小さな名探偵君が、俗に言う記憶喪失とやらになったと聞いた。仕事ついでに様子を窺ったら、工藤新一であるという制約を脱ぎ捨てた彼は江戸川コナンとして何の惑いもなく自ら推理を働かせており、周囲の大人達の関心を集めていた。尊敬の篭った驚愕と畏怖の視線。恐らく工藤新一が幼い頃に通過してきたのであろう儀礼を、彼はまた体験している。俯く彼の姿を痛ましいと思った、が、そのままだったらオレはそこからさっさと立ち去っていただろう。そう、彼と視線の交差する偶然さえなければ。
ふ……っと。
何かに気付いたように彼が顔を上げた。そのまま流れるように髪を揺らして、視線を動かした。目に焼き付く。もっと見ていたい、と思った瞬間には、彼と目が合っていた。
何処にでも居る警官の姿だったはずだ。取り立てて特徴もなかったはずだ。そんな男に、彼は何を見出したのだろう。既に事件に感けていて、一寸頭の働くこどもになど関心を失ったおとなの足許を誰にも気取られず潜り抜けて、江戸川コナンという探偵はオレの前にやって来、身長差ももどかしげに咽喉を反らしてオレを見上げた。
「……だれ?」
……まさか彼から誰何の声を聞くときが来ようとは! 焼きが回った瞬間とはこういうときを指すのかもしれない。遣り切れない思いのままに、彼に尋ねた。
「オレと来るか?」
伸ばした手に、黙って指を絡めた彼の小さな手が、震えていたのには気付かない振りをする。見知らぬ人間にその身を預けるほど、彼はこの世界で誰のことも知らぬのだ。胸が痛んだ。だが同時に歓喜で叫び出したいほどだった。
何も知らぬこども。それが故に彼は今、恐らく工藤新一をも凌駕する能力を手に入れている。
探偵という生き物の孤独が痛くて、オレは繋ぐ手に力を篭めた。
オレの立っている場所まで来ることができるかもしれない敵の存在に、オレはこどもと一緒に月を見上げて口唇を歪んだ形に引き上げた。
実家に連れ帰るわけにもいかず、結局以前彼を泊めたことのあるマンションに身を寄せた。針金を用いて鍵を開ける、明ら様に怪しい男にボウズが眉を顰めたのを目の端で捕らえたが、わざわざ鍵を作る面倒などオレの性格に求められても困る。困る、が、もし暫くでもボウズをここに置いておくのだとしたら、合鍵も作らざるを得まい。
ああマジ面倒臭いモン抱え込んじまった。天を仰ぐ。突発的な行動でいつも自分の首を絞めているが、懲りない性格もまた直す気はない。締められて落ちる首があるのならばいっそ見たいと切望する。何も考えずともその場の思い付きだけで、それでもいつも場を潜り抜けられてしまうほど、周囲は微温湯のように操るのが容易かった。恐らくこのボウズも同様に。
オレはコイツほど向こう見ずでも無鉄砲でもないけどな。そんなことを考えながら淹れた珈琲にミルクをたっぷりと注いで、やわらかなソファに埋まるようにして座っている子供にマグを手渡す。普通のマグカップでもカフェ・オ・レ・ボウルのようだ、とつい吹き出してしまった。確か前にも見たことのある風景のはずなのに、これではまるでオレが×××しまっているかのようではないか。
向かいのソファに腰掛ける。名探偵が探るような視線で睨んでくる。んべ、と舌を出してやったら拳が飛んできた。
「おにーさん、零れちゃいますよ」
笑って避けた、オレを悔しそうに睨め付けて、コナンはようやっと口を開いた。
「おまえ、誰だ」
「そんな訳わかんねー人物に付いてきたのかなー、コナンちゃんは」
「ああ、やっぱり知り合いか」
他の大人の前でもこんな小憎らしいお子様なんだろーかコイツは、と小突きたくなるほど相変わらず他人の話なんざ聞いちゃねぇ様子の可愛らしいクソガキは、やっぱり名探偵だった。
「他にも明らかに知り合いってのがいっぱい居ただろが」
「……それは江戸川コナンの知り合いを指しているのか。それとも」
「聞いたのか」
「灰原って……同級生に」
それとも工藤新一の知り合いか。皆まで言わせなかった言葉の重みもわからぬままに、子供は真っ暗闇の世界を手探りで進んでいる。
「オレは……そうだな。工藤新一にも江戸川コナンにも関わりのねぇはずの人間だ」
「……?」
「知り合いっつー方がおかしいほど」
言いながら、変装用に被っていたマスクと鬘を取った。大きな目を益々大きくさせて驚いているらしい彼の、額をピンと指で弾く。
「って!」
「オレにとっておまえは、江戸川コナンでもなく工藤新一でもなく、名探偵、という生き物だ――」
言っていて、自分で気付いた。オレはコイツの日常と呼ばれる生活の何処にも属していない。オレにとってコイツが黒羽快斗の生活の何処にも居ないように。オレにとってコイツは探偵で、コイツにとってオレは泥棒。非日常がオレ達を繋ぐ細い鎖だったからこそ、そうだ、そもそも何でコイツは今、オレを選ばなければならなかったんだ?
