たけくらべ こいのぼり三首 其の貳

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 久し振りに実家に戻ったら、部屋に懐かしい疵痕を見付けて、そっと指先で撫でてみた。

 昔、ふざけて背比べをしたことがある。

 佐為と。

 柱に寄りかからせて、烏帽子を取ったあたりの場所に傷を付けた。背伸びしても届かなくて、積み重ねた漫画雑誌の上に乗って柱を刻んだ。佐為はえらく嬉しそうに、次はヒカルの番ヒカルの番、とナイフを持とうとさえしたものだった。

 到底叶うはずもなく、オレは自分の頭の上を自分で傷付けたわけだが、その疵は佐為の付けた位置より本当に本当に下で、でも佐為が嬉しそうだから良いかと悔しさも消え失せた。

 今見たら、オレの身長はどうやら佐為の上に来ている。ナイフを手に取る。みっつ、上下に並んだ、ちいさな疵痕。

 ぼんやりとそれを眺めていたら、何時の間にか涙が流れていたようだ。痛みではない、苦しみでもない、ただ切ないこの感情が、もはや過去なのだということを知らしめ、オレを更に切なくさせる。

 佐為が居なくなってから、オレは急激に背が伸びた。多分霊障というものだったのだろう、奴が居る間、オレは本当に小さいままだった。襲い来る嘔吐がなくなっても、やはり佐為も怨霊には違いなかったのだ。

 ああ、本当に。なんて酷い幽霊。

 自分が碁を打ちたいがために虎次郎の人生を乗っ取り、オレに取り憑き、あっさりと成仏してオレを置いていった。

 なんて酷い幽霊。いじめっこ。いじめっこ。

 オレが怨霊の人間らしい感情を取り戻させたくせに、棚に上げて泣きながら詰った。

 柱を背で滑り降りて、手で顔を覆う。ああ、そういえば手足は昔から大きかった。佐為、佐為。オレの何が生きなくとも、本当に、おまえがオレの人生のすべてを乗っ取ってでも構わないと思っていた時期があったんだ。

 背なんか伸びなくても良いから。碁なんか打てなくても良いから。

 ただ、おまえに存在していてほしかった。

 そう思っていたのは本当に嘘ではなかったのに、今オレは自分が生きたくてしょうがない。生きたい、生きたい。

 打ちたい。

 涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、塔矢に電話してこれから行くと告げた。ああ、笑わなきゃ。だってオレは生きてる。

 碁会所に到着して、オレに気付いた塔矢が振り返る。ぱぁ、と顔が輝く。笑顔だった。

 それを見たら、オレは堪らなく泣きたくなって、だから笑った。

 苦笑にも取られかねないオレの表情に何か言いたげに、だが結局問うことはせずに塔矢が促した対面に座ると、市河さんがお茶を持ってきてくれた。何か付いている。

「かしわもち?」

「端午の節句だからね」

「ふーん、そういうもん?」

 珍しくお茶請けにお菓子が出されたと思ったら、柏餅だった。子供の日に食べるものなどとオレの知るところではなく、口に入れながら首を傾げる。

「ちまきかと思ってた」

「それもあるけどね。これは、柏の葉の特徴が特徴だから」

「?」

「柏は、秋に葉が落ちないんだ。春、新芽が出てから落葉する。それで子孫が途絶えないという縁起担ぎとして用いられるんだよ、子供が病気や災害に遭わないことを祈る行事だから」

「ああ……もしかしてそれって、平安時代にはなかった?」

「? さぁ……多分江戸時代あたりじゃないかな、始まったのは」

「成程」

 佐為は行事ごとが好きだった。貴族の嗜みです、などと旧暦で騒がれてもわからないので、新暦に合わせてアイツの望む物を色々と用意してやった、その中に柏餅はない。

 ぱちりと石を置く。今回はオレが白だった。プラスチックの安っぽいしろいろが、今食べている柏餅の偽物の餅を連想させる。

「ちまきのほうは?」

「確か楚の屈原という人を追悼する行事からだったと思うけど……」

「楚? 中国?」

「ああ。日本の宮廷行事の大半は、大陸の陰陽思想から来ているんだよ」

「ふーん」

 わからん。と残りの柏餅を一気に口に放り込む。お行儀の良い塔矢も慣れたのか、何時の間にかオレのそんな様に眉を顰めることもなくなった。

「鯉のぼりも?」

 わからないと投げたくせに、尚も続けるオレに気を悪くした様子もなく、塔矢は律儀に答える。

「それは、武士の家に男子が産まれたときに立てる幟から来ているそうだよ」

 その割には佐為も鯉のぼりを知っていたが、と思ったところで、虎次郎を憶い出した。ひょっとしたら柏餅のことも、知っていることは知っていたのかもしれない。

「他にも、屈原を救った大きな鯉からという説があるね」

「あ、ちまきを食った屈原さん?」

「食べてない……」

 呆れたような声と重なって、ぱちり。塔矢の指に挟まれた黒石が音を立てる。

 以前は対局中にお喋りすることなどなかったが、この頃時折、ふっと気を抜いて打つことがある。お互いどういう心境の変化があったのかはわからないが、それは居心地の悪いものではなかった。

