授業参観。
面白い習慣だと思った、私の通っていた学校にはない習慣だったから。いえ、あったのかもしれない、よく憶えていない。八歳の時には飛び級で、それからずっとまともに丸一年、その学年に居たことがなかったから。
これ、何かしら。プリントを受け取りながら首を傾げた私に、先生は笑ってこう言った。
それはね、お父さんお母さんに、灰原さんが一生懸命勉強してるところを見てもらうためのものよ。灰原さんの場合はお祖父ちゃんに、ね?
おじいちゃん。一瞬誰のことだかわからなかった。阿笠博士のことだと気付いたときには、先生は他の子供の相手をしていた。助かったわ、苦笑を洩らしているところを見られてしまうところだったから。戸籍上、博士は私の親戚ということになっているが、別段祖父という設定にしてある訳ではない。気を遣ってくれたのだろう。だが本当は親戚ですらないのだ。
でも名探偵にはしっかりと見られてしまっていたらしい。参観日のお知らせのプリントで紙飛行機など作って、本当の子供のような彼は悪戯っ子の笑みを見せた。
今更こんなもん、恥ずかしいだろ?
そう断定口調で訊いてくるということは、彼の方が恥ずかしかったのだと思ったけれど、言わなかった。彼の授業風景を見にくるのはきっと、よりにもよって彼の想い人なのだろうから。哀れと言えばあまりに哀れで、恥ずかしいのも致し方無いだろうと、そう思ったのはもしかして同情だったのかもしれない。本当はそんな、小学生を演じる気恥ずかしささえわからないほど何も知らない私は、彼のことを哀れむ資格もないほど客観的には可哀想な子供とやらかもしれなかったのに。
哀君、これは何じゃね?
研究室に起きっぱなしになっていたらしいプリントを、博士は手にして珈琲を啜った。渡そうか渡すまいか迷っている内に、存在を忘れてしまっていたものだ。
授業参観があるらしいわ。目の前に置かれた珈琲に、有難うを言いながら応対した。ちょっと眉を顰める。博士は珈琲好きの珈琲音痴だ、淹れてもいつもムラがある。今日のは少々苦くて眉が寄ったのだけど、見れば博士も同じような貌をしている。珍しい、珈琲の味がわかったのかしら。そう思ったが違ったようだ。
大分前の日付じゃな……どうしてすぐに見せてくれなかったのじゃ、まだ気兼ねしとるのかのぉ?
出たかったの? 不思議に思って訊けば、そりゃ親代わりじゃからのぉ、という答えが返ってきた。ちょっと意外な気がした。私は博士のことを、親代わりというより同じ研究者として見ていたから。だからこそ、博士も研究の時間を割かれるのは厭だろうと話さないでいたのだけれど。
博士にとって、一番大事なのは研究だと思っていたのだけど。そう、ついポロッと本音が出た。口にまで上ってしまうことは珍しい。それだけ私が博士を信頼してる証拠なのだろう。
博士は逆に私に不思議そうな貌を見せ、言った。何が大事か、なんて比べられるものなのかね?
例えば食事と排泄とどちらかを選べと言っても、選べるものではない。そういうことなのだろう。大事だとか大事でないとか、そういうレベルなど越えて、もはや博士とは家族になっているのかもしれない。生活の一部なのだ。そしてそれはまた、研究も同様だった。博士は私が居なくなっても研究を続けるだろうし、それは私も。そして協力し合う研究対象がなくなっても、私達は一緒に居るだろう。
工藤君に似ているかもしれない、私達科学者は。少しだけ、そう思った。
その日、工藤君は若干俯き気味で授業を受けていた。理由が如何にも明白で、つい口許に笑みが浮かぶ。
授業参観に来たのは、意外なことに蘭さんではなく毛利探偵だった。忙しかった工藤君のお父さんは、きっと父兄参観にも出席したことはないだろう。俯いている工藤君の顔はほんのり紅くて、慣れぬことに戸惑いながらも、きっと照れているのだろうと思った。お母さん方が毛利さんの方を見てひそひそと噂をしている。毛利さんを通じて自分の活躍を噂されている気恥ずかしさ……はないかしら、彼に限って。寧ろひょっとしたら、毛利さんを利用しているという罪悪感の方があるかもしれない。普段は忘れていても、相手への感謝の気持ちを感じたとき、ひょっこりと顔を出す小さな棘。私が時々博士に感じるのと似たような。ちらりと博士に視線を遣った。にこにこと手を振られる。小さく振り返したら、先生に叱られた。初めての体験は、恥ずかしくて嬉しかった。
叱られついでに毛利探偵のことも観察する。視線に気付いて彼が私を見る。ほら、そんなに鈍い人には見えないのに、ああも毎回眠らされていて本当に何もわからないままなんてことがあるのかしら。
それは探偵としての能力じゃない。それは確かに毛利さんにはないものかもしれない。だけど仮にも刑事だった人物が、気配や洞察に鈍い訳はない。
……ああ、そうだ。彼は探偵としての能力に秀でている訳ではないのだ……。
ふと、わかった気がした。彼はそれでも、家族を養わなくてはならなかったのだ。あまつさえ江戸川君という扶養家族が一人増えて、彼はどんな手段を用いても仕事を続けなければならなかったのだ。
そう、仕事。それはわたしたちのやっている研究とは違う。同じ探偵という形態を取っていながらも、工藤君のしているそれですらもない、毛利探偵のやっていることは純粋な生業、なのだ。
好き嫌いでも達成感でも生き甲斐でも趣味でもない。あるのはただ、家族に対する愛情だけのような。
授業が終わる。休み時間のチャイム。毛利探偵が江戸川君のそばにやってきて、頭をくしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でる。怪しすぎる行動を取る子供を養うために、もっと怪しい行動を取るお父さん、それは多分愛情だろうと私は思った。
結婚がしたいって、ふっと思う瞬間があるの。
時々お姉ちゃんが言っていた。そのときには全く理解できなかった言葉、でも今はほんのちょっとわかる気がする。
毛利親子の様子をじっと見詰めていた私の頭に、博士の皺の寄った手が乗せられたのを感じた。