赤根指 日之暮去者 為便乎無三 千遍嘆而 戀乍曽居 茜射す 日の暮れゆけば すべをなみ 千度嘆きて 恋ひつつぞ居る

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 行洋がそれを私に告げたのは、電車で痴漢に遭って腐した気分で帰ってきた日の、茜色も美しい夕方のことであった。

 灯りも点けず、朱に染まる部屋でひとり坐していた彼は、お帰り、と一言声を掛けたのち、徐ろに切り出した。

「明子。引退しようと思う」

 しようと思う、じゃアないでしょう。引退する、でしょう。

 厭な男だ、と殴り付けたい気分になった。私は未だこの男を愛していると云って吝かではないが、何時もこの男は間の悪いときに私を大事にして、それは私を苛立たせる。

 何もこんな、自分が女の身体なのだと再認識させられたときに云わなくても。行洋のせいではない、それは重々承知していながらも、何時もこの男は間が悪い。不器用で、そこが愛おしい。嗚呼矛盾している。

 行洋は棋士であった。将棋のほうではない、碁の棋士だ。将棋は天才の作ったゲームと云われるが、囲碁は神様の作ったゲームと云う。そんな神と戯れる世界に長年身を置いてきた男は、だが彼にできる精一杯の愛情表現で私に、息子に、接してきた。嬉しくないわけではない、時に泪が出るほど嬉しい。だが時としてそれは、私が決してその世界に入り込めないが故のことなのだと、身を捩られる思いに突き落とす。

 明、と、息子に私の名前を付けた行洋の気持ちはわからない。もしかしたら無意識に、自分のような碁打ちでしかない人間になってほしくなかったからかもしれないし、或いはその逆では、と思えば、そちらのほうが納得できる。

 他人として、息子に自分の前に立ってほしかったからではないのか。それだけではなかろうが、それも確実に一因であると云って差し支えないだろう。

 だから、私は時折、私の名前を持った、私に佳く似た面差しの、だが眸だけが私を裏切る、行洋と同じまなざしを持ったアキラに、嫉妬に近い気持ちさえ抱く。抱いていた。そして同時に期待していた、アキラならば私のできなかったことをしてくれるのではないかと、行洋の前に坐れるのではないかと、そうして私の顔をアキラに見て行洋が対局中にも私を憶い出すのではないかと。

 だが、間に合わなかったのだ。アキラは確かに途轍も無い早さで上っていったけれど、それでも間に合わなかったのだ。

 今の言葉で、それを悟った。

 ただ一言、そうですか、とだけ応じ、膝を上げて茶を淹れた。行洋は困惑している。私の不機嫌に反応している。私が反対するなどと微塵も考えは及ばなかったのだろう。ええ、えェ反対なんかしませんとも、反対なんかできる筈もありませんもの、佳くわかってるじゃアないですか貴方。私は貴方のそんな魯鈍なところも愛しているのですよ、そのくらい佳くご存じでらっしゃいますわね貴方。

 どうせなら、私に何の相談もなく、辞めてから告げてくれるのでも佳かったのだ。私もアキラも置き去りにして、そうしたらただ受け入れるだけで済んだのに。

「なら、忙しくなりますわね。あなたと戦いたい棋士の方々や、取材陣や、きっとどっと家に押し掛けますわよ」

 それでも精一杯微笑んだ。アキラがこの人の背中を見て育ったように、私もまた、この人の背中に惹かれて結婚したのだ。

 行洋は、碁打ちでしかなかった。それ以外の何者でもなかった。私が知る頃、既に碁界のトップであった行洋は、数こそ変動すれども、タイトルを欠かした姿を私に見せたことはない。前しか見たことがなく、ただ背中を見せるしか知らない人だった。

 その世界の頂上で、ひとり、前に進むしかないのだ、彼は。家族の居なかった行洋にとって、私やアキラがどれほど必要なものか、わからないわけではない。だがそれでも最後には、妻より子供より、彼は碁を選ぶ人間だった。だから愛した。

