何故、藤原佐為の取り憑く相手が、本因坊秀策と進藤ヒカルという、碁の名手でなければならなかったのか。
わたしは霊能力者でも来世信奉者でも何でもないが、「佐為が幽霊である」という観点から、上記の事柄を考えてみたいと思う。
佐為は碁を打つことが望みであった。それは取りも直さず「自分が打つこと」が望みである。
それだけを考えれば、取り憑く相手は寧ろヘボの碁打ちのほうが好ましいようにも思える。ヘボというよりは、自分が碁を打たずとも耐えられる乃至佐為の棋力を生活の糧として利用できる精神の持ち主であることが好ましい。
取り憑かれた当人が、幽霊に自分の身体を乗っ取られて碁を打ち続けられるても良いと思うには、それなりのメリットが必要である。自分で打ちたいと主張するだろう塔矢行洋や塔矢アキラなどは、その点佐為を取り憑かせるのに決して向いた精神の持ち主ではない。
しかもそのような可能性を排除した上で、連載開始時のヒカルのように「佐為の力でちょろっと稼いでやれ」とでも思えないような繊細な人間では、四六時中他人を精神の中に棲まわせているなどというデメリットには耐えられまい。
即ち、上記の結論に達するのである。佐為の憑依相手として適する相手は、熟練した腕など持たず、潔癖でない人物、と。
だが実際には、本因坊秀策も進藤ヒカルも、適任者などでは決してなかった。
まずは本因坊秀策。彼は能力的にお城碁指南役を目指せるほどの才能があり、自分の一生を碁に捧げることを、佐為に逢う以前に決意していた人物である。その彼が佐為に打たせ続けたのは、あくまでも佐為に対する友情と、或いは佐為の才能に対する卑屈だったのかもしれないが、兎にも角にも、その譲り続ける行為が秀策のストレスとなってゆくのは目に見えている。流行病に罹らなかったとしても、ストレスを長年溜め続けた人物が長生きできるはずもなく、秀策の肉体は、佐為の「神の一手を極めたい」という願いには即さない。
次は進藤ヒカル。才能は読者の方々に今更言うべくもないが、性格的にはもっと適さない人物であることは、「佐為に打たせなかった」ことからも明らかである。
このように、佐為は自分の望みを叶える相手に取り憑けたわけではないことがわかる。
では、佐為が取り憑くことのできる基準とは、一体何だったのであろう。
完全に自身で把握していたのか否か、佐為は答えを提示していた。
小学生のヒカルが中学生に紛れて囲碁大会に出場させられたとき。まだ石を触って数度のヒカルが、過たず一手目から手順を憶えていた様を見て、佐為はこう言ったのだ。「何故私がヒカルに引き寄せられたのかやっとわかった」、と。
詰まるところ、碁の才能。佐為が取り憑くことのできる相手というのは、碁の才能に長けた者であるのだ。
これは上記の「佐為が打ち続けるための」最適化という観点からは全くそぐわない、非効率的な憑依である。だが実際、それでなければ取り憑けないのである。
ならば何故、被憑依者に碁の才能が必要であるのか。
佐為に肉体がないため、と考えるほかないように思われる。
仮に、碁の才能に長けているとは言い難い、藤崎あかりに取り憑いたとしよう。このとき、佐為の言葉通りならば、彼は「精神の片隅に棲まわせてもらう」のである。つまり、あかりの精神を以て、佐為は「生きる」のである。
これがどういうことか。即ち「あかりの精神」≒「思考能力」≒「脳の機能」を利用して、佐為が思考するということになる。
魂があるかないかなど知ったところではないが、少なくともそれを現実世界に具現化するには、物体が必要なのである。この場合、佐為という精神体を体現する物体は、藤崎あかりの肉体、特に脳である。
つまり、憑依したその時点で、佐為には生きている人間と同様、「肉体の枷」が生まれる。思考の限界が肉体の限界によって制限される。
それは即ち、碁の才能という観点からのあかりの脳の身体的能力では、佐為という天才棋士の能力を一部しか具現化できないということである。否、現実に表現されないだけならばまだ良い、入り込めなかった佐為の能力の一部分が、霧散して失わないでいられると誰に保証できよう。
佐為が居なくとも佐為ほどに打てる可能性を持った、天才的な身体的能力を持つ器にしか、佐為が入り込めないのはそのためである。