猫を抱いたあなたへ

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 泣き声が、聞こえた。最初は赤ん坊の泣き声かとも思った。見逃して……この場合聞き逃して、になるのかな。聞き逃してられなくて、青子はつっとその声の方へと足を向けた。

「青子?」

 隣を歩いてた快斗が、脇道に外れた青子を追ってくる。ぱしゃぱしゃ、という水を跳ね上げる音が近付いてくるのを感じた。涙を落とす曇り空のせいで、いつものような快斗の長く伸びる黒い影は見えないけど、青子にはちゃんと快斗が付いてくるのがわかってた。雨に毛羽立つ路面を撫でつけながら、ちょっと脚を引き擦るように怠惰に歩く快斗の姿が、後ろの目で見えるかのよう。

「ねこ」

「あん?」

「猫だと思うんだけど。声、聞こえない?」

 雨が音を吸収してしまう。確か消音効果のあるのは雪だって、いつか快斗が言ってたような気がするけど、青子は雨も音を消す力があると思う。だって耳敏い快斗が聞き取れなかったくらいだもの。なのに何で青子には聞こえたんだろう? きっと、猫ちゃんが青子のこと待ってたから、だと思いたい。だけどY字路が出てきて立ち止まらざるを得なかった。二股の先は似たような方向を示してる。どっちだろう。

 こういうのは人生の選択と似てる。猫はきっと弱ってる。もしかしたら、道を間違えたことでその間に死んでしまうかもしれない。そんなのは駄目。間違わないよう、たとえ間違えたとしても後悔しないよう、一生懸命選ばなきゃ。

「ほら、聞こえるの。どっちかなぁ……」

「あー……そーいや何か。猫か。こっちじゃねー?」

 碌々確かめもしない快斗に青子は慌てて付いていく。こういうとき、青子はちょっと腹を立てる。真面目に考えてないように見えるから。だけどその苛立ちは、多少の嫉妬をも含んでいることを青子は自覚してる。だってそんなときでも、いつも快斗は間違った選択をしないのだ。

「ほら。あれじゃねー?」

 快斗の指差す先に仔猫が居た。段ボール箱はその身体に余るほどの大きさだ。広い部屋にたったひとりぼっちで居るみたい。「拾ってください」と油性マジックで書かれてる面も、雨に濡れて字面がはっきりしないほどぐちゃぐちゃになっている。ぐずぐずと湿って乖離し始めた段ボールの欠片まみれになって、猫は啼いていた。泣いていた。助けを求めているのか。飼い主を求めているのか。

 駆け寄ろうとした。だけど青子の手を快斗が掴む。

「駄目だ」

「何が?」

「あのまま放っておけ」

「何でッ?」

「お前ンちじゃ飼えねーだろう。オレんトコも駄目だ」

「飼え……ないけど、だけどあのままじゃ死んじゃうよ、暖かくしてあげなきゃ」

「駄目だ」

「何でよッ、快斗の莫迦、知らないッ」

 叫んで駆け出そうとする青子を、だけど快斗は掴んで離さない。

「いい加減にしろよ。飼えもしねーのにどうするってんだ」

「だって死んじゃう、猫ちゃんが死んじゃう……ッ」

 そんなに大きな声で叫んでいたのだろうか。近所の家のそこここから、何事かと人が顔を覗かす。

「死んだとしても、それが自然の摂理ってもんだろ。オメーにゃ関係ねーことだよ」

「関係ない? どうしてそんなこと言えるのよ、青子は見ちゃったんだよ、快斗だって! 青子達はあのコが捨てられてるトコ、見ちゃったんだよ?」

 弱りゆく命を見て、どうして放っておけるだろう。わかんない、快斗がわかんない。

「ああもうッ、聞き分けねー奴だな……最後まで面倒見れねーんだったら、中途半端に手なんか差し伸べんな」

「ちょっとの間でも優しくしてあげちゃ駄目なの? そのちょっとの温もりで救われるかもしれないん……きゃあ!」

 言葉が途切れてしまったのは、快斗が青子を抱き上げたせいだ。荷物を担ぐように、右肩に掛けられる。

「快斗ッ、降ろしてよ!」

「行くぞ。テメーの傘は自分でちゃんと持っとけよ。濡れねーように」

「猫ちゃん……ッ」

「……行くぞ」

「やだ、降ろして! 降ろしてよぉ……ッ」

 暴れる青子を担いだまま快斗が歩く。啼き声が遠ざかってゆく。まるで命の灯火がどんどん弱まっていくかのよう。

「猫ちゃん……」

 喋るとお腹に圧迫があって苦しい。泣くのも苦しい。だけと涙は止まらなかった。泣きじゃくっているうちに、傘も落としてしまったみたいだった。快斗は困ったように自分の傘を青子の方へと向けてくれる。自分が濡れちゃうのに。

 こんなに優しいのに、どうして猫には冷たかったの?

「動物に半端な優しさを掛けるな」

 半端って何? 優しさに大きい小さいがあるの?

「一人で生きてく決心をしなきゃなんねー動物に、暖かな居場所なんて見せたらいけねぇ」

 暖かな場所がなきゃ、生きてくことなんてできないよ?

「一度でも幸せの味を憶えたら……その動物は二度と野生で生きてくことはできねーんだ」

 だったらずっと暖かい場所にいればいい。幸せでいればいい。野生じゃなくなればいい。

「そいつの一生を背負う気がなかったら、いつか捨てるしかなくなるなら、野生動物には手を出しちゃいけない」

 一時でも温もりを伝えることは罪なの?