 その孤独な背中に寄り添うように。

「進藤君が」

 不意に話題を変えた。行洋はこのようなとき、何も云わず話の続きを待つことにしているらしい。相手の出方を見極めてから行動に出ようとする、それも勝負師の癖だろうか。

「あのあと、進藤君が電話をくだすったんですのよ。ひどく不安そうな声で、塔矢先生は本当に引退するんですかって、必死に」

 微笑む私の眼前で、行洋は珍しく驚愕も顕わに、子供のように目を丸めている。そうしている表情はアキラにも似ている、と微笑ましい気分になった。

「あの子は、てっきりアキラさんのお友達かと思ったのですけど。アキラさんに関係なく、あなたが打ちたい相手でらしたのね」

 行洋に引退を決意させた、原因は多々ありすべてを列挙することなどできぬだろうが、端的な切っ掛けは蓋しあの子だろう。何があったのかは知らない、ただ、アキラと同い年だというあの子が来てのちの、インターネットでの対局を境に、行洋は変わった。そしてあの子は、誰も知らない行洋の引退を知っていた。

 彼の変化は年と共に常に緩やかに続いてはいたが、自らの転機を碁打ちとしての貌で私に悟らせるほど、彼は若返ったのだと云って佳い。それは碁打ちとしての転機だ。決して私や、彼の子供としてのアキラには与えることのできぬ何かを、あの金色の子供は行洋にもたらしたのだろう。

 それはひどく絶望であった。アキラも感じるのだろうか、あの、何時の間にか碁打ちとして父の前に立ちたがっていたあの子は。

 行洋を碁打ちとして変えることのできた、同い年の子供に、嫉妬するのだろうか。

「……進藤君は、アキラのライバルだよ」

「まァ。では、アキラさんを変えたのも、進藤君なのですね」

「変えた……?」

「ええ。アキラさんは何時もあなたの背中を見て、それに満足してましたが、何時からか、あなたの正面に立ちたいと、そう決意するようになっていたんですよ。ご存じないはずありませんわよね」

 行洋の子供であったアキラを、そしてそれに深い満足を抱いていたアキラを、行洋から引き剥がしたのは、単にアキラの年齢かと思っていた。

 私が疾うの昔に諦め、それでも尚夢見る立場を、希み、それに邁進できる息子を見る私の眸は、昏かった。

 ただの碁好きの子供から、何時の間にか修羅の眸になっていた、自分の腹を痛めた筈の、見知らぬ我が子を。

「アキラさんにライバルができて、あなたは嬉しく思います?」

「明子……?」

「私ね。本当はあなたの妻でなく、あなたのライバルになりたかったんですのよ。ご存じでした? 背中に寄り添うより、目を鋳つぶすほどに、睨み付けた先で理解したかった」

 昏い、闇い希み。少年の成長を願う女の希みとは、斯くも闇い。

「あなたが、進藤君をアキラさんのライバルだと云うのでしたら、そうなのでしょうね。つまりは、あの子はあなたのライバルではない。でもあの子が、あなたのライバルを連れてきたんですの?」

「私のライバル?」

「ええ。あなたはアキラを、緒方を、その他にも沢山の人を育ててきたけれど、誰もあなたに追いつけなかった。あなたのためのたった一人のライバルは存在しなかった」

「……それに、なりたかったと?」

「……わかりません。なれなかったと、思い込んでいますから」

「……それは」

「内廼偉さんのように、女だてらに……そう、女だてらにという謗りややっかみ、嫌悪を受けようと何だろうと、上を目指せば、私もあなたとタイトルを争えるようになれたのでしょうか」

 中国で女性棋士が初のタイトルホルダとなったのは、記憶に新しいところだ。囲碁は将棋ほど一般と女流との差が大きいわけではなかったが、それでも棋力は格段に男よりも落ちる、それが一般認識であり、また事実であった。

 恐らく、その伝説を打ち破った内廼偉は、特別、という言葉で評される人物なのだろうとは思う。特別扱いされることが即ち、女であるということの現実だ。

 縦え私一人が行洋のライバルになれたとて、解決などしない問題であることは承知している。だからと云って希みを捨てて、彼の妻に収まったことが果して正しい道であったのか、と云えば、未だ私には答えが出ない。

