(魚! おっきな魚が泳いでますよ、ヒカル!)
そう言って、無邪気に笑った佐為の、長い髪のむこうに見えた鯉のぼりが逆光で、眩しかった。
鯉のぼりと同じうねりを以て、ゆらり、ふわり。風に影響されるはずもない佐為の髪が揺れていた。
愛情も憎悪も出逢いも別れも、まだよく理解していなかった幼いオレは、錦を背負った佐為がただ綺麗だと思い、それを次の年も、また次の年も、見られると信じて疑いもしていなかった。
「そういや棋院の作り物にも大騒ぎしてたっけ……魚好きなんかな」
「何の話だ?」
人に聞かせるつもりで発した言葉ではない、そんな大きな声じゃなかったはずだけどな、と苦笑して、視線を上げた。オレの呟きに、律儀にも振り向いて視線を合わせた塔矢の髪も、そういえば大分伸びている。
「おまえ、髪伸ばしてんの?」
眉をひそめた塔矢は、恐らく話を逸らされたことに憤っている。皺の寄った眉間を、風に煽られ舞い上がった髪が一瞬隠した。
塔矢が鬱陶しげにそれをはらう。いつも襟足の下くらいで切り揃えられていた後ろ髪が、首を完全に隠すほどに伸びた今の状況に、まだ慣れていない様子だった。
「別にそういうわけでもないんだが」
「忙しくて?」
「それと面倒臭くて」
自分の容貌に全く興味のないらしい塔矢は、服装や髪型にとんと頓着しない。それでも見れてしまうのだから、何処ぞの誰かに不公平だと言われるのもむべなるかな。
風にそよぐ柔らかな黒髪のむこうに鯉のぼりが見て取れて、既視感に眩暈がする。
「伸ばすのは厭だなぁ」
「は?」
「でも伸びたら綺麗だろうなぁ」
あいつみたいに。
塔矢は案の定、わからないといった貌をしている。
「何を言っている?」
「鯉のぼり」
「ああ、もうすぐ節句……って、いや、だから」
「鯉のぼりなんて嫌いだ」
また顔をしかめた塔矢の、今度の表情はきっと心配顔。怒ってても心配してても同じ貌だなんて器用な奴、とつい笑ってしまう。
「進藤?」
「魚嫌いなの、オレ」
「……緒方さんには言うなよ」
「ああ、熱帯魚好きだっけ、あの人」
熱帯魚に餌をやる白スーツ姿を想像してくすくすとやっていたら、静かな声が聞こえた。
「ボクも好きではないけどね」
魚が? 首を傾げたオレに、塔矢は笑って返した。
「鯉のぼり。ポールに繋がれて、あれでは自由に見えない」
瞠目した。
不意に思う。もしかして佐為も鯉のぼりが嫌いだったのではなかろうか。
縫い止められ、繋ぎ止められ、思うがままに空を泳げない鯉のぼりは、碁石を持てない佐為と同じだった。
そんな佐為を踏み台にしてまで、オレは塔矢と戦いたかった。
そのためにオレは佐為を食ったのだ。
「君はどうして?」
「……頭」
「は?」
「頭頭あたまー、頭ーをー食べーるとー」
「なんだ、その気持ち悪い歌」
「……魚が良くなるのか、つって突っ込んでほしかった」
「……魚が良くなるのか?」
「いんや、頭が良くなったんだ。それが嫌い」
塔矢は真剣に考え込んでいる。真面目な奴。笑って髪の毛を引っ張ってやった。
見掛けが似ているから、やはり髪質も似ているのだろうか。ふれたこともない佐為の髪を想像して指で弄んでいたら、案の定厭そうな貌で反撃された。
「安心しろ、君はどうやっても賢くはならないから」
「ひっでー!」
「褒めてるんだが?」
こんな軽口さえも笑顔でできるようになっているのだ、オレ達は。
時間の流れを感じた。だが、あの季節はもう何度も巡ってきているのに、オレはまだ鯉のぼりが嫌いだった。変わっていない。
「おまえ、やっぱ髪伸ばせ」
「なんで君にそんなこと」
「そしたらオレ、きっと鯉のぼり好きになれるからさ」
「……好きになりたいのか?」
「そうすればきっと、もっと忘れないでいられるから」
「……鯉のぼりを?」
「自由にするんだ」
風が塔矢の髪をゆらし、また鯉のぼりをオレに見せ、オレは目を細めた。