「……記憶のあるおまえが、弱ってるときに赤の他人に凭れたがるっつーんならまだわからないでもないんだが」
「あ?」
記憶をなくした彼が、江戸川コナンだと、だが実は工藤新一だと言われて混乱していた彼が、そのどちらをもよく知らない他人に、自分を求められない安らぎを欲したというのならばまだわかる、だが、
「あのときおまえは、オレが自分の知り合いだと知らなかったのと同様、オレがおまえと親しくなかったのも知らなかったはずだ。そうだ」
「オイ、何言ってんだかわかんねーぞ」
「おまえ」
首を傾げたコナンの顎を掴んで、多少強引にこちらを向かせた。
「何であのとき、他の誰でもなく、オレの方を見たんだ?」
知りたかった、人間の本質が何処にあるのか。
それは、どんな形をしているのか――。
マスクを取った顔をまじまじと見詰め、彼は囁くように言った。
「ああ、顔まで似てるんだ……」
「え?」
「オレと、同じ匂いがしたから――」
探偵の形をした頬を、髪を、そっと撫でたら、それは酷くやわらかかった。
結局その日からもう三日。彼とここで暮らしている。
特に何をするでもなかった。日も昇ってから人の腹を踏ん付けて起き出したアイツが、オレの呻き声をBGMに顔を洗う。上下に並んで歯を磨く。適当に冷蔵庫を漁って抓みながら読書でもしていれば、差し込む紅い日差しに夕暮れを知る。食べに行く? と目で訊けば、おまえ作れと命令が返ってきた。材料もないので買い物に付き合わせれば、ぶつくさ言っていた口唇はカートに乗せた途端おとなしくなる。否、寧ろはしゃぎ声で煩瑣くなる。ヒトが制約され続け、失ったと思えるものも案外、奥底に眠っているだけなのかもしれないと思える瞬間、落ち葉を踏み締めて歩くような真似がオレは好きだった。
「ヒトの思考を妨げる一番の要因って何だと思う?」
「んー?」
頬に付いたご飯粒を、みっともねーなァと抓んで食べてやれば、テメーも付いてらと大笑いされる。
「どういう状況下に於て?」
「例えば推理をするときのように、繋がらない多数の直線の完成図を想像するとき、とか」
「まぁ先入観だろうな。邪魔だ」
「おまえはどうやってそれ、取り除いて考えんの?」
きょとんと目を丸めた一瞬後、彼は盛大に吹き出した。涎掛けも必要かもしれない、オレ側に。真剣に考えてしまったオレの顔から服から、へばりついた飯粒が重力に従ってぽとりぽとりと落ちてゆく。
涙を流して笑いながら彼は言った。
「ンなの、適当に決まってんじゃん」
ヒトがどれだけ日常というものを捨てられるか、怪盗キッドとなった日からオレには興味があった。
日常とはこの場合、常識と同義としても良い。親父が早くから居なかったとはいえ、真っ当な母親に真っ当な教育、真っ当な友人に囲まれた至って真っ当な環境。正義感も倫理観も人並みにはあった。それを疑える能力はまた別物だ。それらが絶対真理ではないと知りながらも、倫理を大事にしなければならないものだと思えるほどには、オレは幸せに育ってきたと思う。
それを抱いているがこその、犯罪者への道のり。最初の激情とも呼べる父親への慕情を免罪符に、オレは怪盗キッドという名の罪悪感を日常――黒羽快斗から切り離した。
