いつも、隅っこが私の居場所だと思っていた。
取り立てていじめられていたわけでもないけれど、まるで道端にある雑草に誰も気付かないが如くに、極自然と無視されていた、それが私の現状だった。
故意に無視されるのならばまだ怒りも湧いたものかもしれなかったが、そんなものではない、ただ私に印象がないだけなのだと知れば、何に激することもできなかった。
昔からそうだった。私は人と話すのが苦手だ。自分から話しかけない人間を、仲間に入れようとする寛容さも残酷さも、持ち合わせてはいない本当の子供達の中で、おとなしい性質はそれだけで気にも留められないものなのだと、私は学んでいた。かと言って、皆の意識に上りたいと積極的に話しかけることは、私には無理だった。
それが悔しいとか哀しいとかではなかったが、教室でひとりで居ることは、何とはなしに恥ずかしかった。にぎやかにはしゃぐ子供達を見ることは、見られていない自分を意識してしまって、恥ずかしかった。
だから、片隅に蹲った。見られることも見られないことも意識せずに済む、狭い場所に隠れようとしていた。
そんな意識を常に抱いて過ごしていた私に、どうして彼女が気付いたのかは知らない。あかりという名の光を抱いた少女は、そんな部屋の片隅まで照らして、私を白日の下に引き摺りだしたのだった。
「ねぇ、部活やってないんだったら、囲碁、やらない?」
公にはなっていないが、囲碁部というものがどうやら存在するらしいことは知っている。以前、真っ白な学生服の男の子が、何やらここの囲碁部を懸命に探していた現場を、私は目撃していた。
声を掛けたいな、とそのとき何故か思ったのを憶えている。自分から働きかけたいと思うことすら珍しい私としては、その出来事自体よりも自分の心情が不可解で印象に残っていた。
多分、その男の子が恐ろしく目立っていたためだろう。真っ白な有名進学校の制服、女の子でも珍しい真っ黒なおかっぱ、格好良いというより綺麗とさえ言える外見、目立つ要素が目白押しで、且つその子がまるで浴びる視線に頓着していなかったことが、私には眩しかったのだ。
この子は多分、見られることも見られないことも、受け流して意識してはいない。そう思い、その境地に憧れた。
そんな理由で、私は初めてこの学校の囲碁部の存在を知ったわけだが、まさか自分が誘われることになるとは思ってもみなかったのだ。
水曜日は定期部活日とやらで、帰宅部以外は授業後、皆一斉に部室に向かう。入っていない者はそれなりの理由がある子ばかりで、ホームルームが終わればさっさと帰り、ざわめきは教室の外からしか聞こえてこなくなるのが、水曜日の常だった。
そんな中、でも私はいつもぼんやりと教室で過ごしていた。教室の隙間、窓やら扉やらのほんのちいさな隙間から、喧噪が静かな教室に流れ込んでくる感覚が好きだった。
そんな中、軽い靴音が近付いてくる。それは当然教室を通り過ぎるものだと思っていたが、がたんと多少重苦しい音を立てて、その足音の持ち主は横開きのドアを開けた。
「あれ? 津田さん?」
藤崎あかりという女の子だった。
彼女は、クラスメイトの中でもちょっと変わっていた。浮いていると言っても良いのだろうか。気付けば教室から消えているような子で、どうやら噂によれば他クラスの進藤とかいう男子と付き合っており、彼に会っているらしいとのことだった。
女の子はその手の噂に敏感だ。人がちょっとでもそういう素振りを見せるとその話題にむしゃぶりつき、そんな自分達の習性を知っているからこそ、他人に噂されるのを恐れて交際を大っぴらにする子は少ない。
けれど藤崎さんは、そのどちらからも自由だった。噂話に加わることもなく、噂話に怯えることもなく、飄々と自分の時間を過ごしている。
今も。
「忘れ物しちゃって。宿題あるの忘れてた、ほら、教科書」
