「あれがアルタイル」
「あれがベガ」
アルタイルは「飛ぶ鷲」という、ベガは「落ちる鷲」というアラビア語を、それぞれ語源としている。
織姫が堕天を、彦星が昇天を、意味するなんて偶然だけど父権的。そう言った彼女は、こちらも名を知っていることを承知で、星をその細い指で指し、ひとつひとつ名前を挙げている。
時折、星から視線を下ろし、こちらへと送りながら。時折、星から離れ、果てを夢想しながら。
「ならミルキーウェイの語源は知ってるか?」
「天の川?」
振り向いた彼女の長い髪に光が反射し、鈍いしろいろを闇夜に浮き立たせ、それはまるで天の川のようだった。
「英語のgalaxyはギリシア語のgalaから来ている。ガーラってのは母の乳を意味する」
「お母さんのお父さん」
「おい」
「冗談。ちょっとそう思いたかったの」
彼女は疲れ果てていた。彼女の笑顔は優しくどんどん彼女を空っぽにしてゆき、その虚ろな空洞は、彼女が最も知ってもらいたい、そして同時に最も気付かれたくないと思っている相手に、彼女の狙いどおり、見事に通じることはなかった。今まさに別れようとしている、彼女の両親が彼女のことを気遣ってなかったということは決してなかったが、その思い遣りは彼女の願いとは別のところにあった。
ハハノチチ。確かに真っ先に母の父を思い浮かべるかもしれない、と自分の浅慮を悔やんだが、彼女は他人に罪悪感を抱かせたというそれだけで消えてしまいそうに弱り切っていて儚げで、こちらに悔やむ隙も与えてはくれない。オレも疲れ果てていた。何もできぬ歯痒さに。そして彼女の傷の、まだ癒えぬ自分の空虚との共通点に。
それでもオレは、自分の傷を痛みなのだと認識できるほどには回復していたが、彼女は恐らくそれが傷なのだと気付くこともないまま、ぱっくりと開いた虚無から涙を流し続けている。気付いていないのだと、思わせるには充分なほどの、完璧な笑顔だった。
それを引き剥がしてビリビリに切り裂いて泣き喚かせてやりたかったが、如何せん幼い子供には荷の勝ちすぎた課題。半ば計算尽くの子供っぽい苛めは彼女の変わらぬ笑顔にそのまま跳ね返されて、自分の胸に突き刺さった。
彼女は変わらず大人びた表情で、未だ父の恋人に留まっている母よりも余程オレの母だった。今よりもっと幼い頃からそうだった。オレはいつもそれに安堵を覚えていたが、それは彼女のこころを壊してまで欲しいものではなかった。
「蘭」
「ねぇ快斗。それで続きは?」
「え……」
「ミルキーウェイの話は、それで終わりなの?」
不意に気付く。本当は彼女が傷付いていようと苦しんでいようと関係なく、こうやって笑顔で自分のこころを拒絶されてしまうことがただ恐ろしいのだと、それがただひたすら哀しいのだという、自分の独り善がりな欲望に。
彼女が憎かった。彼女を苛めたのは彼女のためでも何でもない、単に自分が八つ当たりをしたかっただけだった。
「あ……」
「快斗?」
「アルゴスのヘラの信奉者はそれをヘラの化身である月の雌牛が出したものだと言い、イオニア人は彼等にとっての月の雌牛であるイオの乳房から流れ出たものだと言った。他にも各地に似たような話が残っているけど、それらの白い月の雌牛は結局、全部同じ女神を指してるんだ」
「ふーん?」
「まだ、母権制だった頃の」
「……快斗?」
「神話には」
「どうしたの?」
涙が溢れていた。
止めようとしても止まらず、拭えば拭うほど顔を濡らしてゆくしょっぱい液体を持て余し、縋るように彼女を見たら、困惑の表情を浮かべていた彼女は呆れたように笑い、オレの頭を抱き寄せ、髪を撫でてくれた。
湧き上がる疼痛に胸元を押さえ、彼女を抱き締めることもしないまま、ただ泣き続けた。せめて駄々を捏ねる子供を拒絶してくれれば、救われたものを。
彼女の拒絶は許容と同義であったのだ。いともあっさり、あまりにもすんなりと自分を投げ捨ててしまえる、それが母となり得る女性の持つ特性なのか、彼女の性質なのかはわからなかったけれど、それはあまりにオレの欲望とは異なっていた。
彼女のために何かしてやりたい、彼女を笑わせてやりたい、彼女を泣かせてやりたい、彼女と共に歩きたい。そんな自己満足も確かな他者への愛情も綯い交ぜになってひどく自分でも純粋に思えたその欲望を、彼女はその虚ろに受け入れ、微笑んでいる。受け入れられることがとても苦しくて、嗚咽しながら堪えきれず彼女の胸元に嘔吐したが、彼女は黙って髪を、背を、撫で続けてくれていた。
ただ彼女が欲望を持ってオレを拒絶してくれたら、それだけで本当にオレは彼女に受け入れられた気分になれたのに。
恋人達の間に横たわった母なる月の道。短冊を結ぶ趣味はなかったけれど。
たったひとつ、願った。