猫を抱いたあなたへ

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 意識のない身体はとても重いのだと知ってはいた。だが命のない身体はもっと重い。それを抱えて雨の中、傘も差さずに歩く自分の莫迦さ加減にオレは自嘲した。

 青子が見付けた捨て猫は、一目見ただけでもう助からないことがわかった。拾おうとするアイツを止めて罵られるのもいつものことだ。快斗冷たいよ、と。青子にそう怒鳴られるのは気持ちが好い。その声はオレをいつもヒトに留めておいてくれる。だが今日に限って、それがやけに淋しく思えたのは何故だろう。

 本当は理由などわかりきっていた。今さっき腕の中で息絶えた、この小さな仔猫が誰かさんに重なっちまったせいだ。

 小さな小さな名探偵。ヤツはまさに名探偵だった。真実なんていつも多面的で多角的で、あるゆる角度から見ないと決してその姿を見せないクセに、その多方向から見るという行為そのものが、それを善悪では捉えられぬほど己の信念から遠ざける。勧善懲悪などあり得ない、それをしたければ真実など見てはならない。

 そう思っていたのに。

 探偵は真実を見ながらもそこに善悪を求めないからこそ探偵なのだと、ヤツを見て初めて知った。

 正義など存在しないかもしれないと自己矛盾を許容しつつも己の正義を振り翳して行動する、例えばオレや中森警部なんかとは根本的に人種が違うのだろう。探偵は善悪などという価値には興味がないのだ。或いは真実にのみ価値を見出しているのかもしれない。恐らく殺人者の気持ちがわからないのと同様、被害者の気持ちもわからないままなのだろう。そうでなければ探偵など続けてはいられない。真実など見詰め続けられはすまい。逆に言えば、探偵が探偵であるためには加害者の気持ちにも被害者の気持ちにもなってはならないということだ。正義や悪などの付加価値的概念から断絶された人種だということだ。

 ――…幸せなど知ってはならない人間だということだ。

 腕に掛かる重みが、あの名探偵の孤独なのだと、オレは勝手に思ったんだ。

 本人は、自分が孤独だということにも気付いてはいないのだろう。気付いてはいけないのだろう。孤独も知らない孤独の中で、泣き方も知らずに泣いているのだろう。

(動物に半端な優しさを掛けるな)

 いつか捨てるしかないのなら。

(一人で生きてく決心をしなきゃなんねー動物に、暖かな居場所なんて見せたらいけねぇ)

 アイツは探偵としてしか生きることのできないイキモノだろうに。

(一度でも幸せの味を憶えたら……その動物は二度と野生で生きてくことはできねーんだ)

 幸せを知ってしまったら……アイツは探偵をできなくなってしまう。

(そいつの一生を背負う気がなかったら、いつか捨てるしかなくなるなら、野生動物には手を出しちゃいけない)

 探偵でなくなったアイツの絶望を、オレが背負うことはできない――。

 何時の間にやらオレは工藤邸に辿り着いていた。本当にそのつもりはなかった。無意識にも意識が含まれているというけれど、自分でもそのどデカい扉にブチ当たったときは心底驚いた。

「なぁんだか……なぁ」

「何が?」

 正直、驚いたどころの話ではなかった。幾ら雨が気配を感じ難くさせているとはいえ、オレはそこまで惚けていたのだろうか。

「人の家の前で、何してるの? おにーちゃん」

 徐ろに振り向く。このボウズには一度この姿で会っているが、あのときとはボウズの視点の高さも違うし、そう長時間観察されたわけでもない。別人に見えるよう表情と仕草を変えるだけで、人の認識を誤らせるだけの自信はあった。失敗したことはない。

「おチビちゃん、ここンちのガキか?」

 敢えてボウズが怒りそうな言葉を選んで発した。感情の昂ぶりは冷静な判断を狂わせる。たとえそれが名探偵であっても、見知らぬ者に対してそこまで自己制御を行うことはないだろう。案の定、名探偵はムッとした貌を隠そうともしなかった。

