生まれてからこの方、志保が和服らしきものを身に着けたのは、後にも前にもそのとき限りであった。
男が戯れに買って遣した緋色の着物。正式な呉服ではなく、浅草の土産物屋で外国人相手に売られているような、仕立ての悪い安っぽいKIMONO。生地だけが手触りの良い本物の正絹であった心地好い違和感を、志保は今でもよく憶えている。チャイニーズタウンを通り掛かったときに見掛けた物だ、という男の言葉に得心した。彼らしいことだ。
彼――ジンには日本人と中国人の区別も付かない。人種などに興味がないからだ。彼はこのアメリカという国を象徴するかのように、独りで人種などを超越していた。どの国の人間だといっても通じそうなその風貌は、混血に次ぐ混血の結果、偶然の産物としてできたものであった。或いは神の悪戯とでも、無神論者の志保をして言いたくなってしまう。
彼ほど神に愛された人間を志保は知らない。彼がその気になれば、どの道であっても大成するであろうと思われた。それほど彼は、ありとあらゆる才能に恵まれていた。そしてだからこそ彼は己が才能を厭い、才能を与え給うた神を憎んだ。彼が初めて殺した人間は、敬虔なカソリックであった彼の母親だそうだ。その話を聞いたとき、志保はあまりのステレオタイプに声を立てて笑ってしまった記憶がある。
あながち自分にも憶えの無い感情ではなかったから。
誰と居ても、縦え姉と共に居ても、志保は常にひとりであった。自分の見ている世界は通常人とは違うのだ、と気付いたのはいつだったろう。ヒトの認識する世界は個々人で大きく異なることは当り前として、否、それが当然だという意識を持てるという次元で、志保と同等の視点を持てる人間が、少なくとも彼女の周囲には居なかったのだ。人は単一の価値観に埋もれたがり、それにたゆたう限り他人と同じ世界を見られているのだと勘違いしたがる。
両親が亡くなって、身柄を組織に引き取られることになったとき、離れないと泣いて引き摺られてゆく姉と入れ替わりに、部屋に入ってきたのがジンであった。今とまるで変わらない容貌で、今も自分に対するのと変わらぬ、およそ子供に向ける視線ではない眼差しで自分を見下ろしてくる男。
志保は自分より頭の良い大人というものに初めて出会った。
十四で初潮が始まったとき、初めて躰を重ねた。如何に自分の血で紛らわそうとしても、彼の身体に染み付いた血の匂いは消えることがなかったけれど。組織内でのジンの役割を志保が知ったのは、それから大分してからのことであった。
彼の周りにはいつも、血と煙草と死の匂いが充満している。本来ならば仕事に差し支えるだろうそれらも、ジンにとっては何の妨げにもならなかった。寧ろその気配に脅える標的の様を愉しんでいるのかもしれない、と志保は思った。だが知って尚、志保は彼を責めることはしなかった。それは自分の科学者としての探求心の罪深さを重々承知していたからかもしれない。正義を下らぬものだと嘯いてはいても、躾けられた道徳を愛している己を志保は自覚していた。それでも尚、彼が如何に考え方が、正義が自分と違おうとも、志保にとって自分と同じ世界を見られると錯覚できる相手はジン一人だったのである。
「変な女だな」
ジンはよく志保にそう言った。「シェリー」。そうベッドで囁くのと同じ声色で、これから殺す相手に最後通告をするときと同じ声色で。
それはジンにとって「意味がある」と言うのと同じことだ、と志保は自負していた。彼は彼にとって意味のあるものしか見ない。彼に殺された母親は、それはそれはジンに愛されていたのだろう。憎悪は彼にとっては愛情と等価である。興味あるものとないもの、彼にとってはその二つしかなく、それ以外の感情を、彼は凡人のように切り分けして、他人に理解されやすい形になどしなかったのだ。する必要もなかったのだろう、他人など必要としていないどころか、彼にとって他人はほぼ例外無く邪魔な存在だったのだろうから。
彼は一人で完璧で、世界は彼一人で完結している。少なくとも志保にはそう見えた。
彼が興味に厭かせて気紛れに手を出す仕事、手を出す女。彼の神の如きその視点こそ、志保が彼に求め同時に疎んでいたものでもあった。自分の視点に近いもの、道端に落ちている石ころを愛するように興味を持つこと、子供のように残酷に欲しもせずに欲すること。
自分が他人にしていたことを他人にされている。それは志保にとって初めての感覚、初めての敗北感であった。屈辱に震えることは快感に震えることとよく似ている。志保は抱かれながら、よくジンのことを罵った、まるで愛を囁くように。
