ねぇスコール、世界は平和になったね、わたしは悪い魔女に乗っ取られなくて済むようになったね、今の魔女はわたしだけだね、悪い魔女は居なくなったね、なのに未来でまた悪い魔女が生まれてしまって、悪い魔女はわたしたちの時代に侵出してきて、わたしたちはそれを倒して、また世界は平和になって、また悪い魔女は生まれて、……あれ?
ねぇスコール、わたしたちは本当に悪い魔女に勝ったの?
……さぁ。
ねぇスコール、アルティミシアは本当に悪い魔女だったの?
……さぁ。
ねぇスコール、悪い人は人間にも居るよね、なのに魔女だから悪い人って、この世界の何処に居るの?
……人間の幻想の中に。
FF8のテーマは「愛」だそうだ。主人公であり人間であるスコールが、敵であり非人間(魔女)であるアルティミシアに打ち勝ち、世界は平和になった。一見するととてもとても素敵なヒロイックストーリィの構造である。
が、FF10を見るが良い。このエンディングが、何の解決にもなってはいないことは、すぐにわかる。
悪い魔女は居なくなった、主人公達が打ち払った。なのに人間は、エンディングのその先で、主人公が愛で以て守ったはずの魔女という概念に、「amor(愛)」とは正反対の「malus(悪)」を付与し続けるのだ。
Ardente veritate
Urite mala mundi
その結果が、何か。人々の幻想どおりに振る舞う魔女が生まれた。人間は「悪い魔女」を作り出したのだ。テーマの否定は物語によって既に為されている。アルティミシアは愛されなかった。更に、その悪い魔女を作り出す「未来」は、アルティミシアが過去に継承したことで「過去」として再生産が確定してしまった。愛されない魔女は再生産され続ける。
スコールとエルオーネが過去に自分の運命を作ってしまったように、魔女もまた、過去に自分の運命を作ってしまったのだ。
悪の魔女を伝説のSeeDが打ち払う。そしてその魔女を人間は作り出す。そしてその魔女を伝説のSeeDが打ち払う。そしてその魔女を人間が――。
永久に繰り返される循環。エンディングがオープニングに繋がった本編そのままに、FF8の世界は循環し続ける。それはFF10で完全に「テーマのアンチテーゼとして」存在したはずの循環が、FF8では「人間と魔女の運命として」提示されているのである。のみならず、イデアやエルオーネは積極的に、スコール達は自覚なしに、その運命の再生産に従事しており、壊す気配は全くと言って良いほどないのである。
あなたの戦いの物語を終わらせなさい!
それが誰かの悲劇の幕開けだったとしても!
スピラに充ち満ちた死の匂い。腐敗した信仰。死者の生み出す永遠の循環。それを終わらせるために、物語によって愛と共に消されたFF10の主人公。
それを永遠に繰り返すために、物語によって愛を得させられたFF8の主人公。
プレイヤにジャンクションしていたプレイヤは、彼の辿った経緯の結果と未来とを知って、その「愛」とやらの、何処に希望を持って良いのだ? 何を以てハッピーエンドと言って良いのだ? スコールとリノアの純愛にか? 主人公が救ったのは未来でも人間でも魔女でもなくただ恋人だった、それだけを見て、それ以外には目を瞑れと?
当の本人達が、それだけを見ているわけですらないのに?
未来なんか欲しくない。今が……ずっと続いて欲しい。
「未来を知った」リノアの懸念は当然だ。魔女に明るい未来などない。たとえリノアひとりがスコール達に肯定されたとしても、人間達が魔女にmalusを幻視し続けることに変わりはなく、その先に「悪い魔女にされてしまった」アルティミシアが生まれることは、最悪なことに過去になってしまった。
過去は変えられない。しかもこの物語は、そのような設定なのである。
奇しくもリノアが宇宙で言った望みは、アルティミシアによって叶えられてしまった。「今」のスパンが極限まで薄められ、リノアの時代からアルティミシアの時代までの「今」がずっと続いて
しまう。
未来に物語を終わらせることは過去に誰かの物語を生み出すことであり、そしてそれは変えられない。硬直しきった運命。恋人を救った、世界を救ったつもりの物語の終焉は人間と魔女の悲劇のはじまりだった、それで良いと?
物語の構造そのものが、テーマとやらを極端に矮小化させている、ないし否定している。構造を見ると、スコールとリノアの物語など、ほんの些末事にしかすぎない。この逆転現象は何だ? スコールとリノアは、構造的には人間−(未来のラスボスと同じ)魔女の対であることにのみ意味があるのだ。逆に言えば、だからこそ物語としてはヒロインはリノアでなければならなかったし、母はイデアでなければならなかった。魔女は主人公にとって愛する者達であった、主人公は彼女達を守るために戦った。なのに物語はスコールにこう焚き付ける。
Ardente veritate 燃えるような真実で
Urite mala mundi 世界の嘘を焼き尽しなさい
そして結果、スコールは一体、何のmala mundi(この世の悪)を焼き尽くすことができたというのだ? あれだけアルティミシアまでをも悪い魔女ではないかのように描きながら!