「違……けど……知り合いの、家……」

 ガキの姿でガキっつわれることに対して反論しなかった自制心は認めるがな、ボウズ? 拗ねたような視線の逸らし方が、どうにも本物のガキっぽいねぇ。

 オレは段々楽しくなってきて、つい調子に乗ってしまった。

「ふぅん。じゃ、ここの家の人は?」

「今は……居ない」

「そっか、それは残念」

「? 何で」

「いや、この猫」

 オレが腕の中に視線を落としたのに、ボウズの視線が付いてきた。初めから気付いてはいたのだろう、別段驚いた風は見せなかった。

「ここンちの庭、広いからさ。コイツ、埋めさせてもらえないかって思ってな。都会じゃなかなか、柔らかい土のある場所ってねーから……ここ、幽霊屋敷って噂もあったし、人住んでないならこっそり忍び込むか、居るんだったら頼んで庭の片隅を貸してもらおうと思ってたんだけど」

 住人の知り合いに会っちゃなぁ、と大仰に肩を竦めてみせる。さて、怒ったボウズとの会話も楽しめたし、これで誤魔化せもしただろ。そろそろこの怖い名探偵の視線とはオサラバしよう――

「いいよ」

 え?

「別に大丈夫だよ、ここ。管理任されてるの、ボクのお父さんだし。お墓、作ってもいいよ」

 予想外の反応に、どう対応しようか考える間もなくボウズは扉を開け、来いとばかりに顎をしゃくって見せた。今のは本当なら見せちゃいけない工藤新一の仕草なんじゃねーのかなぁ……どうにもやはり、この名探偵は掴めない。疑われても困るけど、そこまでオレなんかを信用しちまっていいもんかね? もしオレがボウズを工藤じゃねーかと疑ってる悪人だったらどうするんだ……っていうか確実に犯罪者なんですけど、オレ。

 虚しく一人ツッコミをしているうちに辿り着いたのは、椎の木が雨を遮る庭の片隅。

「ちょっと待っててね。シャベルはないと思うけど、何か……持ってくるから」

「あ、いい、いらねー!」

 不審気にボウズが振り返る。

「あ……いや、ほら。こういうのはさ、やっぱ、人の手で埋めてやりてーじゃん?」

 本当はこれ以上手間を掛けさせて、借りを作るのが厭だっただけなのだが。

 屍体に食料以外の意味を見出すのはとても人間らしい感情なのだろう。だがもう……冷たい言い方だとまた青子に怒られそうだが、生きている本当の捨て猫を目の前にして、もはや救いようのない仔猫の屍体をそこまで大事にするほど、オレは感傷的な人間ではなかった。この仔猫の最後のぬくもりをオレはしっかりと記憶した。それで充分ではないだろうか。

 それにこのボウズの反応を見てみたかったのもある。屍体を見付ければ、悼むよりもまず検分を始める名探偵に、きっとこんな後天的な所謂人間らしい単純な感傷なんてものは理解できないだろうと思ったのだ。理解できないならば、どのような反応に出るか?

 興味津々な内心を隠して、苦笑して顔を上げた。だがそこにあったのは、本当に予想外な名探偵の貌。

「そ……だね。うん。……ボクも手伝って、いい?」

「え……? あ、ああ……」

 ずっと疑問に思っていたことがある。メモリーズエッグと共に地上へと撃ち落とされたオレの孔雀鳩。証拠品として押収されるとばかり思っていたが、実際にはこの名探偵は、警察には何も言わずに手当てを施した。

 何故?