何処かに違和感を感じながらも、それでいいのだと思っていた。だが罅割れは、志保の心に亀裂を走らせ弥増すばかりだったのかもしれない。決定的になったのは志保の姉が死んだときであった。
恐らく一般的に言うところの優しいという言葉がよく似合うのだろう姉。いつも志保のことを気に懸け、決して笑い上戸とは言えない自分を笑わせるため、面白可笑しく外の話をしてくれた姉。
世界が違うと突っ撥ねていた部分も大きかったが、それ以上に明美に憧れていたのだと、今なら志保も言える。明るく美しい、名前のとおりの女性であった。自分にないものをふんだんに持っており、それを惜しみなく他人に与えようとする人。時に疎ましく思いながらも、どれだけ姉に救われていたのか。大切なものは、いつも無くしてからでないと気付けない。
「神様になんかなりたくないわ……」
最新の技術、知識、人をして神に近付こうとする科学の最先端に身を置き、志保が求めたもの。人類最高の叡智を眼前にして、だがその魅力すら鈍らせた、それ。
失ってしまった姉の中に志保が見出したもの、自分も欲しいと思ったもの、同時に姉を疎ましいと思った要因。
姉を殺したのはジンだろう。志保は悟った。
「……それで逃げてきたのか?」
白い怪盗が哀に問う。不思議な人だと哀はじっとその瞳を見詰めた。彼はもしかしたらジン以上に神様に愛されているような子供なのに、どうしてこんなにも世界を愛しているのだろう。訊いたらこう答えそうだ。
だって皆、愛してるし愛されてるでしょ。
「少なくともきっかけはそうね」
「愛されてたから?」
「そのためにお姉ちゃんは殺された」
志保が自分をもっと憎むように。それはジンが志保に望んだ愛だったのであろう。
彼も誰かに殺されたかったのであろうか。あの彼が、他人に関わりたいと?
自分自身の意思で愛していたつもりだったが、その時点で愛させられていたのだと気付いた。如何に神に愛される仔であろうとも、神の掌の上で躍らせられているに過ぎない。だからその手から逃げようと必死になったのだろう。姉がずっと自分に外の世界の話をしてくれていたのは、まさにそれだったろうに、それすら気付けなかった物知らずの自分を哀は恥じ、それは初めての自我の目覚めだったのかもしれない。子供の反抗期と同じだ、と可笑しく思う。
頭に柔らかくぬくもりが置かれたのを感じた。手袋越しでも、この犯罪者の手はとても暖かい。
この手から、血の匂いがすることは恐らく一生ないのだろう。哀はうっすらと目を閉じ、そのぬくもりを楽しんだ。何を自分はこんなにもよく知らぬ人物の前で寛いでいるのだろう、と叱責する声も、今は心地好さの前に首を垂れている。当り前のようにふれてくる人物に対して、当り前のようにふれることを許してしまっている。彼が他人に近付いても平気なのは、彼が確固たる自分を持っているからだ、と知った。
それが怪盗キッドの変装術の根源でもあるのだろう。コナンとは別の意味で、彼は他人になることを恐れてはいない。ジンとは違う、しなやかな強さだ。
「あなたは、我を失うことがないの?」
ふと訊いてみたくなって、言葉が咽喉を突いた。キッドは一瞬目を瞠って、だがそれはすぐに柔らかい笑みに変わる。
「まっさかぁ。オレなんてもーお、ゆらゆら揺られっぱなしよ」
「あなたがそんな揺らされる相手なんて、居るとは思えないんだけど。江戸川君?」
「何でそこにボウズが出てくるかなー」
からからと、響く笑い声はあくまでも軽やかだ。この明朗な快活さが、犯罪に身を染めながら闇を切り離せてしまえるそれこそが、或いは彼の昏い深遠なのかもしれないと哀は時折思う。
「あなたが恋をできる性格には見えないから」
「何だそりゃ」
すべての感情を自分から切り離して外側から見ることのできる人間を、哀はよく知っている。犯罪者にもなれない絶望を抱えたこども。だから彼は恋をすることも許されないこどもに興味を持ったのかもしれない。そう、ジンが志保に興味を持ったように。
「これでもね、一応幼馴染みの女の子を好きだったりね?」
「恋ができない男って、幼馴染みを神聖視したがるわよね。工藤君とか」
「あの人外と同類ッ?」
「一応アレを特殊と思う感性はあるのね」
「アレって」
キッドは腹を抱えて爆笑している。確か世間では気障な怪盗として通っていたはずだが、それで通す気はないらしい。この形が、キッドが哀のために選んだ形なのだろう。果して自分は彼の策略に嵌り、しっかり彼に好意を抱いている。
笑い顔が工藤君に似てて似てないんだわ。そう考えると眉を顰めたくもなったが、好きだと思う気持ちが変わるはずもない。好きなものは好きと言って良いのだと、この小さな姿になって哀は初めて学んだ。