そう言って自分の机から数学の教科書を取り出し、笑顔を見せた彼女は無邪気ながらも大人びた魅力を醸し出していた。
「津田さん、帰宅部だっけ」
「うん。藤崎さんは?」
「一応、囲碁部に在籍……多分」
てへ、と声に出して可愛らしく舌を出した藤崎さんの表情に、ああきっと噂の彼が囲碁部に居るのだろうと思った。
じゃあね、と彼女はスカートを翻して、入ってきた扉に身体を向けた。囲碁部も今日、活動中なのだろう。
囲碁部。あの白い学生服の男の子と共に、また印象深くなる響きだ。
思わず反芻してしまった言葉を聞き咎めて、彼女が振り向く。
「あ……何でもない」
「興味ある?」
何処か悪戯っ子じみた笑顔を浮かべて、彼女は朗らかに言った。
「ねぇ、部活やってないんだったら、囲碁、やらない?」
そのときの私の顔は、多分とても間抜けな表情をしてしまっていたと思う。ぽかん、という形容は、こういうときに使うのだろう。
暫し彼女と見詰め合ったのち、私の口から出てきたのは表情より更に間抜けなものだった。
「どうして?」
「何となく」
「でも藤崎さん」
「あかりで良いよ。私も久美子って呼んで良い?」
そのとき、もう半ば私の心は決まっていたような気がする。
「私、囲碁なんて知らないよ?」
「大丈夫、私も知らなかったもん。知らなきゃ憶えれば良いのよ」
できなければ、やれば良い、それだけなのかもしれない。
思わず手を伸ばしたら、彼女は曇りない笑顔で私の手を取り、指先を絡める。手を繋いで歩く、そんな行為に、女の子としているのに、私の心臓は鳴りっぱなしだった。
「藤崎さん」
「なに? 久美子」
「あ……かり、は、……どうして囲碁を始めたの?」
んー? と天を仰いで、彼女は唸る。
「知りたかったから……かな?」
「……進藤君のこと?」
「わ! な、なんで知ってるの?」
「結構有名だよ、あかりと進藤君が付き合ってるって噂」
「え、知らなかった!」
初め吃驚と、いずれきゃらきゃらと笑う彼女の瞳に恐れはない。余所事に振り回されることに対する畏れが見られない。
「付き合ってなんかないんだけどね」
「そうなんだ? 片想いとか」
「それもどうかわからない状態。だから知りたいと思ったんだ、自分を。ヒカルが変わった原因を知れば、私のこともわかる気がして」
「進藤君? 囲碁で変わったの?」
「うん、多分ね」
「それとあかりに、どんな関係があるの?」
「……もし、私がヒカルを意識し始めたとしたら、それからだから。かな?」
幼馴染みなのだと、彼女は言った。本当に子供だったのだと、健やかに言う彼女は、それが恋である必要もないときっと思っている。無論、恋であっても良いと思っている。
重要なのは、自分が何を思っているかであって、他人がどう思っているかではなく、進藤君がどう思っているかですらなく、それは彼女にとって、周囲の口さがない流言に傷付けられて良いほど軽いものではないのだ。
本当に進藤君を大事に思っているのだ、と思った。
当の進藤君はと言えば、私の予想とは大分違うタイプの男の子だった。確かにこの歳から女の子と付き合うような人間ではないだろう。
ただ、あかりと視線は似ていた。自分のほしいものにひどく貪欲なにおいがした。荒廃の見られない健やかな上昇志向。まっすぐに自分を見詰める眸。
彼等は怖くはないのだろうか。ほしいものをほしいと言うことが、怖くはないのだろうか。自分のほしいところのものを理解していることが、そしてそれが世間の目に晒されることが、怖くはないのだろうか。
否、怖いのだ。周囲に振り回されることがなどではない、周囲を振り回し、周囲を置き捨ててゆける自分が、恐らくは。
進藤君は間もなく、院生になるからという理由で、囲碁部を辞めていった。あかりはそれを見て、でも自分は辞めないと言った。いとけない眸で痛々しいほど鮮やかに。