恐らく「悪い魔女」など何処にも居ないことに意味がある。主人公が守ろうとした象徴を倒さねばならなかったことに意味がある。なのに人間によって悪い魔女が生み出される、そこにこそ構造の本質がある。
魔女の望みですらなかった「魔女を苦しめ続けた人間に対する魔女達の復讐」、それはアルティミシアが過去に継承してしまい、自身の存在を過去のものとしてしまった時点で、完了している。FF8の世界は、FF10で徹底的に否定された無限の循環に捕らわれてしまった。
主人公であり人間であるスコールが、敵であり非人間(魔女)であるアルティミシアに打ち勝ち、世界は平和になった。この結末の本当の構造は、魔女すら望まぬ、魔女の人間に対する復讐の完成である。
もしこの物語を「人間対魔女」の戦いとして見るならば、大局的には完全に魔女の勝利で終わっている。主人公の勝利は、ゲームのエンディングは、人間の敗北を確定させるトリガにすぎなかった。もし人間代表としての主人公に肩入れしていたのならば、何のカタルシスも得られない結末である(そう思えないように配慮はされていると思うが)。無論、哀しきさだめの魔女に肩入れしていても同様である。
この物語は、本当にハッピーエンドだったのか? ハッピーエンドにするためには、足りないピースが多すぎる。実はまだ何も始まってはいないのではないか? この物語は序章にすぎず、この物語を本当に物語たらしめるのは、エンディング後ではないのか?
スコールの接続がなくなってのちに、ラグナの本当の英雄としての物語が存在していたように、我々が接続できなくなってのち、初めてスコールの英雄譚が語られるのではないか?
エンディングで、ガーデンの向かってゆく先に、月が見える。その月には、アルティミシアが召還したグリーヴァの姿とは別の、スコールのペンダントバージョンのグリーヴァが映し出されている。ただの象徴だとは、思いたくないのだ、その先にあるスコールの物語を、信じたいのだ。
このままでは、人間にとっても魔女にとっても、未来はない。人間は悪い魔女を再生産し続け、魔女は苦しめられ続け、魔女は人間を苦しめ続ける。この物語をハッピーエンドと呼ぶことなど、もうわたしには決してできない。一体誰が何処で何を間違えて、こんな誰にとってもの苦しみと哀しみの再生産システムができあがってしまったというのだ?
こんなものがハッピーエンドだと仮定するのならば、FF10で直ぐ様それを否定して見せたのは、一体何故だ?
俺の前に伸びていた何本かの道。その中から俺は正しいと思った道を選んできた。
……そう思いたいんだ。あんたが笑顔で導いてくれた、この道を選んだことは……正しかったのか?
きっとあの先には、物語がある。人間も魔女も幸せになれる物語が、きっと。そう望むくらいの未来は、既にして過去だが、変えることは可能なのだろうか。あれをはじまりにしないためには、何をどうすれば良かったのか、否、どうすれば良いのか。
物語の構造的には、FF10は正しくFF8-2ないしAnti-FF8である。スコールとリノアのハッピーエンドに隠蔽された物語が構造的に抱える悲劇を、より万人にわかりやすい形で本筋として悲劇的に再構成したのがFF10の世界観であり、主人公ティーダはその悲劇の再生産の螺旋を壊すために、ユウナと命を以て決別しなければならなかった。
スコールとリノアだけを見ればハッピーエンドなのに、物語の構造としてはアンハッピーエンドだったFF8。ティーダとユウナだけを見ればアンハッピーエンドなのに、物語の構造としてはハッピーエンドだったFF10。個々の物語自体が、何処までも分裂する二つの側面を持っており、それらが正反対の位置に置かれているふたつの物語。
まるで鏡に映された正反対の対称的な虚像。
同じ構造を起点として、まるで正反対の結末に向かって突き進んでいった、ふたつの物語。あり得たかもしれない互いのもう一つの未来。
なのに、FF10-2ではティーダを復活させ、10で掲げられた再生と循環へのアンチテーゼは引っ繰り返され、まるでFF8のような物語に戻ってしまった。否、戻ったのではないのか、FF10の物語にとっては、もう一つの未来を試してみた結果の、ティーダとユウナのハッピーエンドか。
ならば、FF8にも、もう一つの未来があると、夢見るくらいは、許されることだろう?
FF8にしろFF10-2にしろ、ハッピーエンドに見えるほうがアンハッピースタートって捻くれっぷりが、もうね。
アルティミシアの目的なんて枝葉にすぎない、エルオーネの能力なんて関係ない、スコールの成長物語なんてどうでも良い、リノアとの恋愛なんて運命のために用意された餞に他ならない。それらはすべて構造の前に無意味と化す。この物語の抱える本質的な絶望の循環は、何処までも深い。この物語に根本的に惹かれる部分があるとすれば、その悲劇故にだ。
そしてその循環を愛すればこそ、壊さねばならないとも思うのだ。あの