Messiah ben reLoi The Lords of the Ring

引用

Christos クリストス(キリスト)
 「油を塗られた者」の意。christosはギリシア語で、ラテン語ではchristus、英語ではchrist。中東地方の生贄になった多くの神々の添え名である。アッティス、アドニス、タンムーズ、オシリスなどがその例である。「油を塗る」ということは、オリエントの聖婚の儀式に由来することであった。東方諸国では神の男根像lingam、すなわち、神像の勃起した男根は聖なる油(ギリシア語でchrism、ラテン語でchrisma)を塗られた。それは神の花嫁である女神の膣への挿入を容易にするためであった。神殿に仕える乙女の1人がその女神の役を務めたのであった。油を塗られる前に、その神の男根は、顔料かブドウ酒か血(とくに、花嫁の経血menstrual blood)で赤く塗られて、いかにも生身であるかのような色にされた。昔は聖なる結婚によって王権が保たれたために、実際の王であろうと、身代わりの王であろうと、その正式な叙位式として塗油が行われるようになったのであった。油を塗ることによって、その王が神になることが約束されたのであった。
 詩篇作者の「あなたは私の頭に油をそそぎ」という言葉は、神−王の男根に油を塗った古代の習慣からきたものである。そしてこの「頭」とは男根の婉曲表現としてよく用いられるものであった。王室の結婚式においては、ヒンズー教のスヴァヤマラsvayamaraの儀式の場合と同じように、王の頭には花冠が置かれた。花とは、聖書の言葉では、経血を象徴するものであった(『レビ記』15:24)。異教においては、神殿に仕える乙女は神の男根像によってその処女を失ったが、同時に、神像の頭に花冠を置いた。しかし救世主、あがない主、神の子などといった者が生贄となるときにはこの聖なる婚儀が行われていたのが、やがて行われなくなり、そのために、男根に油を塗ることに代わって、頭に油が塗られるようになったのである。新約聖書のキリストのように、救世主は葬りのためにのみ油を塗られることになった(『ヨハネによる福音書』12:7)。葬りとは大地との結婚であった。イエスがキリストになったのは、マリア(更生した売春婦、あるいは、神殿に仕える乙女)がイエスの葬りの用意のために、イエスのからだに香油を注いだときであった(『マタイによる福音書』26:12)。マリアは、また、イエスの復活をも告げた(『マルコによる福音書』15:47)。
 エッセネ派の人々の間では、キリストなる者は聖職者であって、とくに、「罪をになう人」、「あがない主」と呼ばれた。すなわち、他人の罪をあがなう人であった。スラブ人の間では、キリストKrstnikは生贄になる英雄を意味すると同時に、また、「のろわれた人」をも意味した。それは、「罪をになう人」が生贄となる前に、儀礼としてその人にのろいをかける習慣が古代にあったからであった。

I

 それはラグナがエスタの大統領職に就いて四、五年経った頃のことだった。

「イデア・クレイマー?」

 補佐官に、謁見を求めている面会人が居ると聞かされた。

「はい、大統領とは五年ほど昔にお会いになったそうですが……黒髪の美しい女性だそうです。憶えてます?」

「妙なこと勘ぐるなよ」

「むしろ勘ぐるようなことがあってほしいんですけど」

「世襲制にする気かよ。……うーん」

 何処かで聞いたことのある名だとは思った、思ったが、しかし、元々人の名を憶えるのが極端に苦手な性格の上、エスタに籠もってから日も経っている。他国を旅していた頃に会った人物なのだとしたら、もはやラグナの記憶力にとっては初対面に等しい。興味が広すぎるということは、何にも深く興味を持てないということだ。ラグナが人の顔も名前も憶えられないのはそのような理由だったし、ラグナがこの地に流れ着いたのもそのような理由からだったため、補佐官達はもはやラグナの記憶力には頼ってはならないものだと悟ってもいる。

