シドファズルの誕生

Novel

「今日ここに泊まっていっても、いいでしょうか?」

 何処の世界にこんな台詞を、自分の家で自分の夫に、言うおんなが存在するというのだ。言ってはならないことだとおもう、言うべきではない言葉に、言うべきではない相手だとおもう。それは夫を信じていないということと同義ではないのか、家を持たないことと同義ではないのか、と、だがシドには言えない。そんなことを、自分の家で自分の夫に、言うおんなに、シドは絶望を以て忠誠を誓っている。

「ここはあなたの家で、私はあなたの夫ですよ」

 ずくりずくりと、痛む心臓を押さえてそんなことを笑顔で言えば、まるではにかんだ少女のように初々しくたどたどしく、幸せそうにイデアはわらうのだ。夫と家があることに、しあわせそうに微笑むのだ。彼女は信じていないわけではない、ただ知らないだけなのだ、シドはそれを知っている。どうして責めることができよう、どうして自分の痛みなぞにかまけている暇があろう。自分のことば一つで彼女のしあわせになるというのなら、己の痛みなどからは目を背けようと、彼女の騎士という立場を自ら選んだときに、シドは決めている。

 幸薄いおんなだった。幼い頃から魔女だったのだと聞いている、彼女の両親とどのような経緯があったのかはシドさえも知らないことだったが、少なくとも十の歳には、彼女は村のはずれの森にひとりで棲んでいたようだった。

 ようだった、というのは、もはや村にも彼女がいつからそこにひとりだったのか、正しく知る者が居なかったからだ。彼女は村の長老よりも長い時間を、十五かそこらの少女の外見のまま過ごしていた。魔女なのだよ、と村人達は恐怖と嫌悪をあらわにした表情で、あたらしく村に越してきたシドの家族に語ったものだ。そのとき、シドはまだ十にも満たないこどもだった。

 村人は忌避し、親は無論禁止し、だが子供にとってタブーは破るために存在する。行ってはならないよ、と大人に言われた言いつけを正しく破ったシド少年が森の中で出逢った魔女は、だが風聞に想起される恐怖すべきものなどでは決してなかった。

 腰よりも下に来る黒髪の先端は水に流れて生き物のように彼女の下生えを隠していた。しろいはだを惜しげもなく光に晒して、彼女は川とたわむれていた。水浴びをしている女の裸を覗き見ているのだと、少年が自覚することもできないほどに、それはあまりにも完璧な風景だった。ただ固まったように見惚れていた。惚けたように凝っと身動ぎもなく見詰めていた。

 だから、彼女が少年に気付いたのは、偶然のようなものだ。小鳥のさえずりに惹かれて視線を返した、その先に彼女がこどもを見付けたのと、彼がその視線に驚いて川に落ちたのとは、同時だった。

 山の中の川だ、川底の石はまだまるくない。しこたま肌を傷付けて泣き出した少年を、彼女はタオルでくるみ、彼女の家らしき祠へと連れ帰り、火に当たらせて泣きやむのを待ったのだった。その間、彼女が笑みも心配の色も嫌悪の色も何もなく、ただ無表情に自分を見詰め続けていたことを、シドは今でも憶えている。

 あなた、ヒトの子供ですね。泣きやんだシドにそう言った彼女はまるで自分が人間ではないかのような言いようで、そのときようやっとシドは、彼女が魔女だったことを憶い出したのだった。そのくらい彼女はヒトと同じ姿をしていた。否、確かにこのヒトあらざる美貌をして人外だと言うことは、シド少年にしても可能かもしれなかったが、村人達が言っていたようには、彼女を人ならぬモノとは見れなかった。こどもは綺麗なものが大好きだ。シドにしてもそれは例外ではなく、まるで宝物を見付けたような気分で、純粋に好意をしか抱けなかった。

 イデアと名乗ったその「綺麗なおねえさん」に、それ以来、暇を見付けては、親の目を盗んでは、会いたいとシド少年はその祠に通い続け、最初は止めていたイデアにも、いずれ何も言われなくなった。何も言われなくなったのをこれ幸いと、更に逢瀬の頻度は上がり、村ではイデアの処に通っているとの真実こそ露見はしなかったが、付き合い悪くしょっちゅう姿を消す変わった少年だとの烙印が押されるようになった。その村人の奇異なものを見る目がやがて、それがシド少年の個性なのだと認知され放置されるようになる頃には、シドはイデアの外見とおなじほどの歳になり、彼女の笑顔を手に入れることに成功していた。

 そうしてその頃になると、少年は困るのだった。透明な表情で見詰める彼女のうすく開いたくちびるが、最初に見た彼女のしろい姿態が、何故か憶い出されて仕方ないのだ。少年は恋をしていた。

