13番目のタナトス

I

 ゴミ宜しく道端に転がっていた汚らしい格好のこどもに、対称的に真っ白な綺麗すぎるスーツを着込んだ怪盗は、よくよく見覚えがあった。

 ありすぎて困るほどだ、この姿であまり会いたい相手ではなかったから。いや会いたかったけど。

 どっちだ、と自分ツッコミをしたくなるほど困っていた。何に困っていたって、そのこどもが存在していてはならないことを怪盗は知悉していたからだ。ああなんて哲学的。

 要するにその汚らしいこどもは、かの小さな名探偵君だった。あり得ない。今さっきまで怪盗はかの大きな名探偵君と追いかけっこをしていて、耳に刺したイヤフォンで傍受している警察無線からは、逃してしまった怪盗に対する名探偵君の罵声が今以て聞こえてきている。

「さすがめーたんてー、分裂もできるんだー……あ、もしかしたら女史の手柄かな」

 いや手柄じゃないだろう。思わずうなだれた。怪盗の中ではちびっこ探偵の誕生がめでたいことの部類なのは確かだが、確かだからこそ認めてはならないものもあるのだ。何しろ大きい探偵の機嫌をそこねかねない。

「しかしこれはどうして良いものか」

 と言いながらも取り敢えずは幼児誘拐することが既に怪盗の中では決定事項だ。決断の早さでこれまで生き残ってこられたと言って良いし、怪盗は倒れ伏した人間らしき物体を放っておけるほどヒトデナシではなかったし、何よりこんな形をしたものを放り出しておけるような恐ろしい真似を好んでするようなマゾ趣味はなかったし、そもそも人災を放り出しておいて世界の破壊を希望するような破滅願望もなかった。

 ……この形をした個体に対する歪んだ事実認識がそこには転がっているような気がする。

 とにもかくにも怪盗は真っ白なスーツが汚れるのもものともせず、その汚いこどもを抱え上げたのだった。息をしていてあたたかい。

 よかったちゃんとイキモノだ。

 何しろ怪盗は自分自身を模したロボットと戦ったことさえある。幾ら名探偵の形をしていたからといって、それがイキモノである保証はなかったのだが。

「うーん、やっぱりミニっこ探偵君の体温だ」

 IQ400と評される頭脳は数値こそ怪しいがその評価は伊達ではない。もうしばらく会ってはいないちみっこ探偵の平常体温くらいしっかりと記憶している。無論同じ体温の子供などたくさん居ることだろうが、少なくとも大きな名探偵の体温と同じではない、という意味だ。

 イヤフォンからはまだブツブツと頭脳も身体も大人な名探偵括弧大君の文句が聞こえている。いや十八の子供を大人と言うのも微妙だけれど、まぁつまりは腕の中のコドモよりはオトナだという意味だ。相対的な指標としてのオトナである。

II

 意識のない身体を抱えて怪盗の殻を脱いだ快斗は、未だ主の帰らぬ工藤邸の敷居を跨ぐと、取り敢えずは風呂場へと移動した。自身が十年も若返るというあり得ない体験をした新一のこと、今更コナンの一人や二人増えたところで文句は言わないかもしれないが、この子供の汚さ臭さにはきっと多分けだし絶対に文句を言う。確信があった。汚いものを嫌っているわけではなく、自分のカタチをしたものが臭いのは厭だ、という意味で以て。尤もこれを自分のカタチと認めるのかどうかまでは快斗にしても予想はつかない。昔このこどもは、この子供のカタチを苦手としていたから。

 とにもかくにも取り敢えず第一目標を、このこどもを綺麗にすることに定める。綺麗に磨き上げることは、このこどもの機嫌をそこねることかもしれないが、名探偵の機嫌をそこねることよりは快斗にとって重要度は低い。

 今は、まだ。

 もしこのこどもが本当に江戸川コナンだったりした日には目も当てられない。そうだったとしたら快斗はどちらの機嫌もそこねたくない。尤も、もしそうだとしたら二人の名探偵の望みに齟齬が生まれることはないだろうと楽観視もしている。少なくとも分かたれたばかりなのだとしたら。快斗の思考は軽い。快斗が軽くしているからだ。