志保が工藤新一の名を知ったのは、自分が実は知らず毒薬を製造していたのだと知って間も無くのことであった。否、前振りとして組織は志保に、薬の現在の使用方法を教えたのかもしれなかった。志保に工藤新一を調査させるために。
いつかそんな日が来るとは予感していた。組織に居る以上、自分の手を汚さずに生きてゆけるなどとおこがましいことは考えたこともない。覚悟はしていた、いつか自分も人を殺さなければならないのだろう、と。
だがこんな形でその日が来るとは、志保も予想だにしていなかった。自分の研究が全人類の役に立つとはよもや考えてはいなかったか、それでも何某かの病人を癒す術になるかとは期待していたのだ。
逆に、人の命を奪う毒薬として使用されていたとは。現段階のそれに、人を殺めることができるのは知っていた。だからこそ志保は組織にその事実を隠していたのだが、あながち殺人莫迦ばかりではなかったらしい。それは志保の預かり知らぬところで殺人に用いられていた。生半可な解剖程度では決して検出されないウィルス。DNAまで調べればわからぬこともないが、一見自然死の人間をつぶさに調べるほど警察病院も暇ではない。志保がその事実を聞いたとき、既に何人の人間が命を落としていたのか、未だに志保は知らない。
その薬で死ななかった人間が居るかもしれない、と聞いたとき、今にも泣き出しそうに弱っていた志保は、必死になってそれにしがみついた。生きていて、生きていて、生きていて! 幾度も工藤亭に足を運び、薬の本来の能力が発揮されたことを確信した。だからこそ、調査書には「死亡確認」の四文字を記入した。あの薬がラット相手に一度、目的を果たしたことを報告していない今なら隠し通せるかもしれない。
そうして吐き通した嘘の先に、出逢った工藤新一は予想通りの幼い姿で、だが予想に反して内面はもっとお子様だわ、というのが哀の感想。父に少し似ているかもしれないと思った。好奇心を制御する術も知らず、子供のように無邪気に研究を続けていた父は、自分の作った薬の成れの果てが毒薬だのと、知っていたら ――否、知っていても尚研究を続けたろうと思える父に、やはり新一は似ているのかもしれない。
「そういえば、こんな話を聞くためにここに来た訳じゃないんでしょ?」
ぼんやりと思考の縁で微睡んでいた志保は、その温もりの主を思い出し、顔を上げた。突如として現れ、「お土産」と言って彼が志保に渡した物が西陣を模した紅いハンカチと折り鶴のイヤリングだったため、話がずれたのだ。京都にでも行ってきたのかしら、と思ったら、訊く前に先回りされた答えは「この前修学旅行に行ってきてさー」というものだった。ふざけた答えだ、何が目的で手土産まで持って訪れたのだろう?
と視線で尋ねたら、
「うん、お土産渡すために来ただけ」
と何処までも食えない答え。呆れた体を見せて肩を竦める。
「じゃあもう用事が済んだのなら帰って頂戴」
「うっわ、タンマタンマ」
やっぱり実は大分歳上なのかもしれない。死語が妙にハマっているのを見て笑う。
「博士は私よりも常識的よ。……で、本当の目的は何? 何か私に訊きたいことでも?」
真剣に見詰めれば、真剣な眼差しを返される。扱い方がわかってくるこの喜びを、友情と呼んでも良いものなのだろうかと哀は思う。しかし彼が返した答えは、哀の予想を裏切るものであった。
「いや、いい。期せずして目的は果たされた」
「……え?」
彼が来てから、哀は何をした憶えも何を話した憶えもなかった。強いて言えば、
「工藤君が、どんな経緯で小さくなったか……ッ」
「ああ。聞かせてもらったよ」
魔法を掛けられたってんなら面白かったんだけど。そう言って屈託無く笑う彼を、哀は初めて怖いと感じた。その恐怖は工藤新一に感じる恐怖と通じている、と分析してみても動悸は治まらない。
「魔法よ、と言えば信じていたの?」
「クラスメートに魔女が居るしな」
何処までも邪気のない笑顔がこわい。怖い、けれど
「哀ちゃんの言うことだから、信じますって」
けれど優しい。
素直に彼の言葉を信じたら、何処に連れていかれるかわからぬ恐怖は、信じたいという思いと裏腹。
「だから。信じたくねーけどそれが真実なら」
そう、彼は、私の言葉を信じた、だから、
「オレは君達を殺さなきゃならないかもしれない」
「知ってるわ」
だから。
「あなたの目的も知ってるから、言うわ。江戸川君を守って頂戴」
白い怪盗は、透明な哀しみを乗せた笑みを浮かべた、と哀に見える表情で、笑った。
『何処ぞの見知らぬ魔法使いに魔法を掛けられたんだと、言ってほしかったよ』