137局  最後の大会

 最初の感想文のときの原作のタイトルが「最後の大会」DEATHか……まぁワシらしくていいかな(笑)。

 ううん、一応論考ページに入れるんだから真面目に書こうと思ってたのですが、あまりにもツッコむべきところがあったのでまずツッコませてください(前世大阪芸人の血←何やねんソレ)。

 筒井さん、アナタ誰(爆)。

 ああ、眼鏡を掛けた伊角さん?(笑顔)

 すいませんすいません、のっけから(汗)。いや、真面目にいきましょうね、真面目に。でもね、現在の筒井さんがあんだけクールビューティーに成長しててくれたら、それはそれは美味しいと思うのよワシは…(ごにょごにょ)。

 『ヒカルの碁』は何が凄いかって、そのスピード感にある。展開の早さも無論のことながら、主人公の成長速度が、流石天才と唸らせるに足る早さなのである。その「早さ」とは碁の成長スピードに限らず、彼の精神的成長の早さをも含んでいる。

 佐為が居なくなってからこっち、ヒカ碁にしては信じられないほどゆっくりと物語は進んだ。それはヒカルの喩えようもない哀しみを表現するに相応しい手法であったが、それでも最愛の――と言っては語弊があるかもしれないが、幼いヒカルにとって実際佐為は、子供にとっての最も愛すべき自分の一部であったことは間違いない――佐為を失った哀しみ苦しみを異常な早さで、それこそ常人であったら何年も逡巡するだろう葛藤を、この何週かで彼は既に克服しかけている。それは決して佐為を忘れるといった意味合いではなく、真に他人である佐為を受け入れるという意味で、ヒカルは佐為が見せてくれた盤上の美しい世界を、そしてその広大な宇宙に自分も必死になって星を置いて世界を創造していた昔を、そして佐為を殺してでも囲碁を打ちたかった今の自分を、憶い出そうと、思い知ろうとしている。

 この歳になって小さい頃でさえ殆ど見なかったアニメをなに熱心に見てるんだって気にならないでもないんですが、今ヒカ碁のアニメを毎週見てます。現在は、佐為憑きヒカルがアキラと2度目の対局を果たし、また、塔矢名人に請われて置き石3子(凄い……凄すぎるよアキラ君…)で対局を始めたところです。……なんて原作とタイミングがドンピシャなんだ(汗)。何がドンピシャかって、今迄佐為に言われるまま仕方無く碁を打っていたヒカルが、初めて自分が打ちたいと思った話という点でナイスタイミングなんです。

 「プロになるつもりなのか」と冗談で言ったヒカルに対し、アキラは当り前のようにあっさりと「なるよ」と答えた。「なるつもり」などという答えではない同い年が発したその返答や、勝負中のアキラの恐ろしいまでの真剣さは、ヒカルの歳では持っていて当然の無限の未来という幻想を打ち砕くには充分な衝撃があった。そして塔矢名人と、実質佐為との対局。アキラ、佐為、塔矢名人、3人共まっすぐに何かを見詰める同じ目をしており、その視線の先にあるのは何なのだろうと考え始めていたヒカルは、動揺のままに本心を曝し出し、佐為の声も耳に入らぬほど己のこころの裡に集中し、まっすぐに彼等と同じ目をして、自分の意志で次の一手を打ったのであった。

 テレビはここまで。……なんて残酷な話だ。アルティミシアの台詞ではないが、「現実は全く優しくない」。ヒカルはこのとき、己の才能に目覚めてしまったのだ。才能に気付くということ(「限りなく囲碁を愛する才能」)は、そしてその才能に従事できる才能を持つということ(「誰よりも努力を惜しまない才能」)は、無限の未来を狭めてしまうということでもある。何かを人並み外れて持っているということは、それ以外のものを持っていないと同義にもなってしまう。それがどれほどの苦しみを伴うものかは、あれだけまっすぐに生きてきて碁打ちとして生きることを疑問にも思わないアキラであってさえ、棋士の辛酸と絶望をヒカルに叩き付けたことからも窺い知れる。

 ヒカルはそれでも、アキラの孤独と絶望を垣間見たとしても、如何なヒカルが天才肌で通常の人が棋士になるのよりは重苦を負うことは少なかったとはいえ(それ故の別の苦しみはあると思う…)、碁を打ちたいと思って碁を始めたのだ。佐為のためでも何でもない、ヒカルが自分のために奮起したあの瞬間瞬間を、ヒカルは囲碁部の大会をきっかけとして、読者はアニメをきっかけとして、憶い出している。既に憶い出しているからこそ、「打ちたいって思っちゃいけない」なのである。

 またヒカルは、こうも言っている。「オレが打ちたいって思ったりしたら、もしオレがまた碁を打ったら、佐為は2度と戻ってこない、そんな気がする」と。それは正しくもあり、間違えてもいる。佐為はヒカルが打ちたいと思った(才能に佐為は気付いた)からこそ納得して――その才能に自分の千年を託せることに安心して消えたのだ。そして、それにヒカルが気付いているからこその上述の言葉。ヒカルが打てば佐為の打つ場所は何処にもないという単純な図式に、佐為が気付き(消え)、そしてヒカルも気付いたからこそ、自分の居場所をなくしてでも佐為の場所を空けておこうとしている。そういうことである。或いはヒカルが、碁を打つことよりも佐為が戻ることを選択したら、神様は慈悲を掛けて佐為を戻してくれるかもしれないが、現実には神様は存在せず、たとえ居たとしても佐為も戻ろうとはせず、神様に近いかもしれない原作者は、この漫画があくまでも『ヒカルの碁』でしかあり得ないことを承知している。そして何よりもヒカル自身が本当は、自分の碁が佐為のためのものではなくて自分の碁でしかないということを既に納得している。

 あと少し。もう少し、あれば。もう少し、ヒカルの内面から、あの美しい盤面の世界が溢れてくれば。

 ……さて、来週はまた眼鏡を外した伊角さん(だから違うって)の登場ですか。尹先生に発見されたってことはアキラ君も出てくるのかな。個人的には(最初もそうだったし)最終的なきっかけはアキラ君希望。ヒカルが佐為に最初にコンプレックスを持ったのも、アキラに自分の言葉が届かなかったことからだったし(ということをアニメ見てやっと憶い出したよ;)。払拭(昇華)するには、やはり自分の言葉で、今度こそは碁打ちになった自分の言葉で、ヒカルにはアキラと対峙してもらいたいですね。

 全然関係ないですが、テレビでアキラ君を評して「龍に化けるか」ってェ佐為の台詞。大笑いしちまったよ、ねぇやっぱり『千と千尋の神隠し』のハクってアキラ君がモデル?(大笑)