 と素っ裸に剥いたこどもの身体を洗いながら、快斗は家の主の帰宅した音を聞いた。ギリギリセーフ。

「黒羽? なに仕事帰りそのまま人ン家で風呂入ってンだよ」

 既にして怪盗に対する文句は消えている。現場は引きずらない、それが名探偵のモットーだ。優しさとも言う。

 洗面所に置いたままだったこどもの残骸の臭さにだろうかそれとも真っ白な怪盗の仕事着にだろうか、後者の気もするが、うえ、と吐いたこえが聞こえる。

「あ、それ捨てないでくれ。あとで洗うか捨てるか別の場所にやるか、するから」

 取り敢えずこどもの纏っていた布きれに対して言う。頭脳明晰な名探偵君なら、誤解だとしてもすぐに修正してくれるだろう。

「ゴミにしか見えねーんだけど」

「うん、俺もそうは思うんだけどな、価値基準が違う可能性もあるから」

 敢えて名探偵が引っ掛かるように言う。

「……誰の?」

 案の定、つっこむべきところは正しい。

「風呂の理由と一緒にあとでわかるから、取り敢えずコナンの服を用意しといてくんねぇ?」

 曇りガラスのむこう、大きな探偵君の動きがピタリと止まった。

「オイ黒羽」

「オレそんなに信用ねーか?」

「微妙」

「その答えが微妙。だから取り敢えず、さ」

 溜息ひとつで出ていった新一は、しばらくしたのちに戻ってくると

「ここ置いとくぞ」

と言って、恐らく青ブレザー白ブラウスに赤蝶ネクタイに半ズボンという奇妙奇天烈もといナウでハイソでハイセンスな子供服を残していってくれたに違いない。あ、パンツ言い忘れた。と思ったがどうせ新しい子供パンツなどもう取ってはいないだろう。

 そこはまぁ我慢してもらおう、とぼんやり思った。そもそもこのこどもが着替えたいと望んでいるかどうかが怪しいのだし。そんなことよりも、こどもに親父臭い縞のトランクスをはかせるほうが快斗にとっては微妙なことだった。要するに探偵君の服の趣味は下着に至るまで快斗にとってはあまりお宜しくないのだった。だからぱんつはなくても良いのだ、快斗的に。快斗はしろいおぱんつに夢を見るようにしている。こどものぱんつは白いブリーフだよ探偵君、と内心呟いてみる。口に出していたらただの変態である。しかも当人はもっとナウでハイソでハイセンスな服を怪盗のお仕事着にしている。口に出したら新一に殺される。探偵がヒトゴロシ。シャレにならないがそういえば彼はキッドキラーなどという名を冠していたこともあった。

 このこどもの姿をしていた頃の話だ。その想像はちょっと怪盗に痛い。

III

 ということで居間のソファに腰掛けてよゐこにコーヒーをすすりながら、大好きな推理小説も読まずに快斗が匂わせた謎を今か今かとうっとり待ちかまえていた元キッドキラー江戸川少年探偵こと日本警察の救世主工藤名探偵は、風呂上がりの快斗の腕に抱えられたこどもの姿に、盛大に吹き出したのだった。つまりコーヒーを。探偵君は砂糖もミルクも入れない快斗にとっては変態なコーヒーがお好きなので、そりゃもう綺麗なコーヒー色がテーブルに広がった。大惨事だ。

「……責任取って掃除する?」

「いやオレがする、つーかソレ!」

 かつてとはいえ自分の姿をした人間らしき物体を「ソレ」扱いできる神経には素直に感嘆する。こうでなければ屍体と毎日のように顔を突き合わせてなどいられないだろう。

「やっぱ工藤も知らねーんだ?」

「親類にそんな子供が居た憶えもなきゃ、灰原に一服盛られた記憶もない」

「本気で一服盛られたら記憶もなくなると思うケドなー」

「そりゃまぁ、ってでもアイツはそういうことはしねぇぞ、多分」

 名探偵は灰原哀に弱い。そりゃもう色々な意味で弱かった。甘い、とも言う。

 だがしかし、かの天才少女が誰よりも、自分自身よりもこの名探偵を大事にしていることは快斗とて重々承知していた。ので、

(もしかしたら女史の手柄かな)