 白石を置く。ぱちり。乾いた音。

 そのまましばらく打ち続け、終局図に塔矢の一目半勝ちが見えた頃。

「じゃあ、行こうか」

 投了も待たず、検討もせずに立ち上がった塔矢に首を傾げる。ぼんやりと眺めていたら、オレの上着を取って差し出す白い手。

「北斗杯」

「あ」

 忘れていた。本当に、すっからかんと。

 もはや出場資格の歳にないオレ達は、それ以外の棋戦に忙しく、関わってなどいられなかった。

「社だよ、今年の団長」

「えー? そ、そうだったのか」

「君には連絡が付かなかったと言っていた」

「ここしばらく携帯の電源切ってたから」

「ああ、それで」

「おまえもしてくれた?」

「うん。終わったら呑もうと言われたから。今日電話をもらえて良かったよ」

「ワリワリ」

 乗ってきたバイクはそのままに、ふたりで駅へ向かう。予備のヘルメットなど持ってきていない。

「そういえば」

 憶い出したように声を出す。視線の先には、塔矢と鯉のぼり。

「鯉が救ったって?」

 塔矢が怪訝そうにこちらを見たが、オレがこの季節、情緒不安定になるのはいつものことだからか、もはや何も言わない。この時期、いつも塔矢はオレに優しくて、それは何かくすぐったいような情無いような気分にさせられるが、毎年それに甘えていた。

 子供の頃の悩みなんてものは単純だったのか、これが原因と騒ぎ立てて解消することもできたものだったが、大人になるにつれ、自分でも何が原因か特定できないほどに要因は絡まり合い、説明下手のオレは何をどう哀しんでいるのか自分にも説明できず、ましてやそれを他人に話すなどということはできなくなっていた。そんなとき、ただ黙って打ってくれる塔矢の存在は有難い。わざと話を逸らしているとわかっても、今の塔矢は何も言わずそれに乗ってくれる。彼もまた、おとなになったのだ。

 よく憶えていないのだろう、心もち首を傾げて、あごに指を掛けながら真面目な塔矢はそれでも回答を憶い出そうとしているらしい。考え込むときの彼の癖だった。

「救ったと言うか……遺体を引き上げたのが河の主の鯉だった、という話だと思ったよ」

 妙な既視感を覚えた。なんだ、その屈原とやらは河で溺れ死んだのか。しかもそれを鯉幟が引き上げたというのか。

 湧き上がる嫌悪感を抑える努力もせず、オレは眉を顰めた。塔矢が軽く目を剥く。

「入水自殺?」

「え。屈原のこと?」

「そう」

「いや、謀略に巻き込まれてだと思ったが」

「そう……」

「……自殺は嫌いか?」

「うん」

「何故?」

「何故って、そりゃ」

 自分も嫌いなくせに。と言おうかと塔矢を見ると、塔矢はあの深い深いいろの眸で、くろとしろに彩られた世界を創るときのあの透明なまなざしで、オレをじっと見詰めるように見上げていて、…――。

「あーッ!」

 思わず大声を上げてしまい、口を押さえるが時既に遅し。耳を塞いだ塔矢に思い切り叱られた。

「突然何なんだ君は!」

「あ、わ、悪い、悪かったです御免なさいー……あああああ」

「……何なんだい一体……」

 頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまったオレを、通行人も訝しげに立ち止まって見ていたようだったが、やがて彼等の日常から弾き出されて、一顧だにせず通り過ぎるばかりとなり、ここでオレを待っているのは塔矢ひとり。この場所で、ただひとり、塔矢だけがあの眸でオレを世界の中に留めている。

 五分ほど経ったろうか。のろのろと顔を上げたら、呆れたような視線とかちあった。オレはいつから、この視線を上で受け止めるようになっていたのだろう。

「気は済んだか」

「うん……」

「じゃあ好い加減」

「塔矢さん。お願いがあります」

 突如として敬語で会話を遮ったオレに胡乱なまなざしを向けて、塔矢の身体は警戒に引いている。笑った。

「何だ」

 硬いこえ。にこーと可愛らしく笑顔を作って益々脅し、後退りする身体に言ってやった。

「あとでオレと背比べしてください」

 は? と本当にまんまるに、後ろの鯉のぼりのような目をした塔矢の背を、立ち上がって声を上げて笑いながら叩いた。

「うん、だからさ。死んだらそんなこともできねーじゃん?」

「当り前だろう、なに莫迦なことを言っているんだ」

「死体、オレが見付けたいなー」

「……屈原の?」

「鯉のぼりの」

 きっと、オレのが背が高い。

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