただ純粋な穢多として迫害されることとなる。
謂わば余所者の集まりである東都で生まれ育った快斗には想像することしかできぬが、関西の方には今だ根強くケガレに対する差別が残っているという。
むしろケガレに対する聖なる崇拝を意識化に強く抱いているのは、都市部に生まれ、歪められ堕とされたイコンをも知らぬ、若い世代ではないかと快斗は思う。コックリさんを始め、都市に蔓延する伝説の多くは、境界に生きるアヤカシを扱ったものである。コックリさんコックリさん私に教えて頂けますか。無邪気に十円玉を翳す少女達は、自分達にはない知識と職才を持ったマレビトを歓迎し、儀礼の手助けをする、言うなれば巫女なのではないかとも思えてくる。
そして、思う。かの名探偵が生れ落ちた地が、この常民を持たぬ都市であったことを。
ここだったからこそ、彼がバケモノと蔑まれずにに済んできたのだろう、その僥倖を。
ここだったからこそ、彼が救世主と崇められることになってしまった、その悲劇を。
そうして自分と同じように思ったからこそ、今ここに来たのだろう青年のことを。
「やっぱオレ、服部のこと大分好きだわ」
「……突然なに言い出すねんな。サブイボ立ったやんか」
「でもおまえもオレのこと、意外と好きだろ?」
何となくここであっさりと肯定してしまうのも悔しい思いがし、平次は呆れたように視線を投げるに留めたが、快斗はいっかな気にする様子も見せず、ニコニコと底どころか縁もを見せぬ笑みを浮かべている。
「ほなな」
「あ、ホントに帰るのか」
「おひいさん、ちょいと生き返らせに行ったるわ」
「殺すのか……」
「……バケモンやからな」
「オメーも難儀な奴だよな」
「高々好いた女の真相も暴けン程度じゃア、逆立ちしてもアイツには敵わんから」
「勝ちたいのか?」
「おまえは勝ちとうないんか?」
「……負けてはらんねーけど、勝っちまったら、あの人を非難できなくなるから」
傲慢な男だと、平次はその柔らかな癖毛に覆われた美貌を見詰めた。
彼は敢えて小さな名探偵をバケモノと罵るためにここに居る。それはひどく優しさに満ちた感情で、その瞳の穏やかさにいつも平次は居た堪れないような、泣き出したいような、切なさに胸をなぶられる思いがした。胸の裡を舐めるその痛みにささやかな抵抗を示す意で口を開く。
「ひとつ、教えといたるわ」
「何だ?」
「おひいさんが呼んでた初恋の人の名前な、……おひいさんの旦那さんやってん」
「……へぇ?」
期待していた反応もあるにはあったが、平次の予想に反して、快斗はひどく楽しげに――少なくとも平次には心から愉しそうに見える笑みを浮かべて、こうも言ったのだった。
「別にオレは、ボウズが気付けさえするんだったら、蘭ちゃんでも全然かまわねーんだぜ? 蘭ちゃんのこと今のままでも好きだけどさ、そうしたらオレが蘭ちゃんのこと変えるだけの話だから」
そのとき、平次が快斗に見たもの。
彼に蔦のように絡み付く、無数の二重螺旋。
波の如く寄せては引き、絡みついては離れ去ろうとする、その端をしっかと握り締めて離すまいとする快斗の笑みの中に、新一と同じような言い知れぬ美しさ、禍々しいまでに美しい闇を平次は垣間見た気がした。
開き盲。
ひとは誰でも何処かにそんな場所を残している。
恐らく自己防衛の一種なのだろうが、受け入れることのできない現実に対する個体差は、ヒトの個性と呼ばれてもおかしくはないものであろう。
確かに目の前に在るのに認められぬ。
確かに目の前に在らぬのに認められる。
ないと思えば事実見えないものであるし、あると思えばないものも見えるのが人間の脳である。現在の技術を以てして再現できぬバーチャル・リアリティ――脳内刺激は臭覚だけであると、平次は聞いたことがあった。
狂っていると言わば言え。何と言われようとも、狂わぬために狂わなければならぬほどヒトは弱く、狂わぬために狂うことができるほどヒトは強い。要は真実を己が脳内で捻じ曲げてでも失えぬものがある、ということである。その感情をプライドと呼ぼうと愛情と呼ぼうと、平次には興味がなかった。平次にとって重要であったのは、自分が探偵を放棄する形でそれを行ってしまった、という一点に尽きる。