「もしかしたら」は本当に「もしかしたら」以上の意味はなかったのだ。含みはない。ただの動揺とも言う。

「だろうなぁ、一応目が覚めたら場合によっては隣に連れてこうかとは思ってるけど」

「今じゃ駄目なのか?」

「おまえに見せたのもギリギリ。良く似た子供ってだけなら問題ねぇけどさ」

「いやそっちのが問題だから誘拐犯」

 台ぶきんで茶色い液体を吸い取りながら新一は拭き始めてから何度目かの溜息をついた。脳天気で格好付けな性格の割には溜息の多い男だ。イヤミかもしれない。

「まさかロボットとか」

「一応イキモノっぽい」

 こちらは新一の立ち上がったあとのソファに、そのコナンらしきイキモノを寝かせながら天を仰ぐ。今日も工藤邸の天井は高い。

「でもまぁ、一応本人に正体を聞いてから対処しよーかなー、と」

「そこでおまえが普通の子供じゃないと考える根拠は?」

 名探偵は本当に探求がお好きである。

「似すぎている」

「あん?」

「オレがさ、江戸川コナン君のうぶ毛の数から血管の透け具合まで憶えてるって言ったら、気持ち悪ィか?」

「サヴァンか!」

 さすが名探偵、快斗の意図を正しく汲んでくれたようだ。変態扱いされなくてよかった、と白ぱんつ愛好家の変態怪盗は胸を撫で下ろす。その安堵の仕方もどこか間違っている。

 快斗の記憶は場合によっては機械に残されたデータのようなものだ。薄れてゆき形を変えてゆく、通常の人間のような連鎖反応を持ってはいない部分が存在する。幼い頃、父親の用意していた脱出マジック用の箱に頭から落ちたことがあったから、その影響かもしれない。と思ってみる。

 それは時として便利でもあったが、時として不便でもあった。例えば父親の死の痛みをいつまで経っても忘れられないのが、それだ。

「なに、全く同じなの、オレと?」

 「オレと」と言った、うん、ここらへんは名探偵は非常に割り切っていて理知的だ、と快斗は安堵する。単に脳天気もしれないという考えは取り敢えず置いておく。要はコナン君と同一人物であったことに彼がどこまで拘っているのか、快斗には掴めなかったということだが。

「もう今迄のありとあらゆる記憶を検索しても、外見上は百パーセント同じ」

 あの時期、名探偵の身体は身長体重はおろか、髪の毛や爪でさえも変化を見せない、イキモノとしてあり得ない状態だった。いくら快斗の記憶とはいえ、今の今迄データ照合に齟齬が出ないというのはつまり、元々存在していたデータがそれだけ正確だったということだ。

「そりゃ怪しい、確かに怪しい」

 こんなこどもよりずっと自分が怪しかったことは棚に上げているらしい。ここらへんも合理的だ。うっかり言葉を間違うと傷付けてしまいそうで、口にしては言わないけれど。

「もう怪しすぎて思わず連れ帰っちまったってわけ。納得?」

「……ビミョー……」

「……工藤の言葉遣い、この頃少年探偵団のみんなに影響されてねえ?」

「若作り?」

 可愛らしく小首を傾げた新一クンを無視して本当の若作りなコナン君の頭を撫でてみた。

「でもお風呂入れても起きてくんねーんだな、これが」

「あの汚いの、そいつの?」

「そ」

 としばらくくだらない話を続けていたのだが、それでも怪盗が探偵の前で気を緩めていたわけもなかったのだ。なかったのだがしかし、そのこどもには本当に気配がなかった。目を覚まして凝ッと快斗と新一を見ていた視線に、気付かなかった自分に快斗は驚愕する。つまりはこどもが気付かせなかったのだ、と思うことにした。そうすれば安心だ、油断しなくて済む。