自分のために色々なものを捨てられる、その潔さが、だが彼等の傷を生まないということもなく、傷付きながらも、だが傷を恐れることで失ってしまう何かを、彼等は知っているのだ。
安っぽい言い方を許してもらうのならば、それが自分らしさというものなのだろう。あかりと進藤君を格好良いと思った時点で私は、クラスに私は迎合できなかった以上に迎合したくなかったのだ、と気付いた。
ひとりが恥ずかしかったのは、寧ろ恥ずかしいと思ってしまう自分に対してだった。
このぐらいの年頃の女の子には隠し事が殆ど存在しない。クラスのひとりが知っていることは、クラスの皆が知っていることに等しい。何某かの噂は一日もあればクラス中に広まるのが当り前だった。クラスの秘密を共有することは当り前のことであり、共有しないことは恥ずべきことであった。
中心から外れることは、決して恥ずべきことなどではなかったのに。
それは、自分の中の大切なものを切り売りして、代わりに他人の部品をもらう、そんな物々交換ならぬ価値観交換だった。否、そこまで大事なものでもないから、簡単に他人に受け渡せるのだろう。或いは本当に大切なものは、皆、誰にも話さず隠し持っているのかもしれないが、それは表に出ることなく、話せない事柄があることすら予感させられない。それを気取られたら最後、皆に毟られるように奪われるのが目に見えている。
あかりのように、大事なものがあることを隠しもせず、それを皆と共有するでもなく、保ち続けていることは、中一の女子としては奇跡に近いと、のちに思った。
進藤君が囲碁部を去ってのち、あかりがちょくちょく教室から消えることはなくなった。進藤君を切り捨てて、進藤君を追うことを止めて、自分の道を知った彼女は今きっと進藤君に恋をしている。
同じ道を追い掛けていても、いつか未来で会うことはないのだ。ただ自分の道を歩き、いつか交わるときを今か今かと待っている。そしてそれは今ではない。進藤君の歩みは速い、全力疾走よりもきっと速い。諦めではなく逃げではなく、自分のために出逢うたったひとつの方法は、別の場所で自分が咲き開くことだった。
そのとき、誇れる自分で在れば良いのだと、彼女は既に知っている。
塔矢君がね、そういう人なの。あかりが話した進藤君のライバルとやらは、あの白い学生服の男の子で、ああ成程と納得する。
あの人も、自分で自分を知っている人だった。自分が自分であることを誇りにしている人だった。
人と同じ方法である必要はなく、人に理解される必要もなく、ただ自分で自分を立たせてやれば良い。
それだけであの男の子は、進藤君のたましいを引っ張っていったのだと。
「敵わないよねぇ」
あかりは幸せそうだった。自分で自分を幸せにする術を知っている人はつよい。
思えば、私にとっても初恋だったのだ。塔矢君にも、進藤君にも、そしてあかりにも、それはひどく恋だった。
それは独立だった。独立はいつも甘く、そしていつも切ない。
あのとき、あかりは何故私を誘ったのだろうと、今も思う。ただただ片隅に隠れるようにして生きていた私は、どう考えてもあかりの好みではない。私の反骨精神とでも呼べるまっすぐな捻くれ方は、明らかにあかり達と付き合いだしてからのものだ。そんな気質、私だって知らなかった、それをどうしてあかりは掘り出せたというのだろう。
きっと彼女は、あの無邪気に見える笑顔で、こう言うのだ。
だって久美子が外に出たがってたでしょ?
高校は、あかりと別の学校だった。当然だろう、教え合ったわけでもないのに、新たな教室でまたひょっと顔を合わせたら、何かに仕組まれていると笑っても良い。
教室に入るとき、おはよう、と高らかにこえを上げる。子供じみた大声に、幾人かは顔をしかめ、幾人かは無視を決め込み、幾人かは挨拶を返し、幾人かは笑顔を向ける。
産声のようだ、と思った。
笑顔で席に着く。
今日もこれから、私は私を始める。