 何処か凶暴な欲望を、だがだからこそ恋する少年は抑えなければならなかった。彼女が受け入れてくれないからではない、全くの逆だ、彼女が受け入れてしまうことがわかっているからだ。それは愛であればこそ許されないことだと少年はかんがえる。

 彼女は村の男達のなぐさみものだった。バケモノと蔑み、ヒトとして扱わず、モノのように彼女を抱いて男達は、村に居させてやる、とそんなことを言って去っていく。通っていればそんな場面にも何回か出会したのだ、そうして汚れた身体を彼女が川で清めながら彼女は、泣いて森に隠れていた少年を見付け、まるで何でもないことのようにわらうのだ。どうしたの御家族に叱られたの友達と喧嘩したの何処か痛いの。彼女はそれが彼女のために流された涙なのだということにも気付けない。そしていっそ少年は深く涙するのだった。

 そうして最初そうだったように、まるで本物のこどもをあやすように少年を毛布にくるんで彼女は、こもりうたをうたう。やさしいこえでうたう。違うのに、本当は自分こそが彼女をそうして安らがせてあげたいのに、なにもできない手をしろいゆびに絡めて少年は泣く。ごめんなさい、とつぶやく。

 本当はもはや会いたくなどなかった。否、会いたいからこそ会ってしまうのが怖かった。シドにとって唾棄すべき村の男共、あんな連中と同じことを彼女に夢想している自分が、どうしようもなく許せないものに感じられた。存在してはならないものだとまでに、自分のことを憎んだりしたものだ、しかしそれでも彼女に対する情欲は消えて失せたりはせず、少年は益々自分を憎んで憎んで憎しんで、千々に擦り切れそうになるのだった。

 少年の、段々と荒んでゆく様子に、彼女が心配そうなかおを向けてくるのに、出逢った頃には決して見せなかった「人間らしい」表情を向けてくるのに、当然気付かないはずもなかったが、少年は自分の感情と、そしてその感情を抑えることに精一杯で、彼女のそれをどうにかしてやろうと動くこともできなかったし、ましてや自分の感情を何とかすることなど、できはしなかった。おとなになりかけの子供は、まだまだ子供だった。

 そうして、もはや切っ掛けなど憶えてはいないのだが、それはひょっとしたら単に彼女のゆびがふれただとか彼女の言葉が気に障っただとかそんな程度のことでしかないのかもしれないが、気付けば彼は彼女を押し倒していたのだった。彼女の衣服を剥いで彼女の身体を押さえ付けて彼女の中に押し入って、それは強姦でしかなかった。何もできない幼い手は、こんなときばかり男のちからで力強く、どうして自分はこんなにも憎々しい己の腕も脚も男根も切り落としてしまわないのだと、しろい肢体の上でおとこは咆哮した。絶望に啼いた。

 やわらかなからだだった。おさなげな身体だった。少女の四肢は少年の力でも簡単に折れてしまいそうなほどに骨張って細くかたく少年を拒むのに、彼女のなかは熟れきった果実のようにやわらかにあたたかく少年を受け入れていた。だから泣く。少年は泣く。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、どうか許さないで罰してください、ごめんなさい好きなんですあなたが好きなんです御免なさい、愛してる助けて助けて助けて助けて助けて。

 殺して。

 しかしだが、泣き続ける少年を前に、やはり彼女は微笑むのだった。いつものように何も感じないが如くに、しあわせそうにしあわせそうに微笑んで、慈悲の何たるかも知らずに聖母はこんなことを宣うのだった。

 凄いね、ヒトみたいね、ねぇヒトって好き合って結ばれるんでしょう、セックスを愛の確認に使うんでしょう、有難うシド、私をヒトみたいに扱ってくれて。

 それはあまりにも大きな隔絶であった。彼女はまるで本物の聖母のように寛容に寛大に、シドの無体を許したかのような体だったが、彼女は決してシドの存在を救ってはくれないものなのだと、少年は思い知ったのだった。聖母はヒトを赦すどころか、ヒトに傷付いてさえもくれないのだった。少年の罪は罪とさえ認められないままに、永遠に腐ったまま澱み続けることを決定付けられた。全く理解できない絶望を、決して理解してもらえない絶望を、少年は少年の歳にして学んだのだ。彼女は遠かった。その距離をこそ自分は愛したのだと知り、少年は更に絶望した。

 些か献身的に過ぎる魔女のヒトに対する憧憬は、少年に罪を忘れることを決して許しはしなかった。

 そうして幾度目かの巡ってきた春の或る日、少年は――もはや男となった少年は、何処までも残酷な聖女に永遠を誓い、そのほそいゆびに指輪を通したのだった。その日から緩やかな成長を始めた少女の身体にさえ、優越感を感じることもできないままシドは彼女を愛している。

 何もできなかった少年の手には、今は彼女とお揃いの指輪が嵌っているのだった。

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