「起きた?」

 快斗のこえに新一がぎょっと目を剥く。こどものほうを向く。おなじ眸がふたつ。ヤバい、これは本当にコナン君かもしれない。快斗は天を仰いだ。

「ボウズ。状況説明は、要る?」

「ノートはどうした」

「ノート?」

 快斗の質問に、だがいらえともつかない答えを返してこどもは身を起こした。己のちいさな身体を見る。

「なんだかな」

 ぼやいていた。

「何が」

「で、ノートはどうした」

 本当にわけがわからない。結果、名探偵が嬉しそうに目を輝かせて快斗の前に出た。名探偵は訳のわからないものが大好きである。

「取り敢えず自己紹介な。オレは工藤新一、こっちが黒羽快斗。おまえは?」

 勝手に名乗られてしまった。まぁ良いか、と既に諦めの境地である。相手がもし万が一にでも怪盗の姿を憶えてでもいたら言い訳が、まぁできるからこそ諦められる事柄なわけだが。

「オレを拾ったのはどっちだ?」

「黒羽のほう」

「この姿は誰のものだ?」

「は?」

 げ、と快斗は顔をしかめた。これは本当に言い訳のできない事態になりそうだ。慌てて口を挟む。

「オレ達もそれを尋ねたかったトコ。オメーはどこの誰で何でぶっ倒れてて、ノートがどうしたって?」

 ……あまり巧い話題の逸らし方ではなかったかもしれない。マイナス二十点。だが幸いにもこどもと、そしてこどものような名探偵君は快斗の焦燥には気付かなかったようだ。胸を撫で下ろす。

「オレと一緒に、ノートが落ちてなかったか?」

「つまりおまえもあそこに居た、わけじゃなく落ちてきてた、ってわけか?」

 我ながら探偵のような追求の仕方だ、お蔭で新一が拗ねて口を尖らせてしまった。これではいけない。いけない、が、いくら名探偵の慧眼とて自分が居なかった現場の情報を提出しろと言われても無理だろう。結局快斗が出るしかないのだ。

「まぁな」

「どこから?」

「上から」

「…………」

 勘は当たっていたらしい。

「ノートは近くには見当たらなかったと思うが。何なら今から確認しに行くか?」

「別に良い。オメーがそのノートを必要としないんなら、ノートを必要として拾った奴のほうにオレは行く、それだけだ」

 口調まで小さな探偵君にそっくりに、どうやら快斗がしてしまったらしい――だって自分で自分の姿の所以を尋ねるったら拾った人間に責任があるしかないだろう――こどもの言葉から導き出された結論は、あまり楽しくはない想像を生み出した。端的に言えばこの探偵君がこの小さな姿でこのままどこかへ行ってしまう可能性もあるということだ。

「オメーはそのノートとやらに取り憑いてる座敷童か何かか?」

 勢いを取り戻した新一が快斗の肩から顔を覗かせる。おいコラ吐息が当たる吐息が。あまり嬉しい状況ではない、嬉しすぎて。オトコゴコロは複雑だ。

 だがそのこどもは快斗の動揺も新一の興奮も意に介した様子もなく、平然とあっさりとどうでもいいことのように、こう宣った。

「いや。死神だ」

IV

 要約する。つまり彼――彼女かもしれない――は死神であり、死神界に於て自らの命を得るためのデストルドノートというものを所持していた。そのノートに名を書けば人間が死に、その分死神は命を長引かせるという寸法である。そのノートを落とした、と。要約のしすぎであるが、快斗の頭の中だけの話なのでまぁ良いのだろう。読者のことなんざ考えちゃいねぇと叱られそうだ。誰に。

「まぁ定番だな。『不思議な手帖』でも『死神くん』でも『デスノート』でも」

「何だソレ」

 名探偵の二乗は漫画にはお詳しくないらしい。質のよく似た高さの違うこえがハモって快斗の耳に届いたが、今度漫画を渡すことに決めて取り敢えず説明を放棄する。どうせ今説明したって、少なくとも大きな探偵君のほうは実物を見たがるのだ。根性は現場百回? 何かチガウ。

「しかしまー、デストルドノートってなんか違くねぇ?」

「自殺専門なんだ」

 ちいさな死神くんが答える。微妙に納得、微妙に不納得ではあるが。快斗がふんふん頷いた振りをして死神くんの頭を撫でていると、名探偵は不機嫌そうだ。無論知識の点で置いてけぼりにされたことに対してであって、色っぽい意味でではない。

