彼の睫はいつも緊張に震え、そのむこうにちらちらと、焔を揺らめかせる瞳を見せつ隠しつ、何某かを一途に訴えかけていた。
今も。
「スコール! こっちこっち!」
気付かぬわけがない。生物として生まれた以上、それに気付かぬことは罪だとさえ言えようが、この場合、それを認めることもまた罪と言えた。欲望。諦観。自分に対し発情を訴える相手に気付かぬほど、男は女を知らないわけではなかったし、無慈悲で瀟洒な駆け引きを楽しむ趣味を無意識に持ち合わせていたわけでもなかった。
「……声が大きい」
彼は自分と同じ性を持つ人間で、かつ、自分と同じ血を持つ人間だった。息子。一言で言えば、男にとっての彼はそういう存在であった。
「えー。おまえの名前呼べんの、嬉しいんだよー!」
静かに歩み寄ってきた彼と並んで歩く、ふとした瞬間にふれた指先。走る緊張感を心地好く思う自分に苦笑し、ラグナは苦笑めいた吐息と共に紫煙を吐き出し、すでに短くなっていた煙草を地に落とす。
「おい……」
「わーってるって、ちゃんと拾うからよ」
踏み潰され、撒き散らされた伽羅色の煙草の葉が、寝台に散る彼の髪を連想させ、指先の動きを止めさせた。そっと、冷たい特殊素材の道上で指先を滑らせ、円を描くようにそのいろを愛撫する。きっと彼にはわかるまい、と思いながら。
「何やってんだ、あんた……」
「……葉っぱ。細かくて取れねーよ、スコール」
困ったように見上げれば、呆れた体で、それでもしゃがみ込んで手伝い、彼はラグナの散らしたそれらをひとつひとつ、黒い革手袋に包まれた長い指で摘み上げてゆく。繊細そうに指先が、冷たい地を撫でてゆく。
「……もう、いいぜスコール」
「あんたな、自分のあとしま――」
「アドハムが来た」
アダム。ヒトの名を持つそれは、名の示すとおり造られた者であり、創造主に逆らうすべを持たぬ者であった。しゅうしゅうとあえかな音を洩らしつつ、洗浄液を撒いて自らの脚に付いたモップを回す。自分と何が違うのだろうかと思う。コマンドに何の迷いもなく従うそれと、それに消された伽羅色に反射的に憤りを覚える自分と。何も違わない、とラグナは思う。
通り過ぎて遠ざかってゆくアドハムを視線で追う男を怪訝に思ったのか、彼が何処か心配をも含ませた問いを投げかけてくる。
「どうした?」
「……スコール」
「……なんだ」
彼の睫はいつも緊張に震え、そのむこうにちらちらと、焔を揺らめかせる瞳を見せつ隠しつ、何某かを一途に訴えかけていた。
今も。
彼から届く音無き声はひとつではなかったが、どれを選ぶこともなく緊迫感を間に漂わせたままでいるのは、彼のためでも自分のためでもなく、ただただ純粋な戸惑いであったかもしれない。
ずっと、ふれることも見ることさえ許されなかったラグナの妖精は、ふれることが許されたそのときには、ラグナの息子となっていた。
「今日。メシ、バラム料理が良いな。食べ飽きてっか?」
「……腹が減ってたのか?」
「うん」
「別に、俺に希望はないからそれでいい」
「明日はエスタ料理にしよう」
「あんたが食べ飽きてるんじゃないのか?」
「食べ飽きることがないから、その国でずっと食べ続けられてるんじゃないのか?」
「……それもそうだな」
「今日はバラム、明日はエスタ、――」
「明後日は?」
「またバラム。んで明々後日はエスタ」
「何考えてるんだ……」
「美味しいもののこと」
「……楽しそうだな、あんた」
「ああ、楽しいさぁ! んでその次はぁ……」
「……もう、帰ってる」
そして、彼の帰る場所は、親の許ではなかった。
ラグナの許ではなかった。
遠く離れた、彼の瞳の色のような澄んだ青の空と海に囲まれた異国で、彼もまたラグナと同じく、英雄として生きていた。しっかと生きて、それはもう彼等の生まれ故郷をも忘れさせるには充分なほどに、しっかと。
「ウィンヒル」
「え?」
「行きてぇなあ」
「……また、唐突だな」
「おまえは?」
「……あそこ、行くと」
「うん?」
「あんたが、つらそうだ」
「辛くなんかねぇぜ?」
「……そうか」
「うん」
「だって、幸せそうに見えるから、あそこであんたは」
「え?」
「……なんでもない」
「……そうか」
「ああ」
彼は時折、その緊張感にそぐわぬ、ひどく望みの薄げな吐息を吐いた。否、彼の深い望みは遠く、ラグナからはとても遠く、彼の母親に向けられていた。返されることのない愛情に、彼の透明な欲望は受け止められる器のないまま、無限に大きくなってゆく。
彼は、母親を知りたがっていた。
だから彼は、母親になりたがっていた。
彼にとってラグナに愛されることは、父親に母親を愛させることと同義だった。
「ラグナ、もう行かないと」
「……ああ、そうだな」
先に立って歩き出した彼の背中に、唐突に大きな声で呼びかける。
「スコール!」
振り向いたスコールの瞳は、不意を付かれたかたちで、そこに何の欲望も諦観も刷いてはおらず、妖精のような透明感を以て、ただひたすらに不純だった。