「会ーったことあるかもしんねー……なぁ……」

「……どうします?」

「うん、一応通しといて」

「まだ国境だそうですので、入国許可です。大統領府にお着きの頃には大統領、お出掛けだと思いますが」

 何処の国境だろうとぼんやり考えた。方向音痴には距離感も薄いが、四時間後に用事のあるラグナと会えないほどの距離に居るということになる。そしてエスタは、市内であれば一瞬で移動できるはずであった。

「まぁそこらへんは適当に待ってもらって」

「はい」

「フィッシャーマンズ・ホライズンからじゃねぇよな?」

「トラビア渓谷からだそうです」

「え?」

 そこは昔、ラグナがエスタに通じるかと考え、通った道であった。だがあそこにはエスタの障壁が存在しており、通り抜けはできないはずである。

「あそこは寒さのせいで機械の損傷も激しいですから。もう技術者を向かわせてますよ」

「……タイミングばっちしってか」

「冗長構成にはしてあるんですけどねぇ」

「……なーんか厭な予感がする」

「なら問題なさそうですね」

「おま、普通そういうこと言うかー?」

II

 その黒い髪と黒い瞳には確かに見覚えがあった。恐らくエルオーネを探していた際に世界の何処かで世話になったのだろうとは思うが、それ以上の記憶は検索できなかったので、ラグナはすぐに諦める。

「どうも。イデル・クライマーさん?」

 これで相手には、自分が憶えていないことも伝わっただろうと思いながら、実際に数時間前に聞いた名前すら忘れていた自分の記憶力には我ながら情無い思いで後ろ頭を掻いた。

「イデア・クレイマーさんだ、ラグナ君」

「あ。失礼をば……」

 イデアと呼ばれた女性は、ラグナの失態に気を悪くした風でもなく、キロスとのやりとりに笑みを浮かべた。

「やはり憶えてはらっしゃらなかったようですね」

「失礼ですが、どちらでお会いしました?」

「人払いを頼めますか?」

 憶えていないことを確認しての人払い。それきり押し黙ったイデアに、キロスの目が細ったが、ラグナは頓着しなかった。

「キロス」

「しかし」

「いいから」

 とんとんと自分の左手首を指して見せた。時計と同形の計器が反応を示している。キロスはギョッと目を剥いたが、今それに逆らうことの虚しさは直ぐ様理解できた。諦めて警備兵と共に別室に隠れることに決めたようだ。いずれにしろ会話は筒抜けである。

 監視カメラを除いて、ラグナとイデアの他に人目はなくなってようやく、彼女は黒髪を垂れて口を開いた。

「申し訳ありません」

「で、魔女さんが何の用だって?」

 垂れていた頭を上げて、彼女はたおやかに微笑んだ。

 ラグナが手首に填めた、時計のような計器は、魔女の魔力を測るものである。元々はアデル用に作られたものだが、イデアの進入経路を聞いて、この謁見前に取り寄せたものだった。良い予感は当たった試しがないが、悪い予感は当たらないと生きてはこられなかった、ラグナはそれを良く自覚している。

 イデアは魔女だった。当然の如く、トラビアとの国境線に置かれた機器に損傷は見られなかった。

 さりとて彼女の正体がわかったからといって、わかればこそいっそ、大統領府に詰めた兵士達だけでどうにかできるわけでもないと知れる。計器がブルーオーヴァを弾き出した時点で、既に報告は全国に伝わっている。自分の命一つで時間が稼げるのならば安いものだとラグナは考えていたのだが、

「五年ほど昔になりますでしょうか。あなたにお会いしたのは、セントラ大陸の西の果ての岬になります」

と昔話を始められて、拍子抜けに肩を竦めた。

「あの頃、世界中を旅していたもので」

「あなたはエルオーネちゃんを探していた」

 やはり実際に会ったことのある人物らしい。魔女といっても人間に恨みを抱いている者ばかりではない。ラグナは力を抜いた。

「ええ。その節にお世話になったんですね。不義理者で申し訳ありません。それで私に何かご要望でも?」

 大統領となった自分に恩返しをさせたいだけならば、ただの人間と変わらない。扱いは楽なものだ。

 イデアは首を縦に振った。妙に子供染みた仕種で、そのときラグナは初めてまともに彼女を見たと言って良い。まじまじと観察する。

 若い。幼いと言っても良い容貌であった。髪も瞳も艶やかな鴉の濡れ羽色で奇妙な色気を帯びてはいるが、造作自体はひどく童顔の小作りな美少女であった。二十代か、下手をすると十代。