「そこ、二人だけで会話してんな」

「あーつまりな、デストルドって知ってっか?」

「エヴァで見た」

 なんでこの人の知識はこう偏ってるんだろう。恐らく仮面ヤイバーにも詳しいんだろうが、それとは事情が違う気がするのは多分快斗の気のせいではない。

「じゃあ良いや、そっちの意味で。だからな、この死神がそのノートに名前を書いた人は、必ず自殺するんだ」

「……それが何だっつーんだ?」

「死神のノートは、その書いた人の死因を設定できる設定が多いんだ」

「ああ、自殺のみってのが珍しいのか」

 殺人し放題? と名探偵は首を傾げている。あ、ヤバい。

「そのノート、探すぞ」

「殺人し放題じゃない」

 しかし意外なところから口を挟まれた。快斗としても今の時間から事件体質の名探偵を外に出すのは世間様のご迷惑だと考えていたため有難い話ではあるが、そもそも本当に有難い話なのかどうか、ひょっとしたらますます探偵君の興味を惹いてしまう言葉だったらどうしようと身構える。身構えたってどうなる話でもないのだが。

「死への衝動ないし回帰願望を煽ってやったって、人間は肉体と心で生きている。だから、それだけじゃ死ねねーよ」

「……よくわからねえ」

「心だけの存在、つまりオレ達は、ノートに名前を書かれればそれだけで死ねる。まぁ死神の名前なんか書いても無効だけどさ」

「まっすますわかんねぇ」

「人間は肉体があるから、本気で死にたいと思ったってそれだけじゃ死ねないだろ?」

 快斗のほうはと言えば、何となく死神の言いたいことはわかってきた。むしろわかってくればこそ、あまり歓迎できない話だ、その姿でそんな話は。ちょっとどころではなく、痛い。

 幸いにも形而上学になど全く興味のない探偵君の脳の働きは鈍い。こどもの言葉のたびに首を傾げている。理解できていないようだ、どうしてこんな人がエヴァなんか観る羽目になったのか、そちらの経緯のほうが死神が居ることよりも不思議だった。要するにラッキーってなもんである。快斗にとってか新一にとってかは、快斗にはわからない。新一に傷付いてほしくないのは快斗の勝手な願いだ。非常に新一に対して失礼な願いだ。

 ヒトは傷付いて死ぬこともできるが、傷付いたって死ねはしないのだ。死神くんが言いたいのは、まぁそういうことだろう。だから本当に快斗の身勝手な願いでしかないのだ、探偵にいつもしあわせで笑っていてほしいなどというのは。シアワセがなきゃ生きられない、なんてとても格好良い台詞で文化水準の高い推理小説っぽいとは思うけれど、生憎と人間はそこまで単純でもないということだ。目の前に居るこの脳天気にも単純明快な推理オタクであったとしても、シアワセの追求のために怪盗なんかやっている身であったとしても。

「取り敢えず工藤、オレはそろそろ帰るぜ」

「はぁ? まだ話終わってないぞ」

「どうせならノートが見付かってからにしよう。ってことで死神くん、カモン」

 ちいさな手を取った。本当にかつての記憶のままの探偵君の体温で、肌膚どころかにくも骨も爪もやわらかなこどものゆびで、そして厭そうに眉根を寄せる仕種まで記憶のとおりのちびっこ探偵君で、ああやはりこのままここに居てはいけないと心を鬼にする。鬼にしてやることはといえば、単に家に帰るだけだけれど。

「ちょ……ッ、そいつ連れてくのかよ!」

 話が聞けない、という不満だ。しかしこれは死神くんが味方になってくれるだろう。

「オレは拾い主に憑くぜ?」

 やはりと言えばやはりだ。この類のお約束には名探偵よりも怪盗の、もとい快斗のほうが強い。雑学の範囲が違うという意味だ。広い、とはさすがに自信家の怪盗でも探偵相手には言わない。