 愛情と同じ処から湧き出る凶暴な感情が、女なれば牙を剥くことが許されないのならば、何故この身に残されているのか。

 喰い尽くしたい。襲い掛かって掴み掛かって殴り付けて噛み付いて、愛する男を愛以上に震え上がらせて喰らい尽くしたい。

 私と同じ顔の、私の名を掲げた子を見ていると思うのだ。否、思いたいのだ。あれは、在れたかもしれない私の姿なのではないか、と。

 もう一人の私、獰猛で残忍な肉食動物。アキラは獅子になった、聞けばあの金色の子供を昏い尽くすために。

 そんな半身を捨てたのは、はっきりと自分であると云えるのに。恨み言を云いたくなるほど、行洋は常に孤独だった、頂点だった。あまりにも遠かった、それは多分男であっても。そんな人物だったから愛した、この矛盾。

 せめて愛が返されなければ、まだ牙を剥き続けていられたかもしれない、と憎々しく思うのは、敗北感と裏腹の自分に対する失望だ。

 ねぇ行洋さん。思うのよ、あなたはあのとき、私が輪姦されなくてもわたしのことを妻としたのかしら、ああ無意味な仮定だなんてことはわかってるの、でも考えるのよ、あのとき私を庇うためにあなたは緒方に嘘を吐いてくれたけど、それは同情だったのかしら、それともその前から私のことが好きだったのかしら、まぁどちらでも構わないわ、どちらにしろそれでお仕舞い、私はあなたに惹かれていたけど、本当は緒方よりも惹かれていたけど、それでもあの瞬間に終わってしまったのよ、あなたを倒したいほど焦がれてた私は、緒方で思い知ってたはずなのに、レイプした男達で思い知らされてたはずなのに、わたしはあなたには期待していたのよ、でもあなたにとっても私は女でしかないんだわと、それは絶望だったわ、あなたは知らなかったでしょう、私はずっとあなたに焦がれていたのよ、塔矢行洋、昔は信じていたのよ、あなたを倒せるかもしれないと、倒したいと、心から、あなたが私を妻にしなければ、私はあなたと今でも戦っていたかもしれない、あなたに引退を決意させるほどに、ああさせたかった、私が碁打ちのあなたを引っ掻き回したかった、引き摺り倒したかった、それが誰よりもあなた自身だった、碁打ちがあなただった、でもあなたは私を愛した、あなたに愛されるこの身が憎い。

 この身のある絶望。

 戦えなかった諦念と、貴方に愛されたかった欲望と、私にはもう区別が付かない。

「……アキラさんは、幸運でしたのね?」

「?」

「ライバルに出逢えて。ひとりじゃないですもの」

「……ああ」

 肯定するのですか。肯定するのですね。

 あなたは、私やアキラと居ても、常に一人だった。誰よりも貴方が貴方で在る場所に、私は行けない。

 辿り着こうと足掻いていた、アキラも緒方も置いて、貴方は断崖のもっと上へ進んでしまう。無論、私など歯牙にも掛けず。

 なのに貴方ときたら恐る恐る、子供が母親のお叱りを待つかのように弱々と、私に引退を告げるのだ。女であれば何も許されないなどと、何故考えてしまうのかすら叫ぶことも許されず口を噤み息を殺していた私を、笑わせてくれたのと同じ眸で。

「強い人が、居らっしゃってよかったですわね、あなた」

「何処に誰が居ようと居まいと、私が碁打ちであることに変わりはないよ」

「それはそうでしょう。ねぇあなた、アキラさんがもっと成長して、あなたを倒せるほどになったら、――」

「私も成長している」

 そう来るかこの莫迦。

 途端、弾けるように笑い出した私を、不思議そうな眸で見詰める、それは少年だった。

 ねェ貴方、その先に、誰かが居たと云うのならば、どうかその人に告げてください。

 私は憎いほど貴方に感謝していますと。

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