囲碁莫迦対決 佐為とアキラ、どちらがより莫迦か。

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 佐為とアキラとどちらがより囲碁莫迦だろうとふと考えた。

「存在理由にすがる奴は弱い奴だぞ」

 ダークウィスパーという漫画で、主人公(ではないが、つい・笑)のコヨミが斯く言ったことを憶い出す。

 アキラなら、佐為のことをこのくらいは思うかもしれない。そう思った途端、答えは出た。

 佐為は幽霊であるが故に、肉体の枷がないが故に思考は純粋である。逆に言えば、幽霊でなかったらそこまで純粋に囲碁を想い続けることは不可能だったのではないだろうか。実際、佐為の平安時代を覗くとそこまで碁しか存在しない人間でもなかったようだが、現在は幽霊であるからこそ、囲碁のことしか考えられない。碁が佐為の「唯一の」存在理由となったのが死してのちのことであろうことは、逆に死してのち、それしか考えられなくなった、つまり囲碁に思いを残して死んだことからも推測される。したくてできなかったことをしようとするのが、幽霊というものである。

 しかし、2歳のときから碁を打ち続け、打つことしか存在する術を知らないアキラは、生きている現在にして、碁を打って生きる以外に存在理由を選びようがない。

 佐為のように、卑怯な手で負けたからといって碁を打つことより死ぬことを選ぶこともできない、そんな生き物が塔矢アキラである。

 塔矢アキラは、生ある肉体を以て、既にして囲碁の怨霊と近い境地に達している。

 彼は死に意味を見出すことなどできないであろう。彼の世界にとって意味のあることは、碁を打つこと、それだけ。選んだわけでもなく選ばれたわけでもなく、塔矢アキラという存在は、碁を打つ自分という原罪を完全に受容している。だからこそあそこまで無欲な自己中心的人物である。

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 塔矢アキラの育ってきた環境は特殊であると言える。囲碁界を背負って立つ塔矢行洋を父に持ち、その行洋をほぼ完全に許容する明子を母に持つ。

 塔矢行洋という人物が、かなり偏った志向の持ち主であることは簡単に見て取れる。所謂「碁莫迦」である。だが碁ばかりに神経が向いて、子供に対し愛情がないかといえばそうでもなく、アキラが非常に良質の愛情を両親から浴びるように受けて育ってきただろうことは、アキラの潔癖なまでの卑屈のなさを見れば一目瞭然である。

 両親は、アキラを愛した。そして行洋が子供に与えられる最大のものが、碁だったことは想像に難くない。最後のところで妻より子より碁を選ぶであろう至高の棋士は、その自分の最も大事な碁を、世界で最も美しいと行洋が考える世界を、子供に見せたのだ。そしてそれを止める母親も塔矢家には存在しない。

 塔矢アキラは、美しいものを美しいと言うことを憚る必要のない場所で、自分の感性を自分の中に育むことを完全に許される環境で、伸び伸びと自分の、そして父の美しいと思うものを愛し続けたのであろう。そして打つことで表面化させ、更に内面化することにも問題などなく、寧ろ歓迎される状態で、健やかに朗らかに、そして一般の子供から見ればこの上なく偏屈に、育っていったのである。

 同い年の友人など1人も居なくとも、誰に理解されず学校で苛められようとも、塔矢アキラは自分の美しいと信じるところのものを手放さずに育っていけるほど、本当に奇跡のように愛されており、しかもそれを自覚していた。

 彼の持つ世界の中に、もし足りないと彼が感じるものがあったとしたらそれは、友人でもゲームでも漫画でもなく、父以上に自分に囲碁の美しさを見せてくれる、つまり自分と同等に戦える相手でしかなかったろう。

 彼の欲はあくまでもその「美しい碁」「神の一手」にしか向かってはおらず、或る意味では無私無欲と言える。だからこそ欲していた進藤ヒカルという相手にあれだけ我儘な振る舞いを見せていても、醜い私欲というものを感じさせないのである。

 彼の欲はいわば碁の中に完全に満たされており、その外に欲を置くなどということは彼にとって考えつきもしない、或いは考える必要もないことなのだろう。彼にとってその我欲は、塔矢アキラという存在そのものになっている。

 そして成長し、外に世界を知って尚盤石になるその透明に肥大した欲望は、外界との軋轢によって生じた研磨により、一層美しさを増したようにわたしには思える。

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 そのように育った彼は、自分の存在理由などというものを考えない。否、考えることもあるのかもしれないが、それを囲碁から切り離して考えることは決してない。碁を打つ自分という存在を完全に許容している、とはそういうことである。

 だから彼は、その事実には、ひどく穏やかに微笑むだけである。

 囲碁大会に紛れて出場した小学生のヒカルに対し、驚愕ののちに対局相手が自分でないことを悔しいと微笑んだような。プロ試験予選を通ったヒカルを思い返し、足音を感じて厳しい目をしたのちにふっと微笑んだような。見ているこちらが切なくなるほどの欲望にまみれた欲望の見えない微笑。自分の原罪を認めているアルカイックスマイル。

 碁を打つ自分というアイデンティティを押し潰し、切り刻み、メタメタに傷付けるはずの強いか弱いかもわからない進藤ヒカルという驚異の存在を確認して、だが彼は微笑むのだ。

 自分の自我がそこにしかないと、運命の許容とでもいえる強さで彼は襲い来る驚異の存在に微笑むのである。

 外界からの驚異に対してはあれだけ無視にも近く気に留めないでいられる冷徹さが、自身の存在に関わる進藤ヒカルに対しては存在しない。誰よりキツくヒカルに当たるその姿は、塔矢アキラ自身に対しての厳しさに他ならない。

 彼は、碁打ちの自分という自分の存在から逃げない。そんな彼が、進藤ヒカルという存在から逃げずに向かっていくしかなかったのは当然の理である。

 逃げ場がないのか、ないと知っているのか、あっても逃げ込みたくないのか、逃げるという器用ささえ持っていないのか。微妙なところだが、兎にも角にも、彼は「逃げない」。怯えながらも震えながらも「逃げない」。それだけが事実である。

 佐為は、碁打ちのアイデンティティを脅かす驚異から逃げて死した。彼は自分の存在理由に迷いを抱いたのだ。アキラはそれもできないほど、碁が生に結びついている。碁打ちの自分どころか碁そのものをヒカルに否定されたとしても、彼は打ち続けている。

 だからわたしは、佐為よりもアキラを碁莫迦だと思うし、美しいと思う。

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