「……なんかツクの字が厭ーな字じゃなかったか座敷童?」

「ていうかさ、コナン君が工藤邸に居たら色々とマズくねーか?」

「……マジィかな」

「灰原女史とか、蘭さんとか」

「隣、連れてくのか?」

「やめといたほうがよさげ?」

「コナンじゃないしなー」

 まぁそんな訳である。要するに大した理由ではないのだ、ここに来た理由も、ここから帰る理由も。ただ名探偵を中心にちょっと歪んでしまったシアワセのための方便だった。

V

 真夜中の裏街道を、こどもと手を繋いで帰る。こどもの歩幅に合わせてあるく。本当にかつての記憶のままの探偵君の体温で、肌膚どころかにくも骨も爪もやわらかなこどものゆびで、これは本当に宜しくなかった。懐かしすぎる。涙までにじんできそうだ。

「コナンっていうのか」

 こどもが尋ねてきた。断定口調だ。自分はこのこどもの性格までをも規定してしまったのだろうか、と不安になる。期待かもしれない。

「その姿?」

「そう」

「うん、江戸川コナン君」

「アイツもわかってたようだったのに、何でだ?」

 話を逸らしたことに対してだろう。

「その姿はな、昔の工藤の姿なんだ」

「……子供時代?」

「死神でも成長って概念はわかるのか」

「テメーが嘘吐きだってことと同じくらいにはわかる」

 実に素晴らしい江戸川コナン君だった。

「そういや名前は?」

「えどがわこなん」

「違うだろ」

「だっておまえがそう決めたんじゃないか」

 やはりそうなのか。

 つないだ手は離さないままに、ちょっと頼み込む形に手を合わせ、快斗はしゃがみ込んで「コナン君」の顔を覗き込んだ。

「それ、工藤に内緒にしててくんねぇ?」

「名前を?」

「オレが決めたってことを」

「……理由を話すんなら」

 本当にいたたまれない。

「話せないわけじゃないぜ? ただ、話すのが難しいっつーか、話すと長くなるっつーか……まぁ、一緒に居ればそのうちわかると思うから」

「ノートが見付かったらオサラバだ」

「帰るのか?」

「言い方が悪かった。オメーじゃない人間が見付けたらそっちに行く。オメーが見付けたら、書くだろう?」

 何を? 聞かなくてもわかっているような気もしたし、聞いてもわからない気もした。

「……どんなノート?」

「黒地に、白い字で。表紙はこっちの字、中身はむこうの字」

「中身までは確かに無理か、色んな名前があるもんな」

「表紙は多分日本語だ」

「……ちょっとロマンがなくてイヤン?」

 イヤンなのは字面ではなく、そのノートに心当たりがあったからだった。ピサの斜塔じゃないが落ちる速度に違いでもあったというのならば、快斗にはそのノートに非ッ常ーに憶えがあった。要するに二、三日前、死神くんを拾う前に拾っていた。手癖が悪い、さすが怪盗である。予感には忠実なのだ、特に厭な予感には。何しろ怪盗にとって直感は生死に関わるところである。

 しかしまた何でそんなものを落として、あまつさえご本人まで落ちてきたというのだろうか。堕天使ならぬ堕死神といったところか、しかしどうにも語呂が悪い。

 もっとイヤンな想像は、さっきの言葉からするとまるで

(オメーが見付けたら、書くだろう?)

エドガワコナンクンは自らの名前を書かれるために、わざわざ墜ちてきたかのようではないか。それはちょっとあまりにもイタダケナイ。イタダケナイ上、あり得ない。快斗でなくとも良いのだと、先程このこどもが言ったばかりではないか。だから言えない、快斗がけだしそのノートを所持しているということは。

「……死神は」

「うん?」

「死神は、書かれても死なないんだろう?」

「まぁな」

「人間も、書かれただけじゃ、死ねない」

「まぁな」

 それはかつての江戸川コナンが証明している。

 生物学に於てデストルドはアポトーシスと同義と言っても良い。細胞のゆるやかなる自殺とそれによる成長。オタマジャクシがカエルになるように、イモムシがチョウになるように、この繋がったちいさな手が水掻きを捨ててヒトの手のカタチを成すように。