 こんな少女がセントラ大陸に住んでいただって? ラグナは目を眇めた。

「……カメラを切ったほうが良いですか?」

「お願いできますか」

 キロスに後で叱られそう、と内心ぼやきながら軽く吐息して、ラグナは彼女の言葉に従おうと、壁際のスイッチに手を掛けたときだった。背後から切り出される。

「私は今、エルオーネと生活を共にしています」

 振り向き、驚いた表情を隠せなかった。てっきり彼女の背後にあるものの話をされるとばかり思っていたのだ。

「…………」

 彼女から視線を外さないままで、外に繋がるカメラと音声のすべてを断ち切る。合図のようにLEDが点滅し、やがて消灯した。

「あなたが訪れてから何ヶ月かのちの話です」

 そんな風にイデアは始めた。それはラグナがエルオーネをウィンヒルに帰し、大統領職に就いた頃の話だろう。

 そして、レインが死した時期であり、エルオーネが姿を消した時期でもある。

「私は一人の女性に頼まれました。子供を一人、預かってくれと」

「子供?」

「ええ、彼女の子供を。引き取り手になってほしいのだと。私はその頃、セントラで孤児院を営んでいましたし、問題ないと思って引き受けました」

 ウィンヒルの誰かだろうか、と思いながら、記憶は甦ってきた。日々の暮らしも覚束無いだろう、セントラのような不毛な地で孤児院といえば、ラグナには一つしか心当たりがない。

「あの……失礼。あなたは、グッドホープ神殿の」

「ええ。その節は子供達がお世話になりました」

 一晩世話になった礼ではないが、古代神殿を改造した奇妙な孤児院でラグナは、幼い子供達の世話をしたのだった。有難うございます、と頭を下げた経営者は、ラグナより年上だろう人当たりの良い青年で、思い返せばクレイマーと名乗っていたような気がする。では彼女は、彼の妻は娘かと言ったところなのだろう。

 しかし問題はそこではなく、

「いえ……。あの、それでエルオーネはそちらに?」

訊きたいのはこちらだった。彼女が引き取った子供とは、この流れだとエルオーネのことだと思われたが、しかし。

「はい、一時あの石の家に居りました」

 過去形。眉をひそめる。

「すいません、ちょっと事情が呑み込めないんですが――」

「あなたは、レインとエルオーネが魔女の血を引いていることはご存じですか?」

 唐突だった。成程、人払いが必要だったのはイデア本人ではなく自分のほうか、と年若い相手に気を遣わせてしまったことに気付き、苦笑する。

「……はい」

「私の孤児院では、魔女の素質を持った子供達を積極的に引き取っていました。力を持つことが一概に不幸だとは言いませんが、望まない親も多いので。だからあそこに居たのは、孤児だけではなかったんです」

「そうだったんですか……」

「レインが私の処を知ったのも、そういう噂が流れていたからでしょう。あの村は、余所の魔女に対する態度に過敏ですから」

 だから、ラグナは疎まれていたのだ。苦笑するしかなかった。後ろ頭を掻こうとして、だが手は止まった。今彼女は、何か妙なことを言わなかっただろうか。

「……レインがあなたのことを知っていた?」

「ええ」

「あいつが、魔女の資質を持つ子供を――エルオーネを預かってくれる家を探していた、……と?」

「レインが言ったのは、もしあなたが間に合わなかった場合は、自分の子供を引き取ってほしい、ということです」

 違和感は覚えたが、微妙な言葉遣いの違いには気付けなかった。イデアはまっすぐにラグナの眸を覗き込んでいる。

「……エルオーネは、レインが死んですぐ後に姿を消したと、いきなり消えてしまったのだと、ウィンヒルの人達、は。レインが……あなたに?」

 情無いほどに声は震えていた。

「レインはあなたの子供を産みました。そして産後の肥立ちが悪く、命を落とした。エルオーネは以後の自分達の保護を私に求めた。結果として、エルオーネをあの村から攫ったのは私です」

