エウリュディケの壊れた環

Novel

 最初に違和感を感じたのは、真新しいガーデンの学生寮に住まうようになって、ようやっと緊張も解けてきた頃のことだったと思う。

 春の日差しが異様に気持ちよかったから、風に誘われるまま、多少の懐かしさと共に幼馴染みに喧嘩を吹っ掛けた。これも暫くやってなかったことだな。顔に引っ掻き疵を付けられながら、思わず笑みが浮かんでいた。笑ったまま、肘を支点に腕を振り回す。頭にヒットした。アイツの軽い身体は簡単に吹っ飛び、地面を滑っていく。

 ちとやりすぎたかな。思ったが、アイツはすぐに立ち上がる。よかった、大したことはないようだ。だが顔に傷が付いちまってる。あーあ、勿体ねえ、折角の美人さんなのに。

 今度顔に傷を付けるときには、美貌を引き立てるような傷跡にしてやろう。そんな不穏なことを考えていたら、察したわけでもあるまいが、アイツの目からじわりじわりと涙が溢れてくる。ったく、相変わらずの泣き虫だ。駆け寄り、服の袖で拭ってやる。アイツはイヤイヤと首を振ったが、押さえ付けて血まで拭う。よし、綺麗になった。

 教室に戻りながら、笑って忠告してやる。おまえさ、喧嘩弱えんだから、吹っ掛けられても相手になんじゃねぇよ。自分が吹っ掛けたことも棚に上げて嘯く。するとこんな答えが返ってきた。

 だって、強くならないと。ひとりで何でもできるようにならないと、おねえちゃんに会えなくなるから。

 おねえちゃん。コイツの言うお姉ちゃんっつったら、エルお姉ちゃんのことしかないだろう。コイツはいつだっておねえちゃんにべったりだった。居なくなったのはいつだっけ。遠ざかる船を追って海を駆けていったコイツを、溺れる寸前で助けたのは俺だ。

 別に、会えるときゃ会えるさ。強くなったって会えない相手とは会えない。

 そう言ってやった。酷かとは思ったが、俺はコイツより別れってもんを理解してたとは思う。コイツは生まれたときから親が居ないのだと聞いている。俺は物心付いてから目の前で親を殺された。単にその違いだが、結局の処コイツは本当の別れを知らないからこそ恐れている。可愛いもんだ。

 アイツの目にまた涙が浮かんだ。ああクソ、ホント手の掛かる。

 また涙を拭ってやりながら、ふと思った。そういやさっき、奇妙なことを言ってなかったか……?

 会えなくなるっつってたな。

 会うんだもん!

 はいはい、この俺様より強くなったらな。……で、何で強くならないと会えないんだ。

 え、だって。――…が。

 何だって? おい、声が小せェよ。

 強くなったらおねえちゃんに会わせてあげるって。

 誰が、そんなことを。

 ――…だよ?

 ……誰だ? 誰がエルオーネ姉ちゃんを、

 エルオーネって、だぁれ?

 そこから先は俺のほうの記憶が定かでない。気付けばひとり、ベッドで泣き伏していたように思える。

 これも時期がはっきりしないが、いつしかゼルとキスティスがバラムガーデンに入ってきていた。当然のように最初、奴等に絡んだと思う。だが向けられた視線、ガキの頃の話だから憶えてねえと言われちゃあそれまでだが、あの、まるで知らない他人を見る目は何だ? 触れてはいけないと思った。奴等が憶えてないのなら奴等のためにも、それ以上に俺のほうが、それに触れたら何か足許から瓦解してゆくような気がした。

 苛立ちに委せてガンブレードを振るう。生徒達が怯えて周囲から離れてゆく。サイファー。通り掛かったスコールが止めに入った。

 さいふぁ。

 舌足らずな声で俺を呼んでいたアイツはもう居ない。幼馴染みはもう居ない。ゼルもキスティスも。

 そこに居るのはただ、クラスメート達のみだ。

 忘れたのはコイツらの方なのか。狂ったのは俺の方なのか。頭の中がチリチリと焼け付くようだった。G.F.をジャンクションしているときのようだ。あの気に食わない感触! G.F.は記憶を蝕むと聞いた。だがそのせいじゃない、こいつらはそのせいなんかじゃない。そんなののずっと前から、こいつらは俺のことを知らなかった

 あんなもの着けて、おまえらはもっと俺のこと捨てる気か――!

「煩瑣え!」

「サイファー!」

 煩瑣い煩瑣い煩瑣い! 俺の頭の中で叫ぶな!

 空虚を感じる。空洞を感じる。胸にぽっかり穴が開いたようだ。やっぱり失ってるのは俺の方なのか。俺なのか。

 失ったものにいつまでも未練たらしくしがみついているのは俺だけなのか。

 同じように、失ったものを取り戻そうと必死になっていた女のことを憶い出した。会いたい、会いたい、会いたい。今困っているらしい、SeeDに来てほしがっていた。

 俺が行くから。これ以上、何も失わせなんかしないから。

 行った先で、俺は魔女に出逢った。

 奇妙な女。要領を得ない話と、淋しげな瞳。

 ママ先生の顔をした、イデアでない女。

 そうだ、オレはママ先生を守る騎士になりたかったのだ。幼い、だが激しい希求。何故今頃憶い出す。

 何故今迄忘れていられた……?

「俺は」

 俺は何を忘れている…──?

 蹲り、見上げた女の眸には見憶えがあるような気がしたが憶い出せない。魔女の前に跪いて、俺は何をやっている? 何故この光景を知っている。

 映画だ。幼い頃に見た魔女の騎士、あの映画に憧れて俺は、武器にガンブレードを選んだんだった。ママ先生が魔女だと知ったあの日から、ママ先生を守る騎士になろうと、……あの日…――?

 ガンブレードを持った青年。映画に出てい長髪の俳優じゃあない。あの記憶は。この記憶は。あれは、

「おまえは……誰だ……」

「私はアルティミシア。すべての存在を否定するもの」

 言葉とは裏腹に、女は俺の存在を肯定していた。この女は俺の夢を知っているだけだ。俺はこの女を知っているだけだ。

 あいつらが失ったものを、この女は知っている。

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