ああ、やっぱり佐為はそこに居たか……。
感想、いきましょうね。ちょっとヨロヨロしてますけど(何)。
……伊角さんの、碁盤を大事そうに拭く手付きが、ああ、これが棋士なんだ……とわたしを感動させ、同時にそれを敢えて大事にすることができなかったヒカルの哀しみを見せ付けられた気分で、何処か痛かった。
――佐為の取り憑いていた碁盤をどうするのかな、とちょっと思いました。いつかアキラと囲むのかもしれない。
それはさておき。伊角さんのため、と自分を誤魔化して打ち始めたヒカルの、それでも淀みない手の動きに、ああ、この子は本当に囲碁の神様に愛されている子なんだとも思った。囲碁の神様、それは或いは佐為であったかもしれない。どれほどさわっていなくともどれほど考えないでいたとしても、「強くなった」と中国で鍛えてきたはずの伊角をして言わせるほどに、彼は碁の寵児なのだ。だからこそヒカルにとっては佐為の居なくなってからの長い長い時間、囲碁が自分を捨てていないことをひしひしと感じていたからこそ、それを振り払おうと必死になり、それを振り払えぬことに罪悪感を感じ、それを振り払いたくないことから目を瞑っていたのだろう。
「ワクワクしちゃいけない」。彼はとっくの昔から、本当は気付いていたのだ、自分が囲碁をやりたかったことに。今迄ずっと、いわば自分の身体を乗っ取ってまで囲碁を続けたがっていた怨霊を、それでも消すこともせず彼は佐為に打たせ続けてきたのだ、彼と打ち続けてきたのだ。だが身体はひとつ。佐為は気付いていたとおり、ヒカルが打つということは佐為が打たないということ。佐為が打たないということは、佐為が消えるということ。
だがまた、ヒカルが打たないということもまた、ヒカルが生きないということと、いつのまにやら同義にもなっていたのだ。「オレなんかいらねえ」、あの言葉は哀しすぎる。まさに自分の存在を賭けて、存在を差し出してでも、ヒカルは佐為を取り戻したいと考えたのだ。だが囲碁の神様は決してヒカルを離してなどはくれないほどに愛情深く無慈悲だったようだ。この回を見て、本当にそう思った。天才はなんと孤独なのだろう、と。
でも彼の孤独の源泉である碁の才能の中には、佐為が居た。確かに佐為が居た。自ら自分を昇華した佐為は決して戻っては来ないだろうが、この最後だけでようやっと救われた気がした。佐為はすでにヒカルの才能に救われている。佐為が小さき個を捨ててまで従事したいと思ったほどの大きなヒカルの碁、ヒカルに決して良い思いばかりをさせたわけではないその才能に、佐為を殺さざるを得なかったほどの苦しみをもたらした天稟に、だがヒカルはやっと救われたのだと思った。
やっと。連載始まって始めてではないだろうか、ヒカルが人を救うのではなく救われたのは。
それが他人によってではないというあたりがヒカルのヒカルたる所以なのだろうが。そのくらいの才能でないとアキラの孤独も今のようにわかりはしなかったろうし、アキラもヒカルの存在を感じ続けたりはできなかったろう。ふたりは共に孤独だが、だからこそ互いがそこにいることを知っている。「ここにいる」というアキラの主張は確かに正しい。孤独なアキラがそこに居て、孤独なヒカルもここに居る。ふたりが居るその状態を、本当に孤独と呼んで良いのかどうか、わたしにはわからない……が、少なくとも寒くはないんじゃないかと思ったのだ。
共に孤独なまま、彼等は盤を間に自らの生を生きるのだろう。……囲碁で良かった。だって碁はひとりじゃできない。ひとりで到達できる道じゃなかったからこそ、佐為は執拗に「強い誰かと」対局する機会を欲したのではなかったか。佐為の目指した神の一手は、頂点に立ったヒカルとアキラが対局して初めて、実現に最も近くなるのだろう。そのときこそヒカルの中の佐為は本当に救われる、そんな気がする。