 しかし与えられた回答は予想を上回っていた。

「ちょ……ま、待ってくれ、いや、違う。……そうだ、あんたさっきレインが自分の子供をって……言った。エルオーネのことじゃないのか? 子供? レインが、子供?」

 魔女の視線は揺らがない。周章狼狽しているのは、どうやらラグナだけのようであった。

「そうです。あなたの、子供です」

「俺……の? そんな、だって、だって……じゃあ、だってレインは」

 レインが亡くなりエルオーネが行方不明だと聞いて、矢も楯もたまらずウィンヒルを訪ねたことがある。村人達は激しい憎悪を込めた目でラグナを睨み、威嚇し、人によっては攻撃さえ仕掛けてきた。

(おまえさえ居なければ……ッ、おまえさえ居なければ、レインとエルオーネは!)

 意味がわからなかった。そして腹が立った、レインが居なくなって、エルオーネが居なくなって、哀しんでいるのが自分達だけだと思っているのか、と。

 結局レインの墓前にすら目通りは叶わず、村人にやられた怪我を診てくれた村医者は、疲れたように言ったのだった。あんた、もうここには来ないほうが良い、と。何故、と問うても彼はただ首を振るばかりで、訳を話してはくれなかった。

 その後、オダインに結婚指輪が「魔女封じ」だったと聞き、そのせいだとばかり思っていたのだが。

「レイン……俺の、子供産んだ、から、……んだ……のか……」

 口許に笑みが浮かぶのを自覚した。イデアが怪訝そうに首を傾げる。いつしか声が上がっていた。

「あ……ははっ、ああ……そうか、ははッ……そうか、そうだったのか……!」

 あっさりと氷解した謎の答えは、あまりにも残酷で、あまりにもレインらしい理由だった。

 膝を落として頭を抱えて、狂ったように笑い続ける男を、イデアは首を傾げて子供のように見詰めている。見詰めて、何を思ったか腕を伸ばし、頭を抱えてやんわりと撫でたりするのだ。ああそんなにも子供に見えているのか自分は、とラグナはまた笑う。嗚咽のようにわらう。

 わかってはいたのだ、レインの意志の強さなどは、優柔不断な自分の対極に居るかのように、或いはまるで同じ位置に居るかのように、頑迷なまでに一途だということは。

 一頻りの発作が治まり、イデアの腕の中でラグナは、かなりの長い時間を身動ぎひとつせずに過ごした。いつしかイデアは、ラグナを抱いたまま朗々と謡うように語り出した。

「レインのことはティンバー・マニアックスで知りました。あなたが記事にしていましたね。何処の誰とは書いてありませんでしたが、私にはわかりました。私も彼女も魔女ですから」

 単に金がなかったからなのか、それともレインのことを自慢したかったのだかはわからなかったが、随分と情報をぼかしてレインのパブを記事にしたことがあった。

「予感を覚えて、私は彼女を訪ねました。そこで頼まれました、もしあなたとエルオーネの帰りが間に合わなかったら、お腹の子を預かっていてくれないだろうか、と。私は承諾しました。そしてエルオーネが帰ってきた」

 オダインの奇行に辟易したラグナが、エスタに置いておくのも危険かと、エルオーネだけをウィンヒルに帰した。

「しかしエルオーネが到着したとき、レインは既にまともに話せる状態にありませんでした。エルオーネはレインの遺志を汲もうと、過去に遡ったのです。送られたのは私でした。私はエルオーネと共にレインの過去を観ました、レインとあなたの過去を、レインとエルオーネの過去を、そしてレインの遺志を。エルオーネは私に頼みました、レインの子供と共に連れていってほしいと」