 自らを要らない細胞と認識し、自らを分解して壊し、周囲の細胞に吸収されてうっとりと生きていた細胞が別の細胞に還る。細胞の自死。テロメアーゼをコントロールしてやってヘイフリック数をカウントゼロにしてやれれば、それがアポトーシスであり、それを引き起こすのがアポトキシン4869だ。否、できそこないのアポトキシンだ。正しくアポトキシンの目的は、アポトーシス促進を促すと同時に細胞増殖をも促すものだった。古い細胞を自殺に追い込み、新たな細胞を作り出すのだ。そうして死は生と結実する。つまり江戸川コナンの誕生だ。無論研究途中でのそれは蛹が蝶になるよりも奇跡的なバランスで成り立っており、江戸川コナンはいつ死んでもおかしくない状態で生き延びていたのであり、大概の人間はそのままアポトーシス過多で死していたのだからこそ毒薬とも呼ばれていた「出来損ないの名探偵」だった。アポトキシン4869シャーロック、別名をシェリングフォード・ホームズ。よくぞ名付けたものである。

 要するにデストルドだけではヒトは死ねない。更に細胞学を離れて後期フロイトに頼ってみたところで同じである。魂があるかどうかの議論はともかく、人間のこころは肉体に依存している。肉体の機能としてこころが動いている以上、肉体を持たないらしい死神のようにこころが傷付いただけでは死ねない。心の損傷がそのまま命の損傷になったりはしない。こころとからだは互いにフェイルセイフの役割を果たしている。肉体が損なわれただけではこころが死ねないように、こころが損なわれただけでは肉体が死ねないように。単純に冗長構成と言うには肉体の比重が大きく感じるのは、まぁヒトにはこころが見えないせいだ。死神にとってはヒトの機能はまた違うように見えているのかもしれない。

「そのための死神だ。だからオレ達は悪魔とも呼ばれる」

 ほら、このように。人間に伝わる悪魔の伝承で推察するならば、死神はヒトの肉体をその鎌で――この場合はノートで?――殺し、ヒトの心をこの甘言で殺すのだ。或いはノートで心を、言葉で肉体を、かもしれない。さてヒトである快斗の目には両方が損なわれてもやはりそれだけでは死ねない複雑さが存在するように思えないでもないのだが、或いは肉体の損傷だけで両方が死ねるような単純さが存在するような気がしないでもないのだが、そこはそれ、死神秘伝のテクニックでもあるのかもしれない。しかし、だがそれならば、

「だったら何、おまえがその姿をしてる意味は?」

「オメーが決めたせいだと言ったろ」

 うんざりと探偵君は言った。

「いやそうじゃなくってな」

 工藤新一クンならまだ大丈夫だった、ご立派なご立派な陰日向ない日本警察の救世主であるし、何より隣には天使もかくやの健気で美人な幼馴染みが居る。それは薄汚れたドロボウなどには入り込む隙もないほど完璧な風景だ、隙もないし、入り込む気にもなれない。その完璧で美しい風景の中で、本当に幸せであってほしいとおもう。思える。本当は元の姿に戻った名探偵と誼を結ぶつもりも全くなかったし、黒羽快斗の姿を見せることもあり得ないと思っていたのだが、まぁたまたま本当に偶然が重なって偶にそばに居られる僥倖を得たからといって、だからといって何が変わるべくもない関係だったし、それ以上近付くつもりもない関係だった。現在の新一と快斗の出逢いのように、工藤探偵が暴走して飛び込んでこない限りは。

 しかし江戸川コナンくんは駄目だ。何が駄目かって、あれが怪盗キッドと同じくいずれ消える存在で、表に出てはいけない存在で、要するに怪盗が親近感をなど抱いてしまう相手だったのだ。黒羽快斗には怪盗キッドではない生活があって、工藤新一には怪盗と対峙するのではない生活があって、そして快斗もキッドも新一が怪盗だけの世界に住まう人間ではないことを喜んでいたし、むしろ自分に全く関係のない幸せな世界で幸せに生きていってくれることを望んでいたのだ。つまり怪盗などには近付いてほしくないというのが本音だったのだ。工藤新一は怪盗キッドの世界の住人ではなかった、だから離れていられるのに、だが江戸川コナンは工藤新一と同一人物だというのに事情がちょっと違ったのだ。そのほんのちょっとの違いが、怪盗にとっては致命的だった。

