The Missing Piece 光の欠けた部分に、光が欠けた部分に。

Essay

 『The Missing Piece』という童話がある。欠けた円が、その欠けた場所にぴったりと合う欠片を探す話なのだが、アキラを見ていてこの童話を憶い出した。

 塔矢アキラにとっての進藤ヒカルが、この「ぴったりと合う欠片」だったことは言うまでもない。番外編を見るまでもなく、塔矢行洋の一人息子として敵なしだったアキラが求めていたのは、端的に言って同年代のライバル。もっと言えば、塔矢行洋の息子というアイデンティティを打ち壊し、ただの塔矢アキラに還すための起爆剤。

 アキラを倒すほどの腕(佐為)を持ちながらもアキラ達棋士を侮辱し(ヒカル)、かと思えばそれに見合わぬ美しい碁を見せ(佐為)、それでいてアキラと打たない(ヒカル)などと言いだし、追い掛けてみればただの初心者(ヒカル)で、もう会わないとアキラが言えば逆に追い掛けてきて(ヒカル)、まだそれほど強いわけでもない(ヒカル)のに、ひょっとしたら世界を股に掛ける強者(佐為)の可能性もあり、プロになったかと思えば今度は碁を打たないなどと言いだし(ヒカル)、次にずっとこの道を歩くと宣言しに来(ヒカル)、実際に戦ってみれば自分と対等に戦える好敵手。

 ヒカルに逢わなければ、行洋の後を追うようにそして行洋の枠から逃れられぬまま、二世として碁界を背負ったであろうアキラは、謎だらけのヒカルに引っ掻き回され、それにかまけている間に通過儀礼を済ませたのである。つまりは、塔矢行洋からの脱却。それはアキラの成長そのものである。アキラがアキラ個人として自我を確立するために、大きすぎる塔矢行洋以上にアキラを壊せる人物が、アキラという個人には必要だった、それが進藤ヒカルというピースである。

 だから、読者にストーカーと言われようが学校で手段を選ばなかろうが、アキラがヒカルを追い掛けざるを得なかったのは、仕方無いことだと思ったのだ。アキラがアキラとして生きるために、彼はヒカルを求めずにはいられなかった、それを誰が止められよう。

 まさに、ヒカルはアキラにとって「欠けた部分のピース」である。

 だが、逆はどうだろうと考えると、実はこちらのほうがわたしにはわからない。つまり「進藤ヒカルにとっての塔矢アキラ」の位置付けである。

 ヒカルの何処にアキラが収まるのだろうと考えると、ヒカルという存在はまるでロールプレイングゲームの主人公の様相を呈しており、英雄が「何故世界を救うのか」、ヒカルで言えば「何故塔矢を追い掛け始めたのか」の問いが、無効化されているようにさえ、わたしには見えたのだ。

 ヒカルが母に語った「同い年の子供に見下されたから」というのは正しくない。何故なら、その前から彼ははっきりと塔矢アキラを目標と定めて碁を打ち始めている。その上で、アキラに打たない宣言を出し、自らの力を蓄えようしていた。

 ヒカルをそこまで駆り立てた、その理由がわたしには最初原作から読み取れず、どちらかと言えばヒカルを追い掛けるアキラよりも、アキラを追い掛けるヒカルのほうが、余程ストーカーじみて見えたのだ。

 多分にそれもあって、わたしはアキヒカよりはヒカアキである(ここで書いてあるのは、肉体的な上下よりは気持ちの方向だと思ってください……受け攻めはよーわからん)。アキヒカではまるでヒカルがアキラに惹かれた理由が説明されないままであるが、ヒカアキならまだ、アキラに一目惚れしたからなどというヒカル側の根拠が示されるからである(こんなこと考えながらやおい読んでる女って厭だな…。)。

 だからと言って原作がホモなわけではなく、ならばどういう理由があるのだろうと、ヒカル側の欠けた部分を考えてみた。

 欠けたところがなければ何かに惹かれることもないとは言わないが、それにしてはヒカルがアキラを追い掛ける様は、アキラと同程度に必死だったように見え、そこがまた違和感であった。彼は決して軽い気持ちでアキラを追い掛けてなどおらず、それはヒカルが天職を定めたことのみならず、佐為を殺したことからも伺える。

 ならば、アキラにとってそうだったように、ヒカルにとってもアキラは「欠けた部分にぴったりと嵌るピース」だったのだ、と考えざるを得なかった。つまり、ヒカルにも欠けた部分があり、それにアキラが合致したということである。