 アデルを封印する前にエルオーネを帰していれば、或いはずっとエルオーネを手許に置いておけば、或いはエルオーネと共に帰っていれば、少しは何かが違ったのだろうか。

「私は村人に黙って赤ん坊とエルオーネを連れて消えました。レインの墓石をレウァール姓にしてほしいというエルオーネのメモだけを残して。これが五年前のエルオーネ誘拐事件の真相です。……何か、ご質問は?」

 与えられた情報は、至って単純であり、そして過多にすぎた。聞き終えてからも呆然と、時間を無駄にしてからようやっと口を開いた。

「レインと、エルオーネの意志……?」

「はい」

「……誘拐犯を、恨んでいました、ずっと」

「はい」

「すみません。あなたには……有難う」

「はい」

「……あの……子供とエルオーネは、今は」

「ここからが本題です。お願いが、あるのです」

 細い腕をのけて、顔を上げた。そういえば彼女は、何か頼み事があってここに来たのではなかったか。

「二人に関係することですか?」

「二人にも、そして私にも。そうですね……彼女の時系列で話すのが良いでしょうか」

「……彼女?」

 また話が発展しようとしている、と気付いて首を傾げた。イデアは抱き込んでいたラグナを解放して、手を引いて立ち上がらせた。

「魔女アルティミシア」

 聞き覚えのない名であった。

「エルオーネの力が、機械に保存されたデータという形で、未来に残ります」

「力……人の意識を誰かの過去に送る、あれか?」

「はい。その力を使って遠い未来の魔女が、私達魔女にジャンクションされるようになります。恐らく十年以上先の話です」

「え……?」

「その魔女を、あなたの子供が、倒します」

「……は?」

「その、少し前から始めないと、わからないと思います」

 そこからのイデアの話は、ラグナにとってはどうにも信じられないような話であった。過去形で話される未来。お伽噺のような未来の物語。

III

「遠い未来で、アルティミシアという愛されない魔女が生まれました。彼女を倒しに連日SeeDという武装集団が押し寄せます。彼女の心は怒りに満ちています。

 彼女は考えました。遠い過去、SeeDが生まれる時代まで遡って、SeeDを根本から根絶やしにしてはどうか、と。SeeDが生まれないようにしてはどうか、と。彼女はエルオーネと同じ力の機械を使って過去に来ます。

 しかし、彼女はSeeDの生まれる時間まで辿り着けませんでした。何の作用かはわかりませんが、彼女は今から十数年後のSeeD隆盛期にしか辿り着けなかったのです。彼女はその時代の私やアデルに接続し、エルオーネを探して更に過去に遡ろうとしました。そうしてエルオーネはアルティミシアを、あなたが封印するより昔のアデルに送って時間圧縮を始めました。

 時間圧縮。時間魔法の一つです。過去から未来までを一つにして、存在していられるのはアルティミシアだけになり、SeeDは生まれなくなります。世界は滅びるも同然です。

 無論、彼女が過去にそれを行ったにもかかわらず、我々が今ここにこうしているのですから、時間圧縮は失敗しています。十数年後、一人のSeeDが、時間を未来に進んでいって、アルティミシアの肉体を滅ぼしました。しかしそのSeeDは十数年後に帰れずに、つい先月の私の許に現れました。アルティミシアはそのSeeDを追って過去に来ました。

 つまり、私は先月、そのSeeDとアルティミシアに会ったのです。そして彼女の魔女の力を継承しました。私はアルティミシアの先代でもあり、アルティミシアは私の先代でもあります。

 わかりますか? そのアルティミシアを倒した迷子のSeeDこそが、あなたの子供です。まだこの時代にSeeDは存在しません。私はこれからガーデンというSeeD育成機関を創設します。魔女を倒すSeeDを生み出す庭を造ります。あなたの子供をそこで育てます。