人が殺人を犯す瞬間、というものを、平次は異界に踏み込んでしまうこととして考えてもいる。俗に言う「憑かれた」状態であるが、何の事はない、詰まる所それを行うための好条件が本当に多数の偶然の集まりで重なっただけなのだと思っている。殺人を犯したとしても見付からなさそうな状況、身近に手頃な凶器、それを振り回せるだけの激情。どれか一つだけでも欠けたら成り立たぬ、その犯罪の瞬間だけを断面に切ってみれば、計画殺人にも衝動殺人にも差異はない。その憑かれて氣枯れた状態をケに戻すハレの儀礼が殺人という行為そのものであるとも考えている。
平次が彼女の姿をその瞳に映し取ったように、人が憑かれ開き盲となる瞬間は、誰にでもあることなのだろうと思うからこそ、平次には新一のように殺人者の気持ちなど決してわからぬと断じることはできなかった。常に異界に居るかのような視点、探偵の眸を持った新一には、憑かれて覗く異界の甘美な風景に憧れる気持ちなど、わかりはしないのかもしれない。
そんな彼を憐れだとも思い、だが探偵で在るためには自分もそうでなくてはならないのかとも思う。
さくりと踏み入れた異界は夏のいろを色濃く残しており、今日もひんやりと冷たい空気をそこここの木々が綯い、乱れ石に足を伸ばせば、平次の少年らしい伸びやかな足にも冷気を絡ませてきた。
夏が冷たいと言った彼女の意がようようわかる。
逃げ水のように、夏の熱気が異界を見せるからだ。蜃気楼のように、夏の熱気がそこにない風景を見せるからだ。大気が熱に歪んで常世を見せ、それは人に背筋をじわりと這い上がる快感をもたらし、冷たく冷たく、脳味噌を撫でてゆく。
目映いひかりで視界が狭められ、恐怖が無性に煽られ、緊迫感で跳ね上がる鼓動は思いがけず恐慌的な激情を、表舞台に引き摺り出す。
劣情を肝から引き摺り出される昏い悦びに、身悶えて覗く異界の搦め手はひどく冷たく甘美だ。ここは異界との境界。花に囲まれ、花に埋もれ、花の朽ちるのと同時にその冷ややかなる扉を閉じる。
今は開かれた扉。出てきた彼女は、その細い四肢を蔓に拘束されている。
彼女を縛めているのが自分なのだ、と思うと、肺がギリ……と悲鳴を上げ、圧し潰された空気に締め出されてくちから喘ぎにも似た吐息を漏らし、平次は彼女を締め上げた。細い身体はやわやわと腕の中で折れ、崩れ、ぐずり、ぐずり。
「…――」
何事か平次は呟いたようであった。縊りながら抱き締めながら、ただ清流にも似た涙を流し、それでも力を緩めずに。
新一のように探偵で在るのではない、探偵で存たいから探偵で存る、平次はそういう人間であった。それが平次の選んだ道であった。
死者の声を聞き、死者を生かし、死者を死者とした生者を見る。それが平次の道である。
恐らく平次は探偵の業から逃れられぬわけではない。才能はある、確かに探偵としての才はある、だがそれは、探偵でないと生きられないといった類のものではない。それでも。
だがそれでも、その才に奉仕したいと思った時点で、平次は探偵であった。己が殺人者の気持ちを理解できる人間なればこそ、平次は探偵であった。
異界に焦がれている。
踏み止まるためにも、踏み止めさせるためにも、その泪で満たした杯を、平次は呑み干さねばならなかった。絡みつく鉄仙が、探偵でしか在れないイキモノのほそい腕を思い起こさせ、平時は腕に力を込め、華を乗せた蔓は見る間に勢いをなくし、夏はじっとりと本来の湿っぽい暑さを取り戻し、そして。
そうして祭は終わり、花は枯れ、平次は秋の訪れを待っている。あのおぼっちゃんにも過ごしやすい季節になっているだろうかと、笑う。
「平次!」
あちらからやってくる、セーラー服の日常に微笑んだ。足許には水溜り。姿が映る。
駆け寄る少女の靴で水面が弾けた。