終局  番外編

 書こうか書くまいか悩んでいたのですが、うーん。番外編の感想。

 2局、纏めて書かせて頂きます。あの2つの話は、完全に繋がっていると思いましたから。

 神の一手。わたしなどには想像もできない境地ではあるが、佐為があの、幽霊であるが故の純粋な思考で、心底それだけを目標としていたことはわかる。だからこそ、それを極めるのが自分ではなくヒカルである可能性も存在することを知り、彼は己の役目が終わったと思ったのである。

 だが、その予兆がよもや、こんな最初からあったとは。

 ヒカルがあくまでも未来の象徴であることは、今回の2話を見れば歴然としている。ヒカルは類い希なる天才かもしれないが、それでもあくまで「普通の人間」であり「神などではない」。神の一手に続く道のひとつであり、歴史の流れの一事実である。

 佐為を殺したのがヒカルひとりではなく、ヒカルやアキラや、その他大勢の可能性、未来であったというのは、わたしにとっては好ましい結論である。わたしは何某かの結果が、たったひとつの要因によって引き出されるということを信じてはいない。ただ、漫画のコマ割やページ数等の都合でだろう、今迄ヒカルの成長というそれにしか、佐為が消えた要因のスポットが当てられていなかったため、わたしにはあまりにもヒカルが痛々しく見えていた。

 それが、ヒカルだけではないと、今回の話で知れた。

 佐為はアキラとの対局のとき、既に未来を意識していたのだ。アキラの才に、その輝かしい未来に、佐為の言うところの「自らの役目」を意識し始めていたのである。

 未来への架け橋という、すべての人間が背負う役目、その歴史を。

 そうして1話目で描かれた、佐為への真っ直ぐなアキラの視線は、2話目でそのままヒカルに注がれている。それはすべからく、アキラも佐為の継嗣であるという意味である。そしてそんな2人を見詰める、院生達の視線もまた、アキラやヒカルと同様であった。

 佐為は受け継がれ、ヒカルは受け継がれ、千年、二千年が積み重なってゆく。

 私が居なくては神の一手を極めることなど無理である、と思わせるほど長けていた佐為の才能は、だがヒカルやアキラの才能に、その真っ直ぐなまなざしに、このまま自分が現世に留まらずともいつか誰かが神の一手に届くのかもしれない、という未来の希望を見た。

 役目が終わった、とはそういうことであろう。

 神の一手をオレが極めるんだ、と豪語した子供は、ヒカルではなく佐為である。それを受け継ぎたいがために、その言葉を発したのはヒカルであっても、その言葉をまず最初に心底信じていた存在は、あの美しい千年幽霊である。

 自分でなくてはならない、という自負は、恐らくそれを欲して精進する人も居るのだろうが、わたしにとってはひどく哀しいものである。その人にしか、その一代でしか完成できぬものならば、生物が多様化したのは何のためだ。単細胞生物から多細胞生物になり、遺伝を複製ではなく模倣にした意味は何なのか。

 寧ろすべての人ができるところで、その人だけがすることがあってほしいと、わたしは願うばかりである。

 尤も、それをして「自分の役目は終わった」と消えることはわたしの好みではない。ヒカルがただ我欲のために、「自分が神の一手を極め」んとして戦ったとしても、2話目のように、それを吸い取るようにして糧としてゆく対象は、必ずあるのだから。

 しかしそれを言ったら、佐為が消えたことすら、ヒカルの糧になっていると言っても良い。哀しいが、……『ヒカルの碁』が続くことで生まれるものがあるのと同様、『ヒカルの碁』が終了したことにより、生まれるものも必ずあるのだろう。ここの一連のリソース群のように。

 この数年で、現実の囲碁界は確実に変わっている。ヒカルの碁に影響され、急増した碁を始める子供達。プロのほうでは碁を愛する人達の奮起から、大手合制が廃止され、コミも国際規格になった。多分、殊「碁」に関することでは、『ヒカルの碁』は貢献を果たし、「役目を終えた」と言わば言え。

 佐為がただ碁に於ての己の役目ばかりを重視し、ヒカルとの関係性、そしてsaiと関わった人達との関係性にあまり頓着しなかったように、この終了には、「読者に対しての役目」はあまり考慮されていないと見倣して良いのだろう。

 すべてを包括することなど土台不可能である。書きたいことを終えたからといって、読者に対する義務が終わるはずもないが、そこで連載を終わる、それもまたひとつの選択である。

 そもそもそれを義務と思う義務すらない、それこそ佐為のように。

 そこで黙って消えたとて、終わらなかったヒカルを描いた作者なれば。

 あんな、佐為のような綺麗な消え方、好みではない。ない、が。

 終わるつもりは毛頭無い。

 ほったさんは、碁を始めた子供達同様、読者にも未来を見てくれたのだろうか。