 あなたの子供がアルティミシアと共に私の許に来た先月、それこそをSeeD誕生の瞬間にします。

 ……レウァール大統領。ガーデンを作る力を貸してください。あなたの子供が未来の魔女を倒すときのために力を維持してください。

 これがすべてです。……エルオーネの手紙を渡しておきますね」

IV

 魔女の手に現れ出た手紙を呆然と受け取って、ラグナは胡乱に視線を泳がせた。イデアへと、手紙へと。そしてまだ見ぬ子供へと。一体何にどう口を挟めば良かったというのか。

 もはや半分以上理解不能であった。何処までも現実離れした話であった、だからこそ、いっそ作り話などではないのだと信じられもした。

「時間……を」

「はい」

「悪い、ちょっと時間を……結論を出すには、時間をください」

 声は掠れていた。

「はい、何日でも」

「ああ、……いや。……論点の整理だけさせてください。まず……シードとやらの育成機関の創建、でしたっけ」

「はい。資金のほうは或る程度何とかなりそうなのですが、セントラの遺跡を用いたいと思ってますので、あれを扱える技術者がもう、エスタにしか居ないのです」

「ああ、成程……」

 セントラの遺跡は今のエスタでも太刀打ちできないほどの高度な技術で構成されている。他の国では改造すらままならないであろう。フィッシャーマンズ・ホライズンでも可能ではあろうが、シードの目的を聞く限り、彼等への依頼は難しそうである。一応フィッシャーマンズ・ホライズンとシュミ族にも連絡を入れることが、自分ならばできると思った。

 半ば決断をしている自覚は既に予感めいて存在している。ラグナの長所も短所も、直観で動けるその決断の早さにあると言って良い。

「あとは」

「そのときまで、続けてくださいますか? いずれ来たるべき時に子供達を守れるように」

「……大統領を? 王権じゃあるまいし、俺一人でどうにかできる問題ではないと思うんですが」

「その気のない人に続けさせるよりは簡単だと思います。それに……レインの夫にできないとは言わせません」

 手厳しいな、と苦笑する。確かに女王の夫は王である。レインを娶るということは、当時のラグナが良く理解はしていなかったとしても、そういうことを意味していた。

「私は恐らくその時期、既に私ではないでしょう。私の代わりに、子供達に方向性を与えられるように」

 他国の干渉を避けたのは、決してそのような理由からではなかったが、それさえなければ維持は簡単だと思われた。何がどう巧く転ぶかわからないものだ。この国の人間は、ラグナが独裁者にならないことを知悉しており、だからこそラグナをトップに据え続けることを望んでいる。アデルの独裁の反動としての独裁的な民主主義というのも奇妙な話ではあるが、それが事実であった。辞めたいなどと、本当はとうに言ったことはあるのだから。

「以上です」

「……はい。取り敢えず……じゃあ、宿の準備を」

「いえ、結構です。また明日お伺いしても宜しいですか。現在の進行状況を伝えます」

「いや、明日は」

「では明後日は」

「十五時からなら……ってだから」

「私は魔女ですよ?」

 イデアが左手を翳した、と思ったら、その向こうにはセントラの風景が広がっていた。目を見張ったラグナの視線の先では、イデアが嫣然と微笑んでいる。左腕の計器は相変わらず振り切ったブルーオーヴァ。全く以て障壁など役には立たない。本来ならばトラビア渓谷を渡ってくる必要さえなかったはずだった。

「もうあなたは訊かないんですね」

「え?」

「エルオーネの居所も、その子供の名前すらも。私はあなたを選んで良かったと思いますよ、雨と海の間で花冠を置かれた人」

 宜しく頼みます、という言葉を残して、イデアは空間に溶けた。通常空間に戻った壁を眺めて、ラグナはその場にへたり込む。限界だった。許容量を超えて脳細胞が悲鳴を上げていた。

 子供達のことを、訊かなかったのか訊けなかったのかは、自分でも判断が付かなかった。ただ、聞いたら動けなくなるような予感はしていた。

 ラグナの感情だけで事を進めて良いのならば話は簡単だった。イデアを封印して、エルオーネとその子供を取り返して、そんな未来の驚異などには目を瞑って、その瞬間まで楽しく幸せに。

 未来の崩壊を知りながら、皆で、楽しく、幸せに?