 そのくらい飢えていた。怪盗には、この世に存在してはならないこどもくらいしか、縋りつける相手が居なかったのだ。いずれ工藤探偵が自分で殺すのだろう存在しないこどもくらいしか、望んでも許されるものがなかったのだ。いつ死んでもおかしくない狂った生命のこどもくらいしか、命を賭けて守ることが許されるものがなかったのだ。そのくらい、怪盗キッドは光の社会からも闇の社会からも隔絶されていた。江戸川コナンと同じくらいには世界に存在していてはならない存在だった。孤独だった。こどもを自らのテリトリィに入れて囲ってしまいたいほどには飢えていたし、今も飢えている。

 何しろ工藤探偵には全く近付くつもりもなかったが、少なくともあの当時怪盗キッドは江戸川探偵のものだったほどだ。あの頃、モノクルの飾りから暗号の一文字まで、怪盗キッドは間違いなくすべてが名探偵のものだった。無論そんな重いことは一切表に出さずに、名探偵には一切気取られずいつものように軽く軽ーく、まるで名探偵とは無縁のところで生きているかのような貌をして名探偵などには興味のない貌をして、ほんの時偶探偵と怪盗の道が交差したときに精一杯奉仕する程度ではあったのだけれど。

 要するに工藤新一が江戸川コナンを殺したときに、怪盗キッドはすべてを諦めたつもりでいたのだ。何しろ怪盗も快斗なので人間だった、すべてが誰かのものになってそれを失っても死ねないほどに。なのに。

「……。オレに名前、書けって?」

 そうすれば、黒羽快斗は工藤新一と生きることはできなくとも、少なくとも怪盗キッドは江戸川コナンと一緒に死ぬことができる。だからきっとこのこどもはあんな薄汚れた格好で闇の中で、怪盗キッドに拾われなければならなかったのだろうと今ならわかる。薄汚れたコソドロが、放っておくことのできないほどに、拾うことを許されるほどに、堕ちた光の魔人のすがたで。

「江戸川コナンと怪盗キッドならノートだけで殺せるぜ」

「そりゃそうかもしれない、肉体で存在してないんだから。でもおまえは名探偵じゃない」

「同じだろ、肉体がないんだから。心はおまえが定めたものなんだから」

「だから」

「おまえが見てた一面ですべてが構成された存在と、おまえが見えていなかった面を持っていても結局見えている面は同じ一面でしかない存在と、どこが違う?」

「だから、だからって何でおまえが」

 答えは唐突に閃いた。つまり彼はキッドキラーなのだ。

(そのための死神だ。だからオレ達は悪魔とも呼ばれる)

 あのノートには恐らく、快斗の読めないむこうの文字で、黒羽快斗の名が記してあるのだ。或いは工藤新一の名もあるかもしれない。

 江戸川コナンの名を使って江戸川コナンをこの手で殺して江戸川コナンと共に黒羽快斗が死ぬ。それは何と甘美な誘惑であろうとそのくらいは想像できるほどに快斗は幸せだったのかもしれないが、しかしてそれでも自分が死んだら哀しむのだろう工藤新一のためにそんなことは決してできないのだろうと快斗はぼんやり絶望した。

 これがまぁ、人間が幸福でないと生きられないというわけではないということだし、絶望では死ねないということなのだ。その絶望は希望にも似ていた。つまりこの死神には自分は殺せない。そうしたらこの探偵のカタチをした死神は生が足りなくて死ぬのだろうか、その想像も発狂して死ねそうなくらいには怪盗に痛くてしあわせをもたらすのだった。これは天使だ、あいらびゅー。天使になら言っても死なないかもしれない。

「愛してるよ名探偵」

 こどもが厭そうに、実に江戸川コナンのかおで眉をひそめ、快斗の手からは過去に繋がれたなつかしい体温が消えた。快斗は生きている。その程度のことだ。何しろ二度目だ。ああ本当に死にたい。

「あいしてる」

 明日名探偵に何と言い訳しよう、と考えながら涙を流して怪盗はひとり家路を辿るのだった。

ページ情報

Document Path
  1. ルート
  2. 創作部屋
  3. コナン・まじ快
  4. 13番目のタナトス(カレント)
Address
日月九曜admin@kissmoon.net