 わかんないよ……快斗。

 家に着いて押し込められた後、快斗が向こうの路地に消えていったのを見届けてから、仔猫の居た路地に戻ってみた。箱を残して……仔猫は消えていた。誰かに貰われたのだろうか。それとも用を為さなくなった檻から出ていったのだろうか。青子にはわからなかった。ただ無性に哀しくて、雨が隠してくれるのをいいことに、その場に佇んで泣き続けた。

 次の日、快斗は学校を休んでいた。風邪らしい、間違いなく昨日のせいだろう。青子はといえば、あれだけ長時間雨に打たれていたにもかかわらずピンシャンしてる。丈夫な自分がちょっと恨めしい。熱でも出れば、今日一日猫ちゃんのために泣いてあげられたのに。

 ……帰りに果物でも買っていってあげよう。快斗のお見舞いに行こう。何だかんだ言って、快斗は青子のために風邪をひいたんだから。

 授業が終わってから、果物屋さんに寄ってフルーツバスケットを買った。でも、快斗の家に寄る前にちょっとだけ。

 昨日の場所は、所々に雨の痕跡を残しながら、いっそその痕跡が太陽を反射して、上天気を強調していた。そんな水溜りに足先で波紋を作りながら、幾度かそこら辺をぐるぐる回る。箱とも呼べなくなっていた段ボール箱も、既に撤去されていた。雨とは逆に、あの仔猫が居た痕跡は何処にもない。まるであの猫など初めから居なかったように。あれは青子の見た夢だったかのように。

 俯いてふらふらしながら、ひっそりと涙を流した。誰が知らなくとも、青子はあの仔猫が確かにここに存在していたことを知っている。密やかにも微かな声で、必死に生を主張していたことを、誰が忘れたとしても青子だけはこの胸に刻んでおこう。

 隣家から出てきた奥さんらしい人が怪訝そうに涙を流す青子を見ていた。構わない。

「あの……あなた、昨日の?」

 声を掛けられてびっくりした。そういえば、昨日顔を覗かせた人達の中に居たような気がする。見憶えがあった。

「あ、はい……あのぉ。ここに居た猫ちゃん、どうなったか知りませんか? 誰かに貰われたとか……」

 恐る恐る聞いてみた。ところが小母さんは多少不思議そうに小首を傾げると言った。

「あら、あなたのほうが知ってるのかと思ってたわ。あのあと、あの男の子が抱えていったから」

「え……?」

 一瞬何を言われたのか理解ができなかった。あの男の子というのは快斗以外にいないだろう、と気付いたのは、思わず小母さんの顔をじっと注視してしまった後だった。慌てて非礼を詫びる。

「ごッ、御免なさい! あの、かい……じゃない、あのときの学生服の男の子が、あの仔猫を連れてったんですか?」

 小母さんは気にする様子もなく、にこやかに微笑むと、

「ええ、そうよ。あなたの大胆なお連れさん。後で走って戻ってきてねぇ、殆ど死に掛けてたあの猫を抱き上げて何処かに行っちゃったのよ。てっきりあなたに言われて引き返したのかと思ったんだけど」

「知らなかった……です。じゃあ仔猫、助かったのかな、よかった。快斗のトコに――」

「あ、いえ、それは……」

「?」

 表情を曇らせ押し黙った小母さんに、一瞬のち、何となく悟ってしまった。

「あ……結局、駄目、だったんですか……?」

「というよりもねぇ」

 小母さんは言葉を選ぶように多少の逡巡を見せると、

「こっちのお隣さんの旦那様がね、獣医さんなんだけど。あなたたちが来た時点で、もうあの仔はどう手当しても助からなかったって言うのよ」

 最初から、駄目だった?

「それであの子が戻ってきたときにはもう、明らかに素人目でも助からなさそうに見えたの。だけどね、あの子、迷わずに仔猫を抱き上げたのよ」

 その情景が、見たはずもない快斗と仔猫の様子が、ありありと瞼に浮かぶようだった。雨の中、傘も差さずに走ってきて、泥だらけの仔猫を抱く快斗。

「あの子にも、もう駄目だってことはわかってたはずなのよ。なのにねぇ」

 もしかしなくても、最初に青子と辿り着いたときから……快斗にはわかってたんだろう。

「拾っちゃ駄目だって、あなたに散々言ってたのにねぇ。帰ってから後悔したにしても、助からないとわかりきっているのに、敢えて無駄なことをするような子にも見えなかったけど……」

 助からないと決まっていたから、だろう。助かるものだったら、快斗はその生命力を信じて放っておいたのかもしれない。もしくは飼い主を探しに奔走したのかもしれない。青子が執着を起こして後で寂しがらないよう、一人で。

 助からないと……余命幾許もないと悟ってしまったから、快斗はその命を拾い上げたのだ。もう助からないからこそ誰にも見向きもされない、そのままだと一人で消えていくだろう命を、文字通りその一生を、快斗は一人で背負ったのだ。

 ひとりきりで。

「どうも有難う御座居ました。じゃあちょっとアイス買いに行かなきゃなんないので」

 話し続ける小母さんに向かってぴょこんと頭を下げる。唐突に遮られた会話に、小母さんは何か聞きた気にまた口を開き掛けたが、気付かなかった振りをしてきびすを返した。後ろから掛かってきたちょっと遠い声を背で受け止めつつ、足を進める。

「あの仔猫のこと、どうしたのかはあの子に訊くのがいいと思うわよ――」

 訊くことはないだろう。話題に上らせることはないだろう。

 意地っ張りで天の邪鬼の快斗。悪役を買ってまで青子に知られないよう行動したというなら、青子は知らないままでいよう。ただ、黙ってアイスを買っていってあげよう。快斗の大好きなチョコアイスを買っていってあげよう。

「だけどチョコミントは青子ちゃんが食べるからねー!」

 一緒に食べてあげることはできるんだからね。家で寝ているだろう快斗に届くよう、晴天の青空に向かって叫んだ。

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