 視線を落とす。エルオーネの手紙が手の中にあった。読まなくとも内容は容易に想像できる。エルオーネの意志の強さも知っている、彼女なら、そしてレインなら、言いそうなことは如何にも簡単に思い浮かんで、くちびるを噛んだ。今尚エルオーネが帰ってこないことが、既に彼女の結論なのだろう。エルオーネもまた、頭に花冠をかぶった人間だったのだから。

 この五年、一切をラグナに知らせなかったのは、恐らくイデアではなくエルオーネのほうの意志であろう。何しろ彼女は、過去に利用されそうになったらしいアデルの過去を観て知っている。

 働かざる者食うべからず。

「……自分のできる範囲のこともやんねェでサボってたら、あとで飯抜きにされちまうのかな……なぁ、レイン、エルオーネ、……」

 しかし子供は、未来を決める自我さえ持たない幼子はどうなのだ、と言い訳しようとして、だが気付いてしまった。

 そうだ、未来の魔女はこの時代の魔女達に接続するのだと言っていたではないか。そしてレインはイデアを選んで子供を託した。そういうことだ。

「世界の英雄にするか……世界の破壊者にするか……?」

 選択肢など残されてはいなかった。

V

「しっあわっせはー、あーるいーてこーない、だーから歩いていくんだねー……ってか」

 そして世界は平和になった。

「めでたし、めでたし……か?」

 ウィンヒルの上空を青いガーデンが通過してゆく。レインの墓碑にふれながら、ラグナはそれを見送った。

 あれから十二年かかった。エルオーネともその子供とも一切の連絡も交わさずに、ただ地盤を固めてシミュレーションを繰り返して、女神の庭で育てられているはずの子供が運命を切り開くのをひたすら待った。

 名をスコールというのだと、聞いたときに思わず笑ってしまった。雨繋がりなのだろうが、出逢った彼のイメージとしては風花のほうが近い気はした。トラビアでは雪のことを妖精の贈り物と言っていたことを憶い出す。また笑いが零れた。まさかレインを知る前から自分は子供の存在を知らされていただのと、さすがに想像の埒外であったのだ。

「なぁにおじさん、スケベ笑い」

「すけ……おまえなぁ。せめていやらし笑いって言ってくれよ」

「……違いがわかんないわよ」

 十七年振りに再会したLadyは、正しくレディになっていた。Lordの対となる言葉で、正しく女王Ladyであったエルオーネは、レインの次代となるはずだったがしかし、彼女は何故か花輪を冠とした聖王たる白い雄牛Elとしての名も頂いていた。その意味も、彼女の運命が名の通りに進んでしまった意味も、ラグナにはわからない。

 そしてLordたるラグナは、正しく運命に供儀せらるるべきただの生贄だった。花冠を頭にかぶせられ、油を塗られてキリストと呼ばれ、女神に捧げられて次代の豊饒のために花たる血を流すべき、聖なるものにして不浄の聖王。

 子供は――イデアの話からてっきり娘なのだと思い込んでいた息子は、聖婚の運命を逃れられたのだろうか。それもラグナにはわからない。アルティミシアに娶られずとも、彼が選んだ相手は紛れもなく魔女であった。

 しかし少なくとも今、子供達も、そして自分も、幸せと呼べるような環境にあるのだということは、ハインに感謝しようと思う。

「昔近所に居たじっちゃんが言ってたんだよ。スケベは恥ずかしいことだがやらしいことは恥ずかしくない、ってな。実は俺にも意味わかんねぇんだケド」

「うん、本当にわかんない」

 そう言って笑う、ラグナのもう一人の娘は幸せそうだった。花に囲まれて、実に幸せそうに笑んでいた。

「あのじっちゃんに接続してみればわかんじゃねえか? もうとっくに亡くなってる人だからなぁ、意味聞けもしねえんだ」

「やだ、おじさん無理よ。私、知ってる人を知ってる人にしか送り込めないもの」

「なーんだ、じゃ無理だなー残念。そうだったのか――。……?」

「……おじさん?」

 ひどい違和感を覚えた。人の顔と名前を憶えていることにはとんと自信はないが、大まかなところを捉える記憶力はさして悪くもないのだ。イデアはあのとき、何と言っていたか。