 つまりは、見えなかったのは「ヒカルの欠けた部分」なのである。彼は物語の中でまさに「主人公」であり「周囲を置いてゆく者」であり、それは「ロールプレイングゲームの勇者」である。勇者が世界を救う理由など、明確に描いては主人公に取り憑く者(読者、そして或いは佐為)が、主人公と一体化することが難しくなる(まさに! ヒカルがアキラを追い掛けてヒカルになればなるほど、佐為とヒカルの別離は近付いてゆく)。RPGの手法として、ヒカルの世界を救いたいという理由を描かないことは正しい。

 だが、この物語はそれでもそこに「理由がある」ことを、決死とも言えるヒカルの態度によって明言してしまってもいる。

 この物語は『ヒカルの碁』であり、ヒカルが主人公でありながら、実はヒカルの心理があまり描写されていない。その手法は効果的であり、それによって引き立つ脇役達を糧として、ヒカルはRPGの主人公さながらに順当にレベルアップしてゆく、時にその魅力的な脇役達を手酷く置き去りにしながら。

 そこまで様々なものを犠牲にしながら、真っ直ぐアキラに向かって突き進んだヒカルの心理は、一体何だったのであろう。

 つまりは、それがヒカルの「欠けた部分」。物語で明らかにされなかったヒカルの形骸。

 ヒカルが碁を打ちたいと思い始めた理由は、アキラである。しかもアキラの何に惹かれたか、それはアキラの真剣の理由を考え始めたところから始まっている。

 ヒカルになかったもの、それはアキラによってはっきりと「真剣になったことがないのか」という問いで明言されている。だが、ヒカルの側がその「自分の真剣」を求めていなかったのならば、その問いはまるで意味を成さなかった。ヒカルは何にも気付かず、アキラの真剣を受け流したであろう。

 ヒカルがそれをできなかったのは、ヒカル自身が「真剣」を求めていたからである。しかもそれは「アキラの真剣」をではない、「ヒカルの真剣」を。アキラの真剣を求めるだけならば、ヒカルは佐為に打たせるだけで良かった、それだけでアキラの本気は得られたであろう。

 だがヒカルは自分で打ち始め、例えアキラの真剣を失おうとも佐為の力ではない、己の力でアキラの真剣と対峙しようとした、それこそがヒカルの望みであったのだろう。アキラによって触発され、ヒカルが求めたいと思ったもの。

 真剣を突き詰める姿そのものが、ヒカルに欠ける部分である、とここに来てようやく言える。つまり、ヒカルにとってのアキラとは、何故自分を追い掛けるのかと自身に問いを突きつける、あの雨の日の存在そのものである。

 その真剣を知らぬ姿をして、わたしはかつて離人症に近いものと称したが、これは現代の人間が誰しも多少なりとも抱える問題ではないかと思ったのだ。

 特別な環境ではない、極一般的な家庭の子供、ヒカルの抱える空虚。所謂大人の言うところの「今の若い子は」という軽い外見と軽い言動(実際にヒカルはそのように言われている)。

 多分に、親としての原作者が、そして女としての原作者が、見詰めてきたもの、そして望むもの。

 わたしが、ヒカルの碁を或る意味で究極のやおいと思うのは、視点がひどく女のものに見えるからだ。自分や友人や立場や何もかもを置き去りにしてすべてを傾けるほどの情熱のある男に、なれなかった自分の代わりに成長してほしい、そんな昏い望みが見え隠れするからだ(ヒカルとアキラが共に母親の名を継いでいることは明ら様な暗喩のような)。

 と、ここまで書けば、わたしにはほったさんがひどくヒカルのことを冷めた目で見ていた、或いは書いていた理由がわかったような気がする。

 あれは、自分の手を離れて飛び立つ、飛び立ってほしい、光のこども。

 わたしたちの欠けた部分にぴったりと収まる、決して何処にも収まらない、無限のピース。

 と、言うまでもなくこれもわたしが勝手に自分の欠けた部分に当て嵌めているだけの話である。わたしはあくまで「わかったつもり」になって安心したいだけの話であり、だからと言って彼等が、特にほったさんがわたしの言うとおりであるとは信じてはいないのである。

 わたしが断定口調で話すのは、あくまでも自分自身のためである。

 わたしがわたしを追うために。

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