「どしたの? おにーちゃん?」

 既にボウズの手は、土に汚れている。

「あ……ああ」

 猫を木の根本に横たえさせ、しゃがみ込んでボウズと共に土を掘る。覆い繁る葉に遮られているとはいえ、土はしっとりと重かった。

「このぐらいで、いいかな」

 脇に堆積した茶色い小山は、とうに仔猫の体積を越えている。

「んじゃ、入れるぞ」

 そのままではだらりと形を無くしてしまう仔猫の身体を、手でそっと形作ってやりながら、その穴の中へと横たえた。屍体の姿勢を形作る……これこそが死に対する意味付けに他ならないのだろう。まさにここは、厳かな葬式の現場であった。

 土を掛けて、この仔猫を現世から引き離す。名探偵の小さな手に一瞬ふれた。

 暖かい。

「成仏できっかな……」

 思わず吹き出してしまった。あれだけ論理的に推理を進めるくせに、どうしてこうもアンバランスな思考を保てるのだろう。やっと理解が進んだような気がする。

 人間らしさとは、単純化の作業である。元来意味のない世界に意味を付加し、記号による分類を進め、善や悪などの価値を見出す行為──そのような価値など見出さずともそこに確かに現象は存在しているのに、人間はただ何かが存在しているという状態を許せない。予断と推測と独断を交えなければ世界を認識することもできない。その己で価値を付与した世界こそが世界のすべてなのだと、勘違いできる愚直さが、ヒトの痛くも愛おしい「人間らしさ」――そしてこの名探偵から最も遠いものだと思っていた、のだが。

 実際には、彼の中に確かにそれは存在しているのだ。だがそれ以上に推理は、彼にとって彼の自我と自尊心を形作る趣味であり、彼の生き様そのものなのだ。

「な、なに」

「アンバランス……いや、アンビバレント、かな」

「は?」

「おこちゃまにはわかんねーだろーなー……」

 恐らく動物に対しては優しい、などといったものではなく、彼は本当にとても優しく弱く痛ましい……ただの、人間なのだ。探偵である点を除けば。幸せという記号に背を向けてでも、ヒトと人の狭間にたった一人立つことになろうとも、彼は「探偵」でしかあり得なかったのだ。それが先天的なものか後天的なものかは知らない。それを論じることに意味も価値もない。今現在、彼は探偵であるのだから。

 オレは名探偵を前に笑い続けた。涙が出てきた。

「キッド……?」

 ほら、このボウズはこんなにも名探偵だ。その事実がどうしてここまでオレに痛いのだろう。

 事件を解体するだけ解体して、再構築もしない職業、探偵。マジシャンの対極にある彼。ちゃちな正義感を振り翳す似而非探偵も大嫌いだったが、本物の探偵もえらく無責任なイキモノだと思っていた……のに。

「そんなに大事にしてたのか……?」

「大事に飼うことが、許されるのか?」

 責任を取れなくても、飼いたいと思ってしまう無責任なこのこころを、どうやって処理すれば良いのだろう? 湧き上がる矛盾はオレの今迄の自我には大きすぎて、それを許してしまえるほど、オレは優しくも莫迦でも名探偵でもない。

「オレはな、マジシャンなんだぜ?」

「……?」

「意味のないところに意味を吹き込み、幻想を見せるのが仕事だ」

 名前を与えるのが仕事、なんだぜ?

 意図が掴めないのか、名探偵は黙している。その何もかもを解体する真っ直ぐな瞳を外さないままで。

「おまえの名前は?」

「…………。工藤、新一」

「それでいいのか?」

「どういう……意味だ」

「その名が呼ばれる限り、現在のおまえは肯定されない」

「……ッ」

 現在のおまえが、工藤新一である江戸川コナンという名の小さな身体の子供であるという事実は曲げようもなく。

 「コナン君」……あのお嬢さんが呼ぶ子供でしかないおまえも。

 「工藤」……西の探偵が呼ぶ大人でしかないおまえも。

 おまえを確かに示しているにも関わらず、おまえのすべてを示すことは決してなく、おまえを限定するフレームなのだと、……「探偵でないおまえ」は、或いはその違和感に気付きたがっているのだろう……? そう、思いたい。

「おまえに魔法の呪文をあげよう」

 真っ白な呪文を。何て傲慢なプレゼント。自分の欲望のままに押し付けるだけ押し付ける、こんな人間らしい強引さを、オレはいつ身に付けてしまったのだろう。

 敢えて捨て猫で在る君に、君を解放する首輪を捧げよう。

「初めまして……江戸川、コナン」

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