 いきなり険しい顔で押し黙ってしまったラグナを、エルオーネが多少怪訝げに見詰めていることに気が付いて、前髪を掻き上げた。

「あー……と、エル」

「どうしたのよ、一体。急に黙っちゃって」

「いや、悪ィ。あのよ、ちょっと訊きてえんだけど。レインが亡くなったとき、おまえイデアさんのこと知ってたのか?」

「? 知ってたわよ、というか知ったのよ。だってママ先生はレインについて看病してくれたんだもの」

 つまりエルオーネが帰ったとき、その場に居たということか。ならば例外が存在したというわけではないのだ、と愕然とする。

 違和感ははっきりと形を持って疑念へと変わる。

「おじさん?」

「……エルオーネ」

「だからどうしたのよ」

「知ってる人を知ってる人に、と言ったな。それがおまえの能力なんだな?」

「……そうよ。だから、何――」

「何でアルティミシアは、知りもしないこの時代の魔女に、自分を送り込むことができたんだ?」

 エルオーネの顔から完全に笑みが消えた。何処か透徹したその表情は、スコールにも似ている。何かの覚悟を決めた人間の表情だった。

 ジャンクションマシン・エルオーネは、エルオーネの力をそのまま模したのだと、設計者のオダイン自らが言っていた。無差別にジャンクションできるものならば、アルティミシアは初めからエルオーネに接続すれば済む話だったはずである。かと言って魔女同士だけが例外だったわけでもない、まだ魔女の力を継承してもいなかったリノアにさえジャンクションしてみせたのだと聞いた。まだラグナの知らない何かの法則が、そこにはある。

「駄目よおじさん。そこに突っ込んじゃ、誰も幸せになれないじゃない」

 英雄が悪を倒し、世界は平和になり、めでたし、めでたし。

「……イデアさんの歳を聞いた」

「あら。……若いでしょ?」

「魔女は……姿を変えられるんだな?」

 その外見と実年齢は、あまりにもそぐわなかった。また封印したアデルも、とても人間とは思えない身長だった。

「自在に、とは言わないけどね」

「アルティミシアは……誰だったんだ? イデアやアデルを知っている人間だった、違うのか?」

 魔女は殺しても死なない。魔女は魔女の力を誰かに継承するまでは死ねない。ラグナ達は知っていた、だからこそ誰にも接触できないようにアデルを封印して宇宙へと飛ばした。空気のない状態で、十七年間も生き続けたアデル。或いは今回の月の涙がなければ、何百年何千年と生き続けたのではないか……?

「操られてたときにイデアが好んで胸元を飾っていたファー、なぁ、あれはまさかス――」

「ラグナ」

 遮り、エルオーネはまるで聞き分けのない子供を宥めるように、後じさるラグナに手を伸ばし、頬を撫ぜた。

「ラグナ。アルテミス・タウロポロスって知ってる?」

「アルテ……?」

「雄牛殺戮者よ。アルティミシアは私を殺す者だった、私を誘拐したアデルにもアルティミシアが関与していた。そのせいでレインとラグナは最後に会えなかった」

 もはや彼女は笑んでいる。幸せそうに微笑んで、死と再生を司る白き月の神はそんなことを言う。

「心配しなくても大丈夫よ、おじさん。あの子は違うわ、私もあの子とは戦わない」

 めでたし、めでたし。

「そうならないように、私、頑張ったもの。ラグナも、頑張ったでしょ?」

Appendix

ページ情報

Document Path
  1. ルート
  2. 創作部屋
  3. FF8
  4. Messiah ben reLoi(カレント)
Address
日月九曜admin@kissmoon.net