オレの有している最も古い記憶は、一歳になるかならないかのとき、母さんの腕に抱かれて初めて父さんのステージを見たときのもの。あのときの感動を今でもよく憶えている。そう、憶えている。忘れられない。忘れて同じ感動をもう一度味わうということを許してはくれなかったオレの記憶力は、替わりに再現能力にも優れていた。このときはこのような感情が湧くはずだ、という予想の下に、オレは自分の感情を動かす。役者の行う感覚の再現と似たようなものかもしれない。必死でその感覚をこの手から逃さぬよう、殊更無邪気に振舞った。青子と二人、手を取って子供であることに努めてきた。こんな記憶力もいつまであるものか知れたものではない。忘れてしまう前にその子供を自分のものにしてしまおうと、否、忘れれば新たなものと錯覚して体感も可能となるのだろうか――。
「センスの鈍化が怖かったんだ」
「センス?」
「そ。物を感じ取る力。本当に一切合切を憶えていられるんだったら、そんなこと心配する必要もなかったんだけど、中途半端に記憶力が良かったから」
「?」
「一つの物の見方だけを、いつまでもしつこく憶えててられるような自分の性格を、よーくわかってたからさ」
「ああ、思考の凝固か。全部を憶えてるんだったらその心配もなかったってのは?」
「これこれこう感じたっつー結果だけを記憶してる貧相な能力じゃなくてマジに全部を憶えてられるコンピュータだったら、どのようにしてそれを感じたかのシーケンスプロセスまで憶えてられたら、虱潰し方で別のルートを辿ることもできっだろ」
「……ああ。成程ね」
「記憶ってのは時に柵だ」
「先入観。常識。……だからって、記憶なくしたオレがそういうのまで忘れたわけじゃ、ねーんだぜ? なんかおまえ、羨ましそうに話してっけどさ」
「おまえは初めっから常識無しだろ」
「何だとーッ」
笑った。
「羨ましいわけじゃねーと思う。ただ愛しいと思うだけだよ、人間を」
キッドもコナンも非日常の生き物だった。こんな風に生活ごっこをする日が来るとは、お互い微塵も考えていなかったろう。
日常を、常識を、捨てて非日常に生きること。コイツは探偵で在るために、オレは怪盗で在るために、その道を選んだ。……否、ボウズは違うかもしれない。
(ンなの、適当に決まってんじゃん)
笑ってそう言った彼。恐らくはオレのように自覚的に切り離したものではない。探偵である瞬間の自分を、尋常ではない状態――異常であると考えたことすら、もしかしたらないかもしれない。彼は本当に稀代の名探偵だったから。
彼は常に探偵なのだ、と知ったのはいつだったろう。
それでも、その常識を如何にして切り離しているのか、切り離している瞬間があるのかと、愚問を繰り返してしまうのは、そんな彼の立っている場所があまりに険しくて、痛々しさに目を瞑ってしまいたくなるからかもしれない。それを痛いと感じてしまうのは、勝手に自分を重ね合わせて同情しているに過ぎないとわかってはいても。
非日常が日常と変わらぬ世界に、一人立っておまえが求め続けてるものは、そんなに綺麗なものでもないと、おまえ自身もわかっているだろうに……。
そう、それでも、おまえが探偵を続けている理由は、或いはオレが怪盗を続けている理由と似ていたかもしれない。
こんな処で二人、非日常の中で偽りの今の生活を送っていることを、続けてしまっている理由と同じかもしれない。
名探偵が首を傾げる。ほら、まるでオレが本当にコイツのことを×××でもいるかのように、目の前の非日常がこんなにも新鮮だ――。
「電話、しねーとなぁ……」
「え?」
「蘭ちゃんに」
そうしておまえを×××今度は